こんばんは。


先日、
自分たちの直前に来た人たちの帰国を見送った。


スリランカに来て、
たくさんお世話になったし、
同期みたいに気軽に話せた。
同じ任地で、
1年9か月毎日のように顔を合わせていた人もいる。


スリランカに来た当初は、
先輩隊員というものに良い思い出が無くて、
他の隊員との接触は出来るだけ避けようと思っていた。


そんな中でも、
良い人は中には居て、
他の人たちと交流を少しずつ広げていくのもいいかなと、
思わせてくれた人たち。





僕は送別されたり
送別したりっていうのがあまり好きじゃない。

送別される側になると、
「僕はそんな人間じゃない」と恐縮してしまい、

送別する側になると
「僕なんかに見送られても迷惑だろう」

そういう感情が止まらなくなってしまうから。



相手がまた会いたいと思ってくれるのであれば、
そう思い会える相手であればいつでも会えるし、
別れは悲しいことでは無いと思っていた。


日本でもそうだったし、
ここでも。


お世話になったりしたから、
こんな自分でも見送りに参加したら、
相手は少しは喜んでくれるかな?
って思えたら見送りに参加していた。

結局
「自分がどうしたいか」
ではなかったのかもしれない。



けれど、
今回は必ず見送りに行かないといけないと感じた。

見送ってそう簡単に会えなくなることが、正直に「寂しい」と強く思えた。

ここで一緒に過ごせた時間が、とても大切なものだと思えた。


日本で在った人間関係と違って、
お互い、今後どういう人生を送るか分からない間柄。
それも理由なのか。





僕の思考回路では、
その気になればいつでも会えるなら
「別れ」じゃないと思っていた。


でも、今回は
「別れ」だと感じた。






その違いは、きっと分かっている。


次に会う時は、
お互い「別々の人生を歩んでいる」から。

その裏を返せば、

「今を一緒に過ごしている」と
僕自身が感じていたから。




それに気づいた時、

あぁ、

「僕」は「今」を「生きている」と感じているのか

と理解した。

そして今は、「思い出」が「生きている」。



なんだか人間っぽいな。
なんだかくすぐったいな。
でも、これでいいのかな。




人間になれたら良いと思っていた昔の自分。
人間に少しは近づけたかなと思っていた少し前の自分。
人間っぽいと思えて、それを否定しない今の自分。

「今、この瞬間を共有している」と誰かとそう感じられること、
それはとても素晴らしく輝いているのかもしれない。


前の自分には無かったな。
いや、失くしていただけなのかもしれないけど。





まだまだ、欠陥だらけの僕だけど、
それに気づけただけでも、
この2年は価値があるものとなったのかもしれないね。
僕は人の目が怖い。
蔑まれている感じがするから。

僕は人の思考が怖い。
見下されている感じがするから。

僕は人と話すのが怖い。
僕がどうしようもないバカな人間であると思われるから。

僕は自分の思考が怖い。
自分をどこまでも否定するから。



そんな感情でがんじがらめに自分でして、
その中で生きる道を探して、
信じるがままに突き進んで。


その結果何を僕は得たのだろう?
何が変化したのだろう?



本当は大声で笑って過ごしたい。
本当は本気を出して悲しみたい。
本当はいろんな事をいろんな人と話し合いたい。
本当はしっかりと落ち込んでいろんなものを見つめ直したい。
本当は人を信じて、信じてもらいたい。
本当は全力でいろんな物事に取り組みたい。
本当はゆっくりと何も考えずにボーっとしたい。
本当は僕はこんな人間なんだって叫びたい。
本当はこんな人間だって分かってもらいたい。




もっとこうなれるといいのに。
そうなろうとすると、
自分がブレーキをかける。
他人と自分のせいにしてブレーキをかける。



そして、

「こんな僕のことなんて誰もわかってくれなんてしない」
「僕は頭が悪いし、誰かが理解してくれるわけなんてない」

そうやって、ふてくされる。



僕はそんなことをひたすら繰り返してきた。
願って、
頑張って、
絶望して、
落ち込んで、
それでもまた変化を望む。





努力して来た場所で、
また同じことを繰り返す。



いや、
全く同じことでは無いのだろうけどね。

なんだか、
人間ってそんな簡単に変化しないなぁ。

このブログを書き始めたころよりは大分違うとは思うけれど、
それでも、
求めるものには程遠い。




今でも、

誰も理解なんてしてくれるわけない。
そう思って諦めて、
自分のことを分かってもらう努力を放棄して、
人と距離を取って。

こんな部分が、
もっと変えられたら良かったのになぁ。って思って。



でも、
意外とみんな俺のこと理解してくれてるのかもしれなくて、
そんなことに期待していたり。





そんな小さいことで悩んだり苦しんだりしながら、
不器用に生きるのが結局自分なのかなぁって、
思ってみたり。






あれ、俺って何を求めてたんだっけ?
どう変わりたいんだっけ?

これは諦めなの?
それとも受け入れなの?



それを決めるのも自分自身だって分かっているけれど。。。。。




今日はまとまりの無い文章ですみません。別に酔ってないです。
こんばんは。

本日はスリランカではポソン・ポヤという日。
スリランカに仏教が伝わった日?

こちらでは満月の日はポヤデーと言って、
祝日になり、
お寺にみんな行きます。




元々、僕は宗教というものが苦手。
日本では有名な、とある宗教が主にその原因ではありますが、
この国に来てからその傾向は強まってる。


原因は、宗教勧誘。
日本においては有名ですね。

こちらに来てからも、
悪気は無いのだろうけれども、
「仏教はいいよ」
「仏教を勉強しなさい」
という意見は後を絶たない。



本人たちは何も考えずに言っているそのコトバ。

自分たちはそれによって幸福感を覚えているのだろうし、
幸福になれるのだから、それを人にも伝えたいと思うのだろうけれど・・・


こちらから言わせてもらえれば、
それはただの
「人権侵害」であり、
「人を見下している行為」である。


自分はこれで幸せになりました、だから教えます。

それって、言った相手が自分より不幸せであると断定している証拠。
相手が今までに培ってきた経験や考え方、
幸せの基準を否定している証拠。

これ以上無いくらいの人格否定であると思う。

そして、それに気づかない人は、
宗教によって思考停止を起こしている人であり、
思考停止している人とは会話が成立しないと思う。

宗教を信じるのは勝手だけれども、
他者を勧誘する人に関しては、
自分を正義だと思っている人と同じレベルで軽蔑している。





それらの経験上、宗教関係はあまり触れないようにしていたのだけど・・・・

相変わらず勧誘は大嫌いだけれど、
最近は少し宗教を見直すようになってきた。




きっかけは、ホームステイ先の親戚。



旅行先でお世話になったのだけれど、
お寺に一緒に行って、
その時に真剣に祈る姿が
「美しい」と真摯にそう感じれた。

どんな物事も、一所懸命になれる人は素敵だと思うし、
宗教で一所懸命に信仰しているということは、
生き方そのものが一所懸命であるのかなと感じれた。



自分の生き方を見つけることって難しいし、
今の自分だってまだまだ迷うことがたくさんある。

人間のそんな脆い部分に対して、
生きる方向付けを外部から作り出すこと。

宗教とは、そんな役割があるのかな。




まぁ、とりあえず、
勧誘をされない範囲では、
宗教というものを毛嫌いするのは少し抑えようかな。



今日はテレビで中継された祈る人たちを見ながら、
そんな考えを思い出した。
いっぱい考えて、
いっぱい努力して、
それでも上手くいかないこともある。

ここにコトバを残して、
もっとラクに生きたくて、
ラクになれてきても、
また何かでつまづいて。




元に戻ってしまうようで怖くて、
いっぱいまた考えて、
そんな時はどんどん黒い思考になって。




疲れが溜まって、
余裕がなくなると、
感情が暴走する。




僕の感情は、黒くて醜い。




疲れている時、
人と話し過ぎて精神力を消耗している時のネガティブな感情は大嫌い。



醜くて、
誰かのためにも、
自分のためにもならないコトバばかり出てくる。



そんな時は、
きっと疲れているんだと思って眠ると、
少し気持ちに余裕が出てくる。




僕は今まで、
人から出てくるコトバは全部その人の本音だと思っていた。
酔っぱらったり、余裕がなかったり。


けれども、
余裕のある時の人を思いやれるコトバも、
余裕の無い時の黒いコトバも、
両方ともにその人の本音であり、重要なもの。


人の両側面とも、
しっかりと見て、
人と接して行けるような人間になれたらなぁ。


そのためには、
自分のそんな部分も認めなければならないんだろう。
サウダーデ(saudade):

サウダージ(Saudade、あるいはサウダーデとも)とは、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ、ポルトガル語およびガリシア語の語彙。ポルトガル語、およびそれと極めて近い関係にあるガリシア語に独特の単語とされ、他の言語では一つの単語で言い表しづらい複雑なニュアンスを持つ。ガリシア語ではこの語はあまり使われず、通常類義語のモリーニャ(morriña)が同様の意味で使われる。
ポルトガル語が公用語となっているポルトガル、ブラジル、アンゴラなどの国々で、特に歌詞などに好んで使われている。単なる郷愁(nostalgie、ノスタルジー)でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない。ポルトガルに生まれた民俗歌謡のファド (Fado) に歌われる感情表現の主要なものであるといわれる。(wikipediaより)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8





さて、こんばんは。

最近読んでいる漫画で、
このコトバが出てきたのでちょっと記事にしてみようかと。


このコトバを見ると、とても暖かい気持ちになれる。
なんだろう、なんだか悲しいのだけれど、
これがあるから生きていられるような。

日本語では表現できないけれど、
僕の中ではとても大事な感情な気がする。
まぁ、ネイティブでない日本人が使うのは恐れ多いけれども。




昔すごい好きだった歌を聴くと、
すごく好きだった景色を見ると、
すごく好きだった食べ物を見ると、

この表現にぴったりの感情が浮かんでくる。

懐かしくて、とても暖かい気持ち。
その時に抱えていた悩み、その後の後悔。
楽しかった、その場限りのココロの感触。
もう二度と味わえないことに対する、嫉妬や憧れ。



様々な感情があふれ出てきて、
自分の奥底を思い出させてくれる。

こんな気持ちが、自分の人生が無駄でないことを証明してくれる。

そして、今していること、
これから味わうことが、
無駄でないことを指し示してくれる。


こういった部分を、
こうして文章にして、
自分をまたもう一段階認めてみる。





そうか、

この記事を書いてて、今思った。

コトバの貧弱さと多様性。




僕は自分を納得させるために、

自分を定義するために理屈を多用するけれども、

感情だけはコトバで定義したり説明しようとすること自体がナンセンスなのでは?


説明しようとする努力を忘れてはいけない気がする。

けれども、それが非常に困難であることを認めなければいけないのかもしれない。





コトバってそんなに便利なものじゃないんだよ、きっと。



そんな、矛盾も受け入れてみよう。
前回の記事を受けて、
自分の嫌いな思考回路である、
自分本位な考え方を続けてみる日々。



今までは、
誰かに自分を否定されようとも、
「誰かの役に立ててる部分もあるんだから、それは否定できないでしょ」
と返すことを防衛線として生きてきていた。
自分を肯定できる理論を作り続けてきた。


今PTとして上手く役に立てないこの生活でも、
「自分のための日々だ」
「海外で生活させて貰いながら、自分に時間を使える期間があと4か月以上ある」
と思ってみる。
それは、否定しようとする人から見れば、いくらでも否定できるだろう。


今まで持っていた防衛線を捨てて、
「それでも良いでしょ?自分のためなんだから」
と開き直ってみる。そんな生活。


開き直ってみたら、意外と勉強に身が入ったりしてるんだけど・・・・




客観的に見てみたら、
俺は常に誰かに否定されても反論できるような生き方なんだなと改めて実感。
いや、実際に否定する人がいたから自衛のためにそう生きてきたんだけど。

開き直った部分の考え方をしている人なんて世の中いくらでもいるんだよね。




堕落した考え方かもしれないし、
自分の性格的に、セラピストとしても、
この考え方にどっぷり浸かることはできないと思う。



けれど、こういう考え方を取り入れることで、
無意味に、
必要以上に自分を責め立てることが減るかもしれない。
もっと楽に生きれるかもしれない。
もっと、自然に笑えるかもしれない。

そこから生まれることもあるだろう。



そう信じて、
もうちょっとだけこのチャレンジを続けてみよう。
こんばんは。

つい先日、
自分が主催する重要なワークショップが終わりました。
いや、始まったというべきか。

何も無いゼロに近い状態から始めて、
周囲の協力のおかげで開催できて、
一応次にも繋がった。とりあえずの目標は達成。

このワークショップの本当の狙いは
ずっとずっと先の未来の事だから、
達成感とかがあるわけではないけれど、
ひとまずの解放感はある感じ。

理学療法士として役に立つ。
その気持ちを持って行った活動。
いろんなストレスを抱えながらも、
それにこだわってきた意味はあったのかな。




僕は昔から、
自分で納得できたことしか言わないし、やらなかった。
その理由はすごく単純。



自分のことをこれ以上嫌いになりたくなかったから

 

これ以上嫌いになることは、自分の命さえも危うくなる。
そう強迫的に思ってきた。
だから、自分で矛盾した言動・行動を取ることができなかった。

今でもウソとかあまり言えないしね。
その辺は強く残ってるんだろう。

「自分にはこういう部分がある」
「それはおそらく、これこれこういう風に考えているからだろう」

自分を嫌いにならないように、
自己矛盾が発生しないように、
あらゆることにつじつまを合わせて納得してきた。




今、自分は理学療法士、いや、一人のセラピストとしてのアイデンティティを持ってる。
時間をかけて努力をして作り出した、自分の中の大黒柱。
それはきっと自他ともに認めてもらえるところだろうとは思っている。

だからこそ、
この地で理学療法士として大きな役に立てないことにすごく無力感を感じる。
様々な理由から、理学療法士としてこの任地で目立たないことを選び、
その日々を費やしていることにストレスを感じる。
そのことに、毎日悩んでいる。


そんな時に、一度視点をひっくり返してみる。


僕はセラピストである。
という、自分の中の一部分に頼り切っているのではないか?と。

今までそこに縋って生きてきたのだから仕方のないことだろう。
でも、今それが重荷となっていることは間違いない。
この重荷を降ろしてしまえば、
理学療法士として役に立てないということがストレスでなくなるのではないか?


自分の中のセラピストの部分が、「それは逃げだ」と言う。
自分の中のセラピストでは無い残りの部分が、「今はそれもいいのでは?」と言う。






自己矛盾。





それは、今まで見つめようとしなかった現象。
自分の中のセラピストの部分ばかり都合よく見てきたからね。

僕は清廉潔白な人間では無いと受け入れ、
矛盾というものを内包した汚い存在であると認め、
そんなセラピストでは無い残りの部分も大事にする。



人に、自分の全てを理路整然と説明できなくても良いじゃないか。
矛盾?そんなもの誰だって持ってるよ、言わないだけで。
清く正しく理性的に、自分だけキレイでいられるわけないだろう?




そう罵倒しながら、自己矛盾という現象を肯定する。



そして、思った。
これが人間というものなのかもしれない、と。




人を信じられず、自分を信じられなかったあの頃の自分では、
自己矛盾を認めたら壊れてしまっただろう。

だからカイが存在し、
自己矛盾が発生しないように自己否定をし続けたのかもしれない。





今の自分は、自己矛盾を肯定していけるのかな。
それでも、自分を嫌いにならないで行けるのかな?
まぁ、多少嫌いになっても、死にたいとはもう思わないだろう。


死に対する衝動的な感情が出て来ない今なら、
新しい考え方に踏み込めるかもしれない。


これも、一つのチャレンジなんだろうな。
先日、
韓国の方々との交流会がありました。

今の自分と同じ立場の人たち。
韓国にも同じような組織があるんだよね。




元々、インターネットのヘビーユーザーなもので、
ニュースサイトの情報を拾っていくと、
あまり国自体に良いイメージが持てなくて。

でもそういうのが偏見であることは北京に行った時に実感したから、
やっぱり実際に会って話すことが重要だと思って、
参加してみた。



結果は、
やっぱり同じようにイメージが先行して偏見を持つことは良くないと実感できた。




同じように
悩んだり、
苦労したり、
この国の人々に対してイライラしたり。

でも、この国を良くしようと同じように行動して。


国とか政府とかそんなものと、
人間はまた別のもので。


同じ目標があれば、
会話をしても分かりあえる。



少なくとも、
今回出会った人たちはそういう印象を持てた。



こういうプラスな交流が、
いろんなところでできるといいんだけどね。
どうも、こんばんは。


最近、落ち込み気味の状態からどうしても脱することができない。
昔のように墜ちていくような感じではないのだけど、
人のことを信用できていない。




だから、何をしてもネガティブに、
卑屈になっている自分がいて、
隠しきれない。


その原因はだいたいわかっている。

「自分にはこれができる」
「自分はこういう特徴がある」

そういう風に自分で自分に自信をもてれば、
今のように卑屈にならないのだろうと。





いろいろと事情があって、
今自分はこの場所に居続けることに意味を見出せずにいる。
常に悩んでいる状態であり、
自分の能力の不足に苛立っている。


でも、その能力の不足は今の自分にはどうしようもない。
そこは今まで築き上げた自分自身には不必要なものだったから。

そして、そんな柔軟性の無い自分に対して無能感を感じ、
無能な自分は誰かと話していてもその相手にとってメリットは無いと感じ、
そう思われることが怖くなり人を信じられなくなり、
人と喋らないようになる。

そうするとさらに自分は無能で性格が悪いと感じるようになる。
ぐるぐるぐるぐる。



ここのところのその悪循環のせいか、
自分は本当に性格悪い人間であると確信を持つようになってきてしまった。
そこは議論をする価値は無いところであると頭では分かっていても、
止まらないネガティブ思考。


んで、結局、
「自分はこういうことができる」
と有能感を持つことができなければ、
どんどん卑屈になる自分なんだというところがよく分かった。


こんな海外の田舎で、
日本に居た時と同じような悩みを持つ。





人はそう簡単には変われない。



自分の在り方を議論する時に、
何を成したかというのは、
一時的な気休めしか生じない。
過去にしがみ付くことに意味は無い。



僕にとっては、
「海外でどういうことを学び、どういうことをしたか」
ではなくて、

「どう在るべきか」
というところに答えを求めなければいけない気がする。



まぁ、簡単に答えが出たらつまらないんだろうけど、
この地には僕の求める答えが無いことが分かってきた。

それもネガティブな今の自分にはただの傲慢に思えるけれども、
そう感じる。


まぁ、自分の傲慢さについては、
また別の機会に書くことにします。
こんにちは。

先日、スリランカの有名観光地に行ってきました。
観光客になるのは非常に久しぶり。

良いところは良いよなぁ、この国。




さて、久しぶりの足跡カテゴリ第2弾。




10年以上、
自分のことを好きになる努力・大事にする努力をしてきた。

そして、
自分がいなくなったら悲しむ人がいると、
存在を求めてくれる人がいると
身近な人を信じることで自分は生きていてもいいんだと信じることにした。

人の役に立つ何かを持つことで、
治療者という自分のアイデンティティを作ることで、
自分の能力は存在する価値があると認めることにした。



だけど、本質的には、
それはあくまで対症療法。



人を信じることができなくなれば、
前者は成立しなくなり自分が生きる許可を信じられなくなる。

自分の腕が物理的に無くなったり、
記憶に障害を残すようなことになれば、
後者は成立しなくなり存在価値を認められなくなる。




セラピストとしては目の前のクライエントの根治治療を目指すことが、
自分が築き上げた理念。
だから、自分に対しても根本的なものを治さなければと考える。





海外に来ることの目的の一つに、
命というものについて自分なりの理解を深めるというものがあった。
それを通して自分自身の命を認められるかもしれないと期待して。

だけど、一年半海外で生活して、
そんな程度で答えは見つかるものではないと分かった。


この国で生きる人々の命の在り方は確かに参考になる。
命というものに対しての一つの思考材料にはなった。
だけど、それは自分自身に対して転用できるものではなかった。

だから、未だに、
自分自身の命の存在を無条件に認めてあげられない。
惨めなことにね。
多分、思考に刷り込まれた資本主義的な価値観から逃れられてないのだろう。






その中で、
人間を本に例えるという思考アソビをしてみた。

人間は生まれた時から少しずつ自分のページを書き込み埋めていく。

本のカバー(見た目)を磨いてキレイに装飾をしていく人もいれば、

自分のページを充実させていく人もいる。

何かを見て、聞いて、自分のページに何を書き込むかはその人次第。

どう書き込むかはその人次第。


そして、

絶対に誰にもマネできない自分だけの本が出来上がる。

それぞれの本を汚すような行為はどんなものにも許されない。




そう考えていくと、

全ての本が非常に貴く、かけがえの無いものに感じられる。

こんな自分自身の本ですらも。


・・・・・・・


その考えでは、自分が大切なものだと理解し、納得できる。
人間という有機物で考えるよりも、
無機物で考えたほうが自分が大事に思えるって・・・・・・

歪だよなぁ。




でも、それも俺か。