こんばんは。


最近は人としゃべり過ぎている気がして、
ちょっと疲れ気味。。。。
なんというか、ココロが休まらない。

そういう時に鬱々とするんだけど・・・・

今日もそんな感じで、
休日だったけど自分と会話。




昔から、自分の意見を言うのが苦手だった。
自分の意見は人とズレている。
そういうことが多かった。

そのたびに、自分自身を否定されてしまう気がしてた。

だから、
「頭が悪いから」
「人と同じことができると思うな」
「人前で何かを主張するのはやめよう」
と理由を作って自分自身に言い聞かせて、
周りから否定される前に自分自身を否定して自分を守っていた。


自分自身に絶対的な価値観を見出すことができず、
自分で人と比べてしまい、
さらに自己嫌悪に陥る。




自分自身を認めることができれば、
そんな相対的な価値観から抜け出してラクになれると。
どんなに落ち込んでも、他人から否定されても、
自分自身を肯定することができると夢見ていた。



今は、
前よりも自分を認めてあげることができているハズだし、
自己否定の感情は以前に比べたらかなり落ち着いているとは思う。
自己肯定とまでは言えないんだけどね・・・・



それでも、
人と意見が違う。
自分は人と違うと感じてしまうと、
自己嫌悪に陥るところは変わらない。

これは自己肯定が足りないから生まれる感情なのか?
それとも、自己肯定とは別の原因があるのか?





自己嫌悪に陥るのは辛くて消えてしまいたくなる。
辛い思いをしたくないから、もっと強くなりたい。

そう考えた時に、強いことと辛い思いをしないことは同義なのかと疑問に思う。



この国に来て、自己肯定の固まりみたいな人たちばかり見てきて、
迷いなく自分は正しいと思うことは危険だと思った。
自己肯定が宗教が理由なのかは分からないけれど。

特に医療的なサービス業のプロフェッショナルとして、
迷い、辛い思いをする人に近づくには、
自分が正しいと思うのはやはり良くない。
弱い人にとって、正論ほどココロを蝕む毒は無いんだよ。




だから、迷ったり辛い思いをしていいんじゃないかと開き直る。

僕は絶対的な価値観を持っていないから、自分に迷うしブレてしまう。
でも、
「相対的な価値観を持っているから、
人を支援するプロフェッショナルであり続けることができる」
という価値観を持っている。
と言い換えてみる。

それゆえ、人と違うことに迷い苦しみ悩み続けるだろう。
時にはまた壊れそうになるかもしれない。
けれど、どちらを選びたいかと問われれば、
迷う人間でありたいと選択する。
そこを目標にしたいと公言できる。


そう考えると、
強い、とか、弱い、とかっていう表現が正しいものでは無い気がしてきた。

ここまでの論理で、

迷いが無い=強いではなく、
迷いがない=固いってイメージがついてきた。

となれば、
迷う=軟らかい・・・????
いや、正確には反対語ではなくて否定語だから、
迷う=固くない、、、か。

しっくり来ないな(笑)



とにかく、なんとなく昔の自分が思い描いていた
「絶対的な価値観を持ってブレずに自分を認め、自己嫌悪せずにラクに生きる」
っていう人間にはどう足掻いてもなれないし、
なりたい訳ではないことが分かったことは収穫なんだろね。

特に、俺の中身を知っている人からすれば、
俺がそんな人間になっても似合わないって思いそう(笑)
最近はいろいろな思考が入り込んで来るわりに、
忘れっぽいため文章にして吐き出さないと勿体ない気がする。。。。

ということで、少し更新頻度が高めになってます。




人にとっての誇りとはどういうものなのか、
傲慢とはどういうことなのか。

この点について、
この国に来てからとてもたくさん考える。




この国の人たちはプライドが高い。
他の途上国の隊員も、
自分の任国の人たちはプライドが高いということをよく耳にする。


この国に関して言えば、
自己肯定の感情が非常に強い国民性。
教育で大学まで上がれる割合が非常に低く、
大学まで行けることによるエリート意識が高く作られることなど、
いろんな要素が考えられる。

自分に、
自分たちに自信を持っていることは、決して悪いことではないとは思う。
自己否定の固まりである俺には到底マネできないこと。



でも、その高いプライドが自分達の、
自国の成長を阻害していることは、
良いこととは言えない。


その場合のプライドとは、
誇りと呼んでいいものか。
傲慢と呼んでいいものか。


そもそも、この二つって違うものなのか。






俺は、偉い人が苦手である。
というか、偉そうにする人が嫌いという表現が正しいか。


なぜなら、
世の中にはパーフェクトな人間はおらず、
人それぞれに持っている世界があるから。

お金と権力の話をしだすと収集がつかなくなるので、
個人の能力の話だけをします。

どんなに大きな会社の優良経営者であっても、
自分の病気を治すことはできないかもしれない。

どんなに偉いドクターであっても、
たくさんの会社を経営する優良経営者にはなれないかもしれない。

じゃあ、その二人はどちらが偉いのでしょうか。




自分の知っている世界と他人の知っている世界を比べるならば、
そこに優劣関係は存在しないというのが個人的な意見です。


もちろん、同じ物事に取り組む場合には、
指揮命令系統を潤滑にするために、
対等な立場でいるべきではないケースも存在するとは思うけどね。





まぁ、いろいろなケースはあるけれど、
自己満足な世界である場合は井の中の蛙であり、
ただの傲慢。

その人は幸せだよね。
井戸の外を知らないし、見ようともしなければ、
満足したまま生きていけるんだし。

究極の自己肯定。



でも、
そんな人ばっかの国って・・・・・
どうやって成長するんだろうね。
前回の内容から引き続きの更新。



「許す」とか、
「許さない」とかの難しさ。

引き続き考えている。


自分は~をされた!
っと、被害者意識でいる限り、
その事象からは抜け出せない。


どれだけ自分がそれをきっかけに努力しようとも、
自信をつけようとも(自信は全然無いけれど)、
その意識がある限り許すという気持ちには繋がらないと思う。
何度思い返してみても、その時の恨みが湧きあがってくるから。
自分を否定されたという事実が重くのしかかってくるから。

特に、俺は否定されることを人の数倍怖がっているからね。



ということは、
この気持ちは自分の努力とは無関係なのかもしれない。

想像の中で、
今自分が目標としている、
日本で介護予防という分野で開業し、
治療の実力をつけたとしてみる。


・・・・・うん、もしそうなったとしても許せないっぽいな。



それでは、
人は過去に起きた出来事から抜け出せないのか?


いや、そんなことは無いハズ。
それは歴史が証明している。

未だ過去のことを引きずっている場所もあるけれど、
過去の争いは過去のことして未来に向かっている人も国家もたくさんある。


過去は過去、今は今。
そう切り離して考えてみるとどうか。

・・・・・少し、そんなことにこだわっても楽しくないやって気持ちになってくる。






俺の中で、俺自身の過去はとても重要なもの。

あれだけ酷い精神状態の中で、
潰れないで努力をしてきた過去の自分。
それがなければ、今の自分は無かった。
だから、過去の自分の夢を叶えてあげなければいけなかった。
そうして、今遠く離れたここに居る。

過去に努力をした自分が居たから、
カイが居たから、
その延長線上に自分がいる。

それは自分にとっては大事なもので忘れてはいけないものなんだ。



だけれど、
大事にすることと過保護にすることは違う。
過保護にすることで、今の自分はココロが置き去りにされている。
どれだけ能力をつけようと、ココロが前を向けないんだ。

さっき、「延長線上」というコトバを使った。
多分、無意識の中でそういう理解をしているのかもしれないと感じた。



だけど、今は何かの延長ではないんだよね。
今は、新しく引く線なんだ。

人はそう簡単には変われない。
人は連続体としてしか生きれない。

だから過去は大事なんだけれど、
今をもっと大切にして、
未来はもっともっと大切にしていく。


そうすることで、
過去は過去であって、
今は今である。という認識ができる。
昔に努力をしていた自分を蔑ろにせず、
今と未来のために生きることができる。




人は過ちを犯す生き物。
人も、自分も。

過去を重要視し過ぎると、
過ちから逃れることができなくなる。
人も、自分も。

自分の場合は過ちだったわけではないけれど、
傷、、とかに置き換えてみると、しっくり来るかも。




過去の傷。
どうでもよくはないけれど、
それにこだわってたら勿体ない。
そこにばかりこだわってないで、
今と未来に新しく線を引くことも大事にしよう。


そう思って、
少しずつ、
被害者意識から先へ進んで行ってみよう。


もしかしたら、それこそが結果的に
「許す」という事象につながるのかもしれない。
自分自身との対話の中で、

自分自身を否定することにより他者を肯定してきた自分と、

自分自身を肯定し始めたことにより他者を否定し始めた自分と、

その二つの狭間で揺れ動いていることを自覚してきた。



今までは、自分さえ否定すれば、
いくらでも他者を肯定できた。
いくら許せない人がいても、
その人はその人の考えがあって・・・・って
自分を納得させられた。


自分自身を肯定し始めると、
そんな自分を否定する人のことを肯定できなくなる。



今までこのブログで何度も触れてきた、
留年するきっかけとなったスーパーバイザー。


そして、実の兄二人。
こっちの話はあまり触れてなかったかな、
触れてたっけな。


いずれにせよ、
この3ケースに関しては、
どう転んでも自分を否定したとしか言えない出来事だった。
考え方を変えても、フォローのしようもないこと。




自分を許して、
誰かを許して、
そうしていくことがもしかしたら成長なのかもしれない。

でも、このケースに関しては、
一度たりとも許せる気持ちになったことが無い。



妥協して、自分の中での諦めだけ。



でも、諦めることは、
自分の否定につながる。


今まで散々自分を否定してきたんだから、
それは簡単なことだけど・・・・



自分の否定は、今までしてきた努力、
そして、今している努力を否定すること。


それもできないんだ。


今の自分を否定したら、
今までの努力や、今周囲にいてくれる人の否定となる。


だから、諦めてはいけないんだろう。







人を許すってどうすればいいのかな。
謝罪が欲しい気持ちも一欠けらもないし。


人を許すことができない自分は、弱い人間なのだろうか。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

突然だけれど、
自分は動物を飼うという行為があまり好きではない。
少なくとも自分はできない。

決して動物が嫌いなわけでもなく、
寂しいから動物を飼うとかいう感情を理解していないわけでもない。

けれども、
エサをあげて自分の庇護のもとに動物が居ること。
その行為には、自分が決定的に上位者となる意味が含まれる。

突然、自分がいなくなったら、その相手はどうなるの?
自分の意思で、エサをあげることを止めたらどうなるの?




人間も動物の中の一つだから上下関係なんて無意味。
だから、ペットとの関係ってパートナーや家族と表現してもいいと思う。

だけど、
自分次第で、相手の生存そのものが危ぶまれる。そんな関係を作ること。
それは、紛れもなく自分が力を持っていることを意味して、
他者の生死を司ることを意味すると思う。

だから、他者の生死に干渉するような行為につながる、
動物を飼うという行為に抵抗を感じてしまうんだ。
命の責任なんて、そう軽々しく取れるもんじゃないよ。

そして、
自分の徳を積むために、
近くの野良動物に食事の余りを提供する、
スリランカ人の行為も肯定的に捉えられない。
まぁ責任という概念も薄い国だし、
本人たちは深く考えてないけどさ。




今、ホームステイ先には猫がいる。
家族としては飼っているつもりは無い、
勝手に居ついて、もう半年くらいになる。

そいつは、
片目が潰れていて、
早く走ることもできない。

ここの家族が気まぐれで提供する食事が無ければ、
すぐに死んでしまうだろう。
そんな猫に、自分自身も時々食事を提供している。


上記にあるような葛藤は常にある。
なんて無責任なことをしているんだろう。
でも、それをしなければ、こいつは死んでしまうし、
かといって、一人で生きられるようにしてやることもできない。

人によっては、たかがそんなことで悩む必要は無いと
笑うことだろうね。

そんな悩みの原因である、この猫。

こいつ自身は、
ただただ単純に、食べ物を求めて行動している。


食事の時間を中心に、
ひたすらキッチンの周辺で眠り、
扉を動かす音が聞こえたら追いかけてきて、
人間の食事中は常に近くで待機する。

どんなに蹴られ・ほうきで掃かれて追い払われても、
絶対にその行動を曲げない。
諦めることも無い。

そして、学習して賢く行動することも無い。




最近、
その猫が非常に誇り高い生き物に見えてきた。

ただただ単純に、
生きるために、
自分のできることを精いっぱいやっている。
毎日毎日、
どんな状況でも必死なのだ。

どんなことでも、一生懸命にやることは美しい。

そんな誇り高さを感じてしまった。




「誇り」というコトバから、
また別のことを考えたけれど、
長くなってしまうから、また次回に書こうかな。
こんばんは。

先日スズメバチに刺されて一晩入院しました。
どんなトラブルに巻き込まれるか分からないもんですねぇ。





こないだまで首都の方に上がって、
いろんな人と会って、話したりしていたんですが。。。

またまた、対人的に恐怖感を感じてしまっている自分がいた。



いや、正確に言えば、
初対面の人と話したくない感情。


これは前の職場でも感じていたけれども、
ある程度必要だと思えれば、
仮面みたいな仕事のスイッチが入るんだけど、

状況に慣れてきて、
新しく人脈形成をする必要性を感じなくなると、
途端に人と話すのが億劫になる。



「自分なんかと話したって、相手がつまらないだけだしね」
と自分の中身に対する卑下した感情。
そして自分を否定される可能性があることに対する、
過剰な自己防衛の表れみたいなものかなぁ。

客観的に見れば、
そこまで卑屈になる理由を持ち合わせていないのは分かってるんだけど、
なんだか人格レベルにまで卑屈な考え方が浸み込んでいるみたい。




いつかは、こういう感情を卒業できると信じてたんだけどなぁ。。。



まぁ、努力してきた自信はあるから、

こんな欠点と向き合っても、

もうしょうがないかと思えているから別にいいんだけどさ。




自分を変えることは自分にしかできないことは経験上確信しているし、
自分を変えようと努力したけど、

自虐的で、
自嘲的で、
不必要に卑屈な感情を隠しながら人と接することは変えられず。

精神的なバランスを崩しそうになると、
そんな卑屈な感情さえも誤魔化せず人から見抜かれそうになり。

それを恐れていながらも、

どこかでこんな自分のことを
分かって欲しいと子どもみたいに求めていて。


そんな自分にあきれながら、
開き直り始めている自分がいる。



バスの中で、
過去の自分を表現したような歌をかみしめながら、
そんな再確認をしていた。
どうも、1か月半ぶりですかね。

こないだ一時帰国してました。
やはり日本は何食べても美味しい。

いろいろな人と話をしたりする中で、

変わったこと、変わらなかったことをいろいろと感じた。



まず、最も大きく変わったこと

①死にたいという衝動的な感情がかなり弱まった。

前は何かミスをしたり、落ち込むことがあったりすると、
「死にたい」「自分を傷つけたい」っていう衝動が湧きあがり、
どうしようもなくなってしまっていた。
主に人に迷惑をかけた時ね。

仕事している時はこの傾向を利用して、
ミスをしないように仕事に先手先手を打ち、
不必要な迷惑をかけないようにしていた。
だって、自分が落ち込むと治療に手がつかなくなって、
リハビリの質が落ちてさらに自己嫌悪というスパイラルが待ってるから。

今は、あの不必要な落ち込みがかなり軽減したんだよね。
まぁ、今は立場上そこまでの負荷がかかってないからかもだけど。




②日本を客観的に見れるようになった。

これは、一人の個人としても、
一人の理学療法士としても感じる。

タイや中国での研修、
そしてこの国の理学療法士たちを見てきて、
世界の中での理学療法とはどういうものなのかと考えるようになったこと。

一人の人間としていろんな国の人たちに触れて、
日本が国家として世界でどう見られているか、
日本人が個人として世界でどう見られているか、
いろんなことを考えるようになった。

まだまだ欧米の価値観に触れていないし、
今後も情報を収集しなければいけないことはたくさんある。

だけど、日本人はもっと日本に対して誇りを持っていいし、
危機感を感じなければいけないと思えるようになった。



③文化の違いというものの根底の大きさを知り、
 理解し合うということの難しさに諦めを感じるようになってきた。

自分はけっこう理想主義者や完璧主義者なところがあったり、
前に進むためにはどんな壮大なものでも大きな目標を立てて、
それに一歩ずつ向かっていくことが大切だと思う傾向はあるんだけど・・・

なんだか文化という括りというか、
宗教・主義・主張・歴史・教育・言語・生死観・生きる目標とか、
いろんなものがそもそも根底から違うということの
大きさやどうしようもなさを実感してきた。

一つのコトバや出来事に対して考える手段が違うし、
向かいたい方向も違う。

日本人ならなんとなくその人の経験や言動とかを加味して、
観察と想像力で人の思考の方向性をつかむことはできるんだけど、
それは日本人にしか通用しない。

諦めたらいけないことなんだけど、、、、
なんか人類すべてが巨大な迷路に入り込んでいることに気付いた感じ。
そして、その迷路が途方もなく大きくて、
自分なんかでは攻略手段を思いつくどころか、
どこに進むとbetterなのか考えるのも億劫な感じ。

んーーーーー、、、、、

でも、気付くことって大事だよね。




んで、変わってないところ

①自己評価の低さ

いやぁ、なんだろなぁ。
やっぱり、俺は認められたい願望が強いんだなぁって思った。

自己評価が低くて、そのままでは辛いから、
「人よりこれはできる、人よりこれを頑張ることができる」
って実感したり、思ってもらったりして始めて、
自己肯定ができる。
子どもみたいな満足の仕方。

それも、一時的にしかならず、
すぐに自己否定の方向性になる。
だから、やると決まったらなんにでも頑張んないといけない。

死にたい衝動が薄まって、
切羽詰まった感は減ったけど、結局そこは変わらないのねー。




②自分のアイデンティティ

途上国で暮らして、途上国の人たちと触れ合うことで、
もっと自分の中の価値観って大きく変わるかもとか思ってて、
日本に帰国してからの進路も変わる可能性あるかなぁって思ってたんですよ。
自分にできることはもっとあるはず!みたいな。

けれど、
日本で仕事をしながら確立した
「治療者であり、一生治療の腕を研鑽していきたいという自分」

日本で生活している中で美味しいものを食べて肥えた舌で、
「美味しいものを食べて、いろんな食材・調理法・酒をもっと知りたいという趣味」

日本でいろいろと苦しみ、もがきながら、
それでも必死になって生きようとしてきた中で培った、
「自分と関わってくれて、これからも関わってくれる人たち」

これらをもう捨てることはできないや。

5年前とか3年前にここに来てたら、
もうちょっと変わってたのかもしれないけど、
28歳でここに来て5年以上理学療法士として働いていた。

これが大きかったな。

結局、自分はリハビリ・治療しかできないし、
人の笑顔を見るためには、それを生かすしかできないのかもねぇ。



③許せない人

ダメだ。
やっぱりあの人のことは許せないや。

一生、初対面の理学療法士は苦手であり、
内面が分かった人とじゃなければ仲良く話せないな。

これはもう、自分がどうこうって問題じゃないな。




久しぶりにまとめてたくさん書いた。

あと10か月で、
どのくらい書きたいことが増えるかな。
今週に一時的に帰国します。

その前に、

ちょっと、スリランカの日本人会の運動会がありまして。

それに参加&打ち上げに参加して。


仕事はサービス業だから、

皆様を楽しませようという思考回路が働く。

自分がどんなに疲れていても、

それが今の自分に求められているものであれば。という思考で。



やっぱり、分かる人には無理をしていることが分かるみたいだね。

そう思われないように努力はしているハズだけど。



自分のココロの中の成長した部分、

そして残っている問題点。



そんなものが色々と浮彫になった気がした。


でも、死にたいとかではなくて、


自分はそんなもんであると

思える部分はある。


それがこの一年の変化なのかなぁ。
こんばんは。

最近ちょっとだけアニメを見る趣味が復活しています。
首都に上がった時じゃないとダウンロードし放題じゃないので、
ちょっとだけだけど。


そのアニメの中で、
自分の感情を押し殺して良い子を演じて、
好きなものとか嫌いなものとかが無くてただ合理的で。

その結果暴走するのですが、
最後には全ての感情を受け入れて、
感情が動くようにはなるのだけど、
完璧な人間では無くなってしまうっていうキャラが居た。
それが人間らしくなるってことなんだけど。


そう。
他人に対して配慮したり、
自分の感情を押し殺して他人の感情を優先したり、
全てを合理的に受け入れ、
好き・嫌いの感情が非常に曖昧で全てを諦めて客観的に見る。



なんだか昔の自分はそんな方向性だったなぁと感じた。
いや、正確にはまだ方向は向いているかな。

それでも、かなり変わったと思う。いろいろあって。




最近、自分が怒りっぽくなった気がする。

昔から理不尽なことに対して非常に怒りを感じることはあったけど、
最近は自分に関することで周囲に対して衝動的にムカっとすることが増えた。


余裕が無いのかと思う部分はあるけれど、それも違う気がしていて。

自分を認め始めてきたから、
自分も怒っていいんじゃないかと感じているのかもともちょっと思っていて。

そうだとしたら、
人間らしくなったなぁと、
ただ、理想の人間からは少し離れたかなぁと、
複雑な感情を持っていて。


そんなことを思っていたことを再認識できた。


怒ったり、泣いたり、感動したり、嬉しがったり、不平不満を言ったり。


感情のままで生きることは理想の人間とは程遠いけど、
よっぽど人間らしい。


俺はどっちになりたいんだろうねぇ。
それとも、欲張りだから両方なりたいのかもなぁ。
お久しぶりです。

8月は少しお休みをいただき、
インド~バングラデシュへ旅行へ行きました。

インド・バングラデシュともに怖かったです。
いや、何がって・・・・人が。

なんか良く言えばパワフルだし、
悪く言えば自分とお金のことしか考えてない。

人の命が非常に軽い国。
言い方が悪いかもしれないけど、
隊員が野良人間と評したのがよく感じられました。
日本にいたら絶対に感じられなかったな。
スリランカでも。


なんだろうなぁ。
個人的には、ああいう人達を見れたのはとても良い経験だった。

「隣の芝生が青く見える」の延長線上で、
生き物らしく、感情を持って生きている人が羨ましく見える性質がある自分にとって、
これ以上無いくらいに感情と本能で生きている人たちが見れた。
いや、近づくのは正直怖いんだけどね。



これは

きっと、いつか自分の思考の財産となる。
まだまだ消化できてないけど、いつか消化してみせる。


自分を獲得することにまた一つ近づいた気がするよ。