メディチ家の歴史と遺言
フィレンツェという町を知る上でメディチ家の存在は欠かすことができません。
本日はメディチ家の始祖ジュヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチから最後の当主ジャン・ガストーネ・デ・メディチまで簡単におさらいしたいと思います。
![ウフィッツィ美術館入り口](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/f2/ec/j/o0800045011503154032.jpg?caw=800)
メディチ家が、フィレンツェの歴史に銀行家として登場するのは、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(Giovannni di Bicci 1360 - 1429)が、ローマにあった銀行を1397年に出身地のフィレンツェに移したことから始まります。
![ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/3c/19/j/t02200300_0351047811503111296.jpg?caw=800)
![コジモ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/d9/9f/j/t02200274_0350043611503116197.jpg?caw=800)
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチから銀行を引継ぎいだコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici 1389 - 1464)は、メディチ家をヨーロッパで有数の資産家に育て上げ、ブルネレスキやミケロッツオ、ドナテッロなど多くの巨匠たちの庇護者となり、初期ルネサンスを築き上げました。また、フィレンツェにプラトン・アカデミーの息吹を芽生えさせるなど数多くの業績を残しています。その多大なる功績からフィレンツェの「祖国の父(Pater patriae)」と呼ばれています。
コジモの息子ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Piero di Cosimo de' Medici 1416 - 1469)は、父の後を引き継いでドナテッロやフィリッポ・リッピそしてアルベルティなどを庇護しています。
![ロレンツォ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/4d/bf/j/t02200275_0389048611503120809.jpg?caw=800)
![ローマ教皇レオ10世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/cd/c2/j/t02200306_0360050011503126733.jpg?caw=800)
コジモの孫、ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici 1449 - 1492)は、ボッティテェリそして幼いミケランジェロの才能を見抜き芸術家としての道を歩ませました。彼は、フィレンツェ市民からロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)と呼ばれフィレンツェの最盛期を築きあげています。ロレンツォの次男ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici 1475 - 1521)は、ローマ教皇レオ10世としてラファエッロの芸術を寵愛し、ローマの芸術を高めました。
![コジモ1世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/0a/58/j/t02200287_0459059911503132330.jpg?caw=800)
![コジモ1世が建設を命じたヴァザーリの回廊](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/8f/e3/j/t02200124_0800045011503136439.jpg?caw=800)
コジモ・デ・メディチ直系の血筋は、アレッサンドロ・デ・メディチ(Alessandro de' Medici 1510 - 1537)の暗殺により1537年に途絶えるのですが、メディチの血筋をひくコジモ1世(Cosimo 1 de' Medici 1519 - 1574)が初代トスカーナ大公となりフィレンツェに第二期の繁栄を築きます。彼は、ジョルジョ・ヴァザーリを宮廷画家として迎え入れ、ウフィッツィ美術館やヴァザーリの回廊など建設し、現在のフィレンツェに見られるような美しい景観づくりをしています。
![コジモ2世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/93/58/j/t02200383_0220038311503143307.jpg?caw=800)
![フェルナンド2世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/bd/7e/j/t02200293_0220029311503143308.jpg?caw=800)
コジモ1世の孫、コジモ2世(Cosimo II de' Medici 1590 - 1621)は、ガリレオ・ガリレイを擁護し文化・学術の振興に力をいれ、息子のフェルナンド2世(Ferdinando II de' Medici 1616 - 1670)も、ガリレオの弟子たちを雇い入れ、1657年に科学アカデミーの先駆けとなるアカデミア・デル・チメントを設立。ピッティ宮殿の改装なども行っています。※先にご紹介をしたガリレオ博物館には、フェルナンド2世が収集したものが多く展示されています。
![ピッティ宮殿](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/37/08/j/t02200165_0640048011503152446.jpg?caw=800)
![ピッティ宮殿](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/57/83/j/t02200165_0640048011503152460.jpg?caw=800)
フェルナンド2世の息子コジモ3世(Cosimo III de' Medici )は、キリスト教の信仰に力をいれすぎた結果、フィレンツェの都市を衰退させてしまいます。コジモ3世亡き後、息子のジャン・ガストーネ・デ・メディチGian Gastone de' Medici 1671 - 1737)が引き継ぐのですが、彼は今風に言えば引篭もりで、ピッティ宮殿内にある自室で一日の大半を過ごす生活を続け跡継ぎをのこしませんでした。1737年、彼の代でメディチ家は終焉を迎えます。
![アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/fd/3d/j/t01910264_0191026411503152444.jpg?caw=800)
![アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/21/eb/j/t01940259_0194025911503152443.jpg?caw=800)
ジャン・ガストーネ・デ・メディチの姉であるアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ(Anna Maria Luisa de' Medici 1667 - 1743)は、亡くなる前に “ウフィツィ美術館やバルジェッロ美術館、ピッティ宮殿などにあるメディチ家がこれまで収集してきた膨大な絵画や芸術品のすべてを「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されることに加え、何物もフィレンツェから外に持ち出さない」ことを条件でトスカーナ公国に寄贈しています。
2007 - Anna Maria Luisa dei Medici a Palazzo Pitti ITA 01
私のブログをご覧の方は、記憶がおありと思いますがこのメディチ家の遺言を破った出来事が2007年に起ります。それは、ウフィッツィ美術館に展示されているレオナルド・ダ・ヴィンチ作「受胎告知」が日本で初公開されたことです。
![レオナルド・ダ・ヴィンチ作「受胎告知」](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/58/d2/j/t02200099_0334015111503155634.jpg?caw=800)
![ウフィッツィ美術館 レオナルド像](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/30/de/j/t02200124_0800045011503154029.jpg?caw=800)
この「受胎告知」の日本公開の裏話については以前に私のブログでもご紹介しておりますのでこちらもあわせてご覧くださいませ。
「受胎告知」展についての裏話
フィレンツェの美しい動画です FIRENZE - Palazzo Vecchio e i suoi tesori
本日はメディチ家の始祖ジュヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチから最後の当主ジャン・ガストーネ・デ・メディチまで簡単におさらいしたいと思います。
![ウフィッツィ美術館入り口](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/f2/ec/j/o0800045011503154032.jpg?caw=800)
メディチ家が、フィレンツェの歴史に銀行家として登場するのは、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(Giovannni di Bicci 1360 - 1429)が、ローマにあった銀行を1397年に出身地のフィレンツェに移したことから始まります。
![ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/3c/19/j/t02200300_0351047811503111296.jpg?caw=800)
![コジモ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/d9/9f/j/t02200274_0350043611503116197.jpg?caw=800)
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチから銀行を引継ぎいだコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici 1389 - 1464)は、メディチ家をヨーロッパで有数の資産家に育て上げ、ブルネレスキやミケロッツオ、ドナテッロなど多くの巨匠たちの庇護者となり、初期ルネサンスを築き上げました。また、フィレンツェにプラトン・アカデミーの息吹を芽生えさせるなど数多くの業績を残しています。その多大なる功績からフィレンツェの「祖国の父(Pater patriae)」と呼ばれています。
コジモの息子ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Piero di Cosimo de' Medici 1416 - 1469)は、父の後を引き継いでドナテッロやフィリッポ・リッピそしてアルベルティなどを庇護しています。
![ロレンツォ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/4d/bf/j/t02200275_0389048611503120809.jpg?caw=800)
![ローマ教皇レオ10世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/cd/c2/j/t02200306_0360050011503126733.jpg?caw=800)
コジモの孫、ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici 1449 - 1492)は、ボッティテェリそして幼いミケランジェロの才能を見抜き芸術家としての道を歩ませました。彼は、フィレンツェ市民からロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)と呼ばれフィレンツェの最盛期を築きあげています。ロレンツォの次男ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici 1475 - 1521)は、ローマ教皇レオ10世としてラファエッロの芸術を寵愛し、ローマの芸術を高めました。
![コジモ1世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/0a/58/j/t02200287_0459059911503132330.jpg?caw=800)
![コジモ1世が建設を命じたヴァザーリの回廊](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/8f/e3/j/t02200124_0800045011503136439.jpg?caw=800)
コジモ・デ・メディチ直系の血筋は、アレッサンドロ・デ・メディチ(Alessandro de' Medici 1510 - 1537)の暗殺により1537年に途絶えるのですが、メディチの血筋をひくコジモ1世(Cosimo 1 de' Medici 1519 - 1574)が初代トスカーナ大公となりフィレンツェに第二期の繁栄を築きます。彼は、ジョルジョ・ヴァザーリを宮廷画家として迎え入れ、ウフィッツィ美術館やヴァザーリの回廊など建設し、現在のフィレンツェに見られるような美しい景観づくりをしています。
![コジモ2世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/93/58/j/t02200383_0220038311503143307.jpg?caw=800)
![フェルナンド2世](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/bd/7e/j/t02200293_0220029311503143308.jpg?caw=800)
コジモ1世の孫、コジモ2世(Cosimo II de' Medici 1590 - 1621)は、ガリレオ・ガリレイを擁護し文化・学術の振興に力をいれ、息子のフェルナンド2世(Ferdinando II de' Medici 1616 - 1670)も、ガリレオの弟子たちを雇い入れ、1657年に科学アカデミーの先駆けとなるアカデミア・デル・チメントを設立。ピッティ宮殿の改装なども行っています。※先にご紹介をしたガリレオ博物館には、フェルナンド2世が収集したものが多く展示されています。
![ピッティ宮殿](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/37/08/j/t02200165_0640048011503152446.jpg?caw=800)
![ピッティ宮殿](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/57/83/j/t02200165_0640048011503152460.jpg?caw=800)
フェルナンド2世の息子コジモ3世(Cosimo III de' Medici )は、キリスト教の信仰に力をいれすぎた結果、フィレンツェの都市を衰退させてしまいます。コジモ3世亡き後、息子のジャン・ガストーネ・デ・メディチGian Gastone de' Medici 1671 - 1737)が引き継ぐのですが、彼は今風に言えば引篭もりで、ピッティ宮殿内にある自室で一日の大半を過ごす生活を続け跡継ぎをのこしませんでした。1737年、彼の代でメディチ家は終焉を迎えます。
![アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/fd/3d/j/t01910264_0191026411503152444.jpg?caw=800)
![アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/21/eb/j/t01940259_0194025911503152443.jpg?caw=800)
ジャン・ガストーネ・デ・メディチの姉であるアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ(Anna Maria Luisa de' Medici 1667 - 1743)は、亡くなる前に “ウフィツィ美術館やバルジェッロ美術館、ピッティ宮殿などにあるメディチ家がこれまで収集してきた膨大な絵画や芸術品のすべてを「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されることに加え、何物もフィレンツェから外に持ち出さない」ことを条件でトスカーナ公国に寄贈しています。
2007 - Anna Maria Luisa dei Medici a Palazzo Pitti ITA 01
私のブログをご覧の方は、記憶がおありと思いますがこのメディチ家の遺言を破った出来事が2007年に起ります。それは、ウフィッツィ美術館に展示されているレオナルド・ダ・ヴィンチ作「受胎告知」が日本で初公開されたことです。
![レオナルド・ダ・ヴィンチ作「受胎告知」](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/58/d2/j/t02200099_0334015111503155634.jpg?caw=800)
![ウフィッツィ美術館 レオナルド像](https://stat.ameba.jp/user_images/20110923/23/pheme-japan/30/de/j/t02200124_0800045011503154029.jpg?caw=800)
この「受胎告知」の日本公開の裏話については以前に私のブログでもご紹介しておりますのでこちらもあわせてご覧くださいませ。
「受胎告知」展についての裏話
フィレンツェの美しい動画です FIRENZE - Palazzo Vecchio e i suoi tesori