最近はようやく、
自分の活動に変化が見られ、
少しずつやりがいがあるなって、感じがあります。
やっぱり、行動って大事だなと。
そんな感じで、
余裕ができてきたのか、
少し新しい世界を知ることによって視点の変化も起こったのか
久しぶりに自分の分析が進んできた。
自分の感情に対する鈍さはずっと感じてきてたけど、
特に「嬉しい」っていう感情の薄さは異常だと気付いた。
感情は複雑なものだから、
「喜怒哀楽」だけで済むものではないと思うけど。
昔は自分という存在に意味を感じることができていなかったから、
自分の基本的な感情は「哀」にどっぷりと浸かって
そんなもんだと安心して。
好きな歌とかも基本はそっち系だった。
ただ、身体全体が過剰にそれに慣れている感じ。
「怒」は理不尽なものに対して強く反応する。
それが、自分対象であっても、他人対象であっても。
これは理論を重視してしまう思考回路から来るものだろうなぁ。
多分、自分を特別視できない思考回路の中で、
物事を論理的に突き詰めてしまったから自分の価値の無意味さを直視したんだろうし。
「楽」は、比較的まともに機能している気がする。
・・・というのは、
このブログを始めた当初、
立ち直るきっかけを作ったのは「人に笑顔を見せることを意識すること」
だったと思うから。
自分に対して「価値は無い」と思ってはいても、
「感情がこもった人の笑顔を見て、悪い気をする人はいない」
ということを信じていたから、人の笑顔が見たかったし、
「だったら、自分の笑顔も人に対しては少しは価値があるんじゃないか?」
という理論で、ちゃんと自分が笑えるようにしていれば、
生きている価値はあるんじゃないかと信じることができた。
この時の訓練は、色んなところで生きている気がする。
今でも、行動での重要な指標は「人の笑顔が見られるか」だしね。
「喜」という感情が一番、自分の中で鈍い。
何か良いことがあっても、感情がなかなか表に出てこない。
出てこないだけでなく、自分の中で形にならないことも多い。
確かにある感じはあるんだけど、
皮膚から表に出てくるような感じにならない。
不自然だから、人前では嬉しがる演技をしていたことも多いと思う。
「照れ隠し」のように見せながら。
もちろん、美味しいものを食べた時には「喜」という感情に近いものがあるけど、
それは「美味しいものを食べれて幸せ」というよりは、
「素晴らしい」という食べ物への努力に対する賞賛に近い。
まぁ、だからこそ美味しいものを探すという趣味ができたんだろうけど。
これは「自分には価値が無い」、「自分には良いことなんて似合わない」
と思い込み続けてきた代償なのかと思う部分はある。
どんな良いことが起きたとしても、
「自分には不似合いなことだ。
きっと、不釣り合いなものはすぐに無くなるだろう。
だから、喜んではいけない」 と。
半ば強迫観念のようなもので抑え込んでいた。
人間になるには、
この感情を解放しないといけない気がする。
素直に、
「嬉しいです」とココロから思えるようになる。
その努力もしてみるか。
「今自分は嬉しいんだ」
と言ってみたり、思ったり、
意識してみようかな。
自分の活動に変化が見られ、
少しずつやりがいがあるなって、感じがあります。
やっぱり、行動って大事だなと。
そんな感じで、
余裕ができてきたのか、
少し新しい世界を知ることによって視点の変化も起こったのか
久しぶりに自分の分析が進んできた。
自分の感情に対する鈍さはずっと感じてきてたけど、
特に「嬉しい」っていう感情の薄さは異常だと気付いた。
感情は複雑なものだから、
「喜怒哀楽」だけで済むものではないと思うけど。
昔は自分という存在に意味を感じることができていなかったから、
自分の基本的な感情は「哀」にどっぷりと浸かって
そんなもんだと安心して。
好きな歌とかも基本はそっち系だった。
ただ、身体全体が過剰にそれに慣れている感じ。
「怒」は理不尽なものに対して強く反応する。
それが、自分対象であっても、他人対象であっても。
これは理論を重視してしまう思考回路から来るものだろうなぁ。
多分、自分を特別視できない思考回路の中で、
物事を論理的に突き詰めてしまったから自分の価値の無意味さを直視したんだろうし。
「楽」は、比較的まともに機能している気がする。
・・・というのは、
このブログを始めた当初、
立ち直るきっかけを作ったのは「人に笑顔を見せることを意識すること」
だったと思うから。
自分に対して「価値は無い」と思ってはいても、
「感情がこもった人の笑顔を見て、悪い気をする人はいない」
ということを信じていたから、人の笑顔が見たかったし、
「だったら、自分の笑顔も人に対しては少しは価値があるんじゃないか?」
という理論で、ちゃんと自分が笑えるようにしていれば、
生きている価値はあるんじゃないかと信じることができた。
この時の訓練は、色んなところで生きている気がする。
今でも、行動での重要な指標は「人の笑顔が見られるか」だしね。
「喜」という感情が一番、自分の中で鈍い。
何か良いことがあっても、感情がなかなか表に出てこない。
出てこないだけでなく、自分の中で形にならないことも多い。
確かにある感じはあるんだけど、
皮膚から表に出てくるような感じにならない。
不自然だから、人前では嬉しがる演技をしていたことも多いと思う。
「照れ隠し」のように見せながら。
もちろん、美味しいものを食べた時には「喜」という感情に近いものがあるけど、
それは「美味しいものを食べれて幸せ」というよりは、
「素晴らしい」という食べ物への努力に対する賞賛に近い。
まぁ、だからこそ美味しいものを探すという趣味ができたんだろうけど。
これは「自分には価値が無い」、「自分には良いことなんて似合わない」
と思い込み続けてきた代償なのかと思う部分はある。
どんな良いことが起きたとしても、
「自分には不似合いなことだ。
きっと、不釣り合いなものはすぐに無くなるだろう。
だから、喜んではいけない」 と。
半ば強迫観念のようなもので抑え込んでいた。
人間になるには、
この感情を解放しないといけない気がする。
素直に、
「嬉しいです」とココロから思えるようになる。
その努力もしてみるか。
「今自分は嬉しいんだ」
と言ってみたり、思ったり、
意識してみようかな。