ここから少し、論理学的な話になります。
31 我々の思惟は二大原理に基づいている。一つは矛盾の原理で、それによって我々は、矛盾を含むものを偽と判断し偽に反対な若しくは偽に矛盾するものを真と判断する(239頁、強調原著)。
まずは矛盾の原理です。
矛盾を含むものは「偽」、つまり真実ではない。
この偽に反対であるか矛盾するものこそが「真」、つまり真実なのです。
32 もう一つは十分な理由の原理で、それによって我々は、「何故こうなってああはならないかという十分な理由がなければ、どんな事実も真であることは若しくは実在していることができず、どんな命題も真実であることができない。」と考える。尤もそういう理由は我々に知れない場合が極めて多い(239‐240頁、強調原著)。
何事も、理由がなければ、それが真実であることも実際に存在していることもできない。
しかしその理由というものは、私たちには分からないことが多い、ということです。
(「命題」という言葉が出て来ましたが、これは、真偽を判定することのできる文のことです)
33 真理も二種ある。思惟の真理と事実の真理とである。思惟の真理は必然的なものでその反対が不可能であり、事実の真理は偶然的なものでその反対が可能である。(略)(242頁、強調原著)
思惟の真理の方は、分析することでその理由が分かるといいます。
この真理を、どんどん簡単な形に分解していけばいいのです。
そうすると最後には、「単純な観念」、「原始的な原理」だけが残りますね。
しかし、事実の真理にも、理由は必要ですよね。
この世界の事象の中にも、理由は必要です。
ただ、自然の事象は極めて多様で、物事は無限に分かれるので、それぞれの理由に分解していけば、限りがないのです。
とても細かいところに行き着きますよね。
そしてこの細かいところをいくら遡っても、前の理由にはまた理由があり、そしてその理由にもまた理由が…、ということになって、進みませんね。
なので、その最後の理由は、この無限のつながりの外にあると考えなければなりません。
そうすると、事象の最後の理由とは、偶然的なものではなく、一つの必然的な実体の中に存在するはずです。
そしてこの実体のことを、神というのです。
単子は、その内部に変化の原理があるのでしたね。
この単純な実体の中には、部分は無いけれども、状態の変化や関係はあるということです。
14 一即ち単純な実体の中に多を含み且つ之を表現する推移的な状態は、所謂表象に他ならない(222頁、強調原著)。
「表象」という言葉が出て来ましたが、これは何でしょう。
表象には、意識に上るものも上らないものも含まれます。
それは、「一」の中に「多」を含んだり表したりする単子の作用である表現のことです。
難しいですね…。
単子とは、ひとつの「精神」のようなものと考えられます。
例えば、ある表象から他の表象へ変化したり移ったりする内的原因のことを、欲求というのです。
この表象は、単純な実体に求めるしかありません。
そしてこの単純な実体の中には、表象と表象の変化しかないのです。
この単子というものは、完全なのです。
内的作用の源も単子自体です。
そしてそれゆえに、「非物体的自動体」となっているのです。
そして、ライプニッツは、ただ表象だけしか持っていない単純な実体を「単子」と呼び、それよりも判明な表象と記憶を持つ実体を精神と呼ぶのです。
26 記憶は精神に一種の連絡作用を与える。これは理性を模倣しているものではあるが、理性とは区別しなければならない。動物が何か自分を激しく動かすものを表象すると、以前に同じような表象を持ったことがあれば、記憶の表現によって以前の表象の中でそれと結合していたものが又起りはしまいかと期待し、そのときと同様な知覚を持つようになるのは、我々の知っている通りである。(略)(235頁、強調原著)
例えば、棒で叩かれたことのある犬に棒を見せると、その犬は逃げますね。
こうした動物に与える作用は、以前に持った表象の大きさや数から来るといいます。
ただし、人間と他の動物とは違います。
それを分けるのは、理性と知識だと考えます。
これが所謂「精神」なのです。
30 我々は又、必然的真理の認識及び抽象によって高められて反省作用に到達する。反省作用は我々に自我というものを考えさせ、又我々の中にあれが有るとかこれが有るとかを考察させる。そうやって我々は、自分というものを考えることによって、同時に存在とか実体とか単純体とか合成体とか非物質的なものとか乃至は神までも考え、我々に在っては制限を受けていることが神に於ては制限がないということを会得する。つまり、この反省作用は我々の思惟の主要な対象を供給するものである(237頁)。
自我とか、存在とか、神とかについて考えるのも、人間だけなのですね。
この単純な実体の中には、部分は無いけれども、状態の変化や関係はあるということです。
14 一即ち単純な実体の中に多を含み且つ之を表現する推移的な状態は、所謂表象に他ならない(222頁、強調原著)。
「表象」という言葉が出て来ましたが、これは何でしょう。
表象には、意識に上るものも上らないものも含まれます。
それは、「一」の中に「多」を含んだり表したりする単子の作用である表現のことです。
難しいですね…。
単子とは、ひとつの「精神」のようなものと考えられます。
例えば、ある表象から他の表象へ変化したり移ったりする内的原因のことを、欲求というのです。
この表象は、単純な実体に求めるしかありません。
そしてこの単純な実体の中には、表象と表象の変化しかないのです。
この単子というものは、完全なのです。
内的作用の源も単子自体です。
そしてそれゆえに、「非物体的自動体」となっているのです。
そして、ライプニッツは、ただ表象だけしか持っていない単純な実体を「単子」と呼び、それよりも判明な表象と記憶を持つ実体を精神と呼ぶのです。
26 記憶は精神に一種の連絡作用を与える。これは理性を模倣しているものではあるが、理性とは区別しなければならない。動物が何か自分を激しく動かすものを表象すると、以前に同じような表象を持ったことがあれば、記憶の表現によって以前の表象の中でそれと結合していたものが又起りはしまいかと期待し、そのときと同様な知覚を持つようになるのは、我々の知っている通りである。(略)(235頁、強調原著)
例えば、棒で叩かれたことのある犬に棒を見せると、その犬は逃げますね。
こうした動物に与える作用は、以前に持った表象の大きさや数から来るといいます。
ただし、人間と他の動物とは違います。
それを分けるのは、理性と知識だと考えます。
これが所謂「精神」なのです。
30 我々は又、必然的真理の認識及び抽象によって高められて反省作用に到達する。反省作用は我々に自我というものを考えさせ、又我々の中にあれが有るとかこれが有るとかを考察させる。そうやって我々は、自分というものを考えることによって、同時に存在とか実体とか単純体とか合成体とか非物質的なものとか乃至は神までも考え、我々に在っては制限を受けていることが神に於ては制限がないということを会得する。つまり、この反省作用は我々の思惟の主要な対象を供給するものである(237頁)。
自我とか、存在とか、神とかについて考えるのも、人間だけなのですね。
今回から勉強したいのは、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 1646-1716 ドイツ)です。
テキストとして『単子論』(河野与一訳、岩波書店、昭和26年)を扱います。
(絶版なので、イメージがありません)
さっそくですが、「単子」とは何でしょう。
なんだか、分子や原子や電子の仲間のような感じがしますが、そうではないようです。
1 我々がここに論ずる単子というものは合成体の中に入る単純な実体に他ならない。単純なとは部分が無いということである(210頁、強調原著。歴史的仮名遣・旧漢字は筆者が現代仮名遣い・新漢字に改めた。以下同)。
合成体があるからには、単純な実体がなくてはなりません。
合成体とは、単純な実体の集まりなのですから。
この単純な実体のことを「単子」と呼ぶようです。
ここまでのところ、原子と何が違うのか分かりませんね。
3 ところで部分が無いところには拡がりも形も可分性も有り得ない。それでこれらの単子は「自然の本当の原子」であり一口にいえば「事象の要素」である(214頁)。
科学者の考える原子は、科学的方法ではそれ以上分けることができませんが、それには「拡がり」がありますから、少なくとも概念上はまだ分けることが出来ます。
また、数学的な「点」には、拡がりはありませんが、これは非事象的なものであって、「自然」や「事象」とは関係がありません。
単子こそが、真に不可分で事象的なものだというのです。
単子は、それ以上分解されることも、消えることもありません。
同じく、それが自然に発生することもありません。
ということは、単子は、生じたり滅びたりするときには、一気にそうなるしかありません。
創造によってしか生じないし、絶滅によってしか滅びない、ということです。
合成されたものなら、少しづつ生じるし、少しづつ滅びますが。
また、単子の内部が変質したり、変化することもありません。
部分部分の間に変化がある合成体とは違いますから。
しかし、単子にも性質はあるはずです。
性質がなければ、存在とさえ言えなくなります。
なぜなら、性質による違いがなければ、私たちは、変化を認識できないからです。
単子の性質に違いがあるから、合成体に変化が起こるのです。
また、もし単子に性質がなければ、そもそも分量にも違いのない単子を区別することはできません。
なので、それぞれの単子は異なっているはずなのです。
ところで、創造された存在はすべて変化するはずです。
やはり単子にあっても、それは免れえないでしょう。
すると、変化するはずのない単子にあっては、どうなるのでしょうか。
11 以上述べたことの帰結として単子の自然的変化は内的原理から来ることがわかる。外的原因は単子の内部に作用することができないからである(220頁、強調原著)。
これが単子についての基本です。
テキストとして『単子論』(河野与一訳、岩波書店、昭和26年)を扱います。
(絶版なので、イメージがありません)
さっそくですが、「単子」とは何でしょう。
なんだか、分子や原子や電子の仲間のような感じがしますが、そうではないようです。
1 我々がここに論ずる単子というものは合成体の中に入る単純な実体に他ならない。単純なとは部分が無いということである(210頁、強調原著。歴史的仮名遣・旧漢字は筆者が現代仮名遣い・新漢字に改めた。以下同)。
合成体があるからには、単純な実体がなくてはなりません。
合成体とは、単純な実体の集まりなのですから。
この単純な実体のことを「単子」と呼ぶようです。
ここまでのところ、原子と何が違うのか分かりませんね。
3 ところで部分が無いところには拡がりも形も可分性も有り得ない。それでこれらの単子は「自然の本当の原子」であり一口にいえば「事象の要素」である(214頁)。
科学者の考える原子は、科学的方法ではそれ以上分けることができませんが、それには「拡がり」がありますから、少なくとも概念上はまだ分けることが出来ます。
また、数学的な「点」には、拡がりはありませんが、これは非事象的なものであって、「自然」や「事象」とは関係がありません。
単子こそが、真に不可分で事象的なものだというのです。
単子は、それ以上分解されることも、消えることもありません。
同じく、それが自然に発生することもありません。
ということは、単子は、生じたり滅びたりするときには、一気にそうなるしかありません。
創造によってしか生じないし、絶滅によってしか滅びない、ということです。
合成されたものなら、少しづつ生じるし、少しづつ滅びますが。
また、単子の内部が変質したり、変化することもありません。
部分部分の間に変化がある合成体とは違いますから。
しかし、単子にも性質はあるはずです。
性質がなければ、存在とさえ言えなくなります。
なぜなら、性質による違いがなければ、私たちは、変化を認識できないからです。
単子の性質に違いがあるから、合成体に変化が起こるのです。
また、もし単子に性質がなければ、そもそも分量にも違いのない単子を区別することはできません。
なので、それぞれの単子は異なっているはずなのです。
ところで、創造された存在はすべて変化するはずです。
やはり単子にあっても、それは免れえないでしょう。
すると、変化するはずのない単子にあっては、どうなるのでしょうか。
11 以上述べたことの帰結として単子の自然的変化は内的原理から来ることがわかる。外的原因は単子の内部に作用することができないからである(220頁、強調原著)。
これが単子についての基本です。