今回読んだのは、ニーチェの『道徳の系譜』。
道徳に関する根本的な価値の転倒を狙った三本の論文集だ。
箴言、もしくは、アフォリズムによって自らの哲学を語ることの多かったニーチェが、珍しく論文という形式でその思想を示した。
箴言には解釈が必要だが、本書に含まれる論文にはその解釈に必要な基礎的な考え方が明確な形で書かれている。
しばしば誤解されることの多かったニーチェは、自らの哲学に対する弁護という使命も本書に託した。
そのため、これはニーチェの思想への入門書、もしくは手引きとも言える。
以下、各論だ。
(※なお、一部ユダヤ人に関する部分で差別的と受け取られる向きのある表現が含まれるが、ニーチェの本に関するブログ筆者の読書記録という性格上筆者の見解を表すものではないため、特に割愛はしないことを断わっておく。)
1.「よい」と「わるい」について
(a)「よい」と「わるい」の起源はどこか
道徳的に「よい」ことと「わるい」こととされている事柄は、いつから「よく」なり、いつから「わるく」なったのか。
つまり、「よい」と「わるい」という道徳的価値の起源はどこにあるのか。
ニーチェによると、この問いに対してイギリスの心理学者たちの与えた説明は、まったくもって、的を外している。
すなわち、イギリスの心理学者たちは、「非利己的な行為は、その行為を示され、その行為によって利益を受け取った人が、その行為のことを『よい』と呼んだのだ」という。
だが、ニーチェは、全く逆の発想をする。
「よい」事柄は、行為を受けた側が決めるものではなく、行為者が「よい」と決めたことが「よい」事柄となったのだ。
では、その行為者とは何者だったのか。
そして、その行為とはどんなものなのか。
(b)高貴な者、強い者が「よい」。下賤な者、弱い者は「わるい」。
「よい」行為と「わるい」行為を決めた者は誰か。
それは、力のある人間だった、というのがニーチェの主張だ。
ニーチェによると、高貴な人、強力な人、より高位にある人が、自分自身と自らの行いを「よい」と定め、反対に劣った人、下賤な人、弱い人を「わるい」と呼んで蔑視したのが、「よい」と「わるい」という道徳的価値の起源だという。
その論拠となっているのが、ニーチェ流の言語学だ。
例えば、ドイツ語のschlecht(わるい)は、schlicht(素朴な)と同義である、とニーチェは言う。
高貴な、力のある人間に比べて、より劣った素朴な人間のことを、「わるい」と呼んだのがschlechtの原義だという。
また、ラテン語のbonus(よい)は、dounus(二つの)から派生したと考えてよいという。
bellum(戦い)、duellum(同じく、戦い)、duen-lum(二つのものの争い)の中にdounusという言葉が含まれているとすれば、bonusはそのまま「戦士」という意味だと受け取っていい、とニーチェは語る。
この言語学的解釈に妥当性があるのかどうかは、正直不明だ。
『悲劇の誕生』の読書記録にも書いたように、ニーチェは時々とんでもないほど強引な論理によって持論を進める。
このニーチェ流言語学に学問としての正確性があるのか、むしろ結論ありきの無理やりの論法ではないか、と問うことには一定の意味がある。
とはいえ、ニーチェは、「よい」と「わるい」という道徳的価値の起源を、高貴な力強い人々に求めた。
前史においては、強い人間が「よい」と決めれば、それは「よい」行いになったのだ。
(c)キリスト教の勝利と、「よい」「わるい」の道徳的価値の転倒
翻って、現代では「よい」「わるい」の道徳的価値は、全く転倒してしまっている、とニーチェは考えた。
その根底にあるのは弱者の抱いた「反感(resentment)」、そしてキリスト教のヨーロッパにおける勝利だ。
強い人間が支配する世界において、弱い人間はどのように生きればいいか。
下賤な者にとって、高貴な者に戦いを挑み勝利することは不可能だ。
そこで、弱者は精神的な戦いで勝利することを思いついた。
すなわち、この弱者(ニーチェが僧職的人間と呼んだ人々、それはユダヤ人を指す)はキリスト教を発明することによって、強者に対して精神的な戦いを挑んだのだ。
「惨めなる者のみが善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。[…]彼らのためにのみ至福はある。―これに反して汝らは、汝ら高貴にして強大なる者よ、汝らは永劫に悪しき者、残忍なる者、隠逸なる者、飽くことを知らざる者、神を無みする者である。」(32ページ)という論理で身を守ることによって、現実の世界では勝てない相手に対して、空想の世界で精神的な復讐を果した。
こうして、前史時代では「よい」とされていた強者が「悪い」者となり、「わるい」とされていた弱者が「善い」者となることで、道徳的価値がひっくり返った。
言いかえれば、「よい」「わるい」という道徳的価値が、「善」と「悪」というもう一つ別の道徳的価値によって置き換えられたと言える。
これを成し遂げたのは弱者であるユダヤ人の抱いた「反感」と、その反感が創り上げたキリスト教という名の巨大な妄想だった。
こうして、人間は強さを失い、同時に強い人間に対する憧れと畏敬の念が失われてしまった。
「人間を見ることは今ではもう倦怠を感じさせる―これがニヒリスムでないとすれば、今日ニヒリスムとは何であるか・・・・・・ われわれは人間に倦み果てているのだ・・・・・・」(46ページ)。
どこか病的な弱々しさ、不健康な、青白い顔をしたうらなりの道徳、そしてニヒリスムが現代を覆っている。
ニーチェの描いた画は、人間が強さと輝きを失い荒廃したヨーロッパの世界だった。
・・・・・・
次回に、続きます。