目的を達成するには、我慢をしないといけないと反射的に考えてしまう。
我慢もせずに、得られるものはないとも考える。
また、高度な水準のものでなければ価値がなく、そこまでたどり着けないならやらないほうがいいと考える癖がある。

 

高度な水準に到達するには、たくさんの行動を費やさなくてはいけないので、そう考えるのだが、そもそも、低水準でなぜいけないのか。
高度な域に達しないと満足できないという信仰みたいなものを持っていたが、それは間違っているのではないか。
簡単にできること、誰でもできること、そういう水準のものでも、自分が満足していればいいではないか。

 

個別の目標でも、人生全体でも最終的には自己満足である。
自分の感情をもっと大切にしてゆきたい。
 

こういうブログを書いているのであることからもわかると思われるが、私は会社に行くのが苦痛である。


会社が生きがいとかいう人もいるのだろうが、私はそんなことはない。正直なところ、他人と一緒に何かをするというのが、基本的に大嫌いである。ましてや、責任やら調整やらがたくさん入ってくる会社組織というものの中にいて楽しいと思ったことは一度もない。

 

仕事を楽しむとか、そういうのはもうあきらめた。あとは、なんとか生活のためにシノいでゆくしかないっていうのが実際なのだが、昔のように仕事に感情を支配されるような状況だけは避けたいと思っている。ましてや、最近は、どんどんと仕事が嫌になってゆくしかつてのような責任感だけで無理をする意思もなくなってしまっている。それをやったら本当に心が壊れる。

 

だから、最近はとにかく、会社を出たら仕事のことを考えないようにしている。特に、朝起きて会社に向かっているときに、どうしてもネガティブな想像をしてしまう。これをなくそうと、努力しているところであるが、なかなかうまくはいかない。

 

だから、いっそ、会社いる間だけは別の人間であると定義してしまおうとしている。会社のドアから一歩出たら、本当の自分であり、その自分の生活には会社はない。そして、会社に入れば、機械のように仕事をするだけのマシンのような自分であると言い聞かせる。やってみても、そうそうできないだろうが、会社でいやな気分になったときに、自分はマシンだと言い聞かせることで少し落ち着かせている。
 

筋肉少女帯の歌に「妄想の男」というのがある。デンパな曲であるが、歌詞に特徴的なのが「ああ妄想だよ」というフレーズで、「ああ妄想だよ」「ああ妄想だよ」「ああ妄想だよ」「ああ妄想だよ」となんども繰り返される。

 

ブログの趣旨と違ういきなりな内容かと思われるかもしれないが、そうではない。

 

『反応しない練習』という本の著者がこう言っている。

 

「不安は妄想である」と。

 

さらに言うと、頭の中で考えたことはすべて妄想なのであると。

 

これをもっと、詰めてゆくと想像も所詮は頭で考えたことでしかなく、事実ではないのだから、妄想でしかない。妄想を事実をつなげて考えるから苦しいのであって、妄想は妄想なのだと知ることが重要だと。

 

数日前に「身近な妄想をしない」と書いた。これもある意味、似たようなことで妄想とはっきりわかるようなことしか妄想しないようにすることで、切り分けをしている。

 

だが、実際には妄想は主体的に考えることで展開されるが、その場で浮かんでしまう想像はどうにもならない。他人のふとした反応で、悪印象を持たれているのではないかとか、物事を始める前に瞬間的に思う失敗への恐怖などである。

 

だが、こういう「想像」も所詮は「妄想」であって、根拠もなにもないのだから、まずそういうのが浮かんだから、「妄想」であると認識すればいい。上述の著者の言っている意味は、そういうことであるようだ。

(内容は、ここを読んでいただくといい。http://toyokeizai.net/articles/-/84567

 

これに触れて、私も実践してみようと思ってやってるのが、冒頭の歌である。
他人のふとした反応が心に刺さったり、不安に駆られたときに、「ああ妄想だよ」と心の中で歌うのである。そこで、止めてしまうことができるようになりたいと考えている。

すぐに「しなければならない」と考える性格なために、苦労が多い。しかも、よくないのは、趣味に対してまでこの思考を持ち込むことである。
特に、ネトゲやソーシャルゲームをやるようになってから、この傾向が強くなった。

 

これらのゲームの傾向から、毎日ようにやることを求められることがある。常にシステムが変わってゆくために、やらない時間があると、周囲から遅れてしまう。そのために、ある程度まで進むと、やらなくてはいけないというノルマ感が先に出てしまう。

 

趣味は楽しむためにある。

 

なのに、趣味にノルマなど考えていてもしょうがない。いや、ノルマを果たすことが楽しいなら、いいのである。ゲームに効率を求めるのもノルマを求めるのも、それが楽しいなら、やればいい。だが、楽しくないのに「ここまでやったのだし」と無理にやるのはおかしい。

 

以前、ノルマについての考え方も変えないといけないと書いた。そのとき、ノルマ感を感じたらやり方を変えるべきだと書いた。仕事のようにやらなければいけないことが多いのに適用してゆくのはなかなか難しいが、まずは、趣味の部分で、やりたくないときは方法を変えるということ実践してゆきたい。失敗しても、どうせ遊びであり、蓄積をすべて捨ててしまっても、所詮はゲームである。

 

※ ノルマについて① 自分のためのノルマは過酷にしやすい
※ ノルマについて② ノルマに支配されないために
 

以前と同じようなことをするのを嫌がる傾向がある。特に、こういう文章などはそうである。以前に、小説を書いていた頃があるので、そのころに刷り込みしてしまったオリジナル信仰があるせいかもしれない。

 

昨日と違うことをしていないと、前進している気がしない。前進=成長でもないと思うのだが、昨日と同じであれば、成長もないのだと考えてしまう。

 

そのせいで繰り返しを嫌がる。結局は、結果を急いでいるせいかもしれない。
しかし、繰り返せば、精度はあがってゆくし、繰り返しの中でも、まったく同じではない。というか、まったく同じことを繰り返せたら、それはそれですごい才能である。
だから、繰り返しも無駄ではないと信じて、同じようなことを繰り返すしかないのだと思う。
 

頭の中でいろいろと妄想してしまう癖がある。
行動よりも先に考えてしまうタイプでもあるからだが、いろんな思考が浮かんでは消えて、その中で自分を登場人物にして「ああであったら」「こうであったら」と考えてしまう。

 

頭の中でどれだけ自分によって有利なシチュエーションを考えてみたところで、それが実現するわけでもない。しかし、妄想の段階であれば自由であるから、いろんなことができる。そして、いずれ、現実ではないことを突き付けけられて、ため息をつく。

 

そんなことが多かった。いや、今もある。

 

だが、ある頃から、こういう癖がよくないと考え始めて、可能な限り自分の実際の生活に誓いような妄想をしないようにした。会社で認められる、いやな相手にへこませる、競馬で当たって数十万を手にする、といった、どことなく手が届きそうな妄想をである。
こういう思考遊びにふけってしまうと、精神衛生上よくない。

 

だから、いっそのこと、現実味のない妄想をするようにした。考えないのは無理だから、別の妄想で打ち消すということである。数千億円を手に入れて、すごい悠々自適な生活に入るとか、そういう妄想である。
これであれば、身近な妄想と違って、頭の中で感情が暴走することもなく、また、実現できない事実にうち当たっても、実現性が0だからそれをもって落ち込むということもない。

 

この習慣を手に入れてから、少し楽になった気がする。
 

何か目標を持つ。その目標に向かって行動しているときに、投入できる時間のすべてを捧げていないと本物ではない。

 

そう考える癖がある。

 

金を稼いでいる仕事の時間は仕方がないが、睡眠時間を削って、アフター5はすべてそれに注ぎ込み、休日もそればかりしている。成功には、それが必要であると、行動を始めると反射的に考えてしまう。

 

努力が称賛されたり、好きで一心に打ち込んでいるとか、そういう成功譚や物語が世の中にあふれているからそう思ってしまうのかもしれない。

 

しかし、それをやってできるかといわれるとできるわけでもない。

 

よくないのは、それができない自分は、成功できないのだと思うことである。
しかも、思いついた最初は高揚感のために、やればできてしまう。でも、途中でその高揚感がなくなれば、すぐにつらくなる。

 

例によって、ここで行動が止まってしまう。

 

情熱とモチベーションを最高にキープして行動を続けられるの才能は貴重なものであるが、自分が持っていないからといって、自分の成功を否定する必要はない。

片手間でも、空いた時間でもいいから、少しでもやるという姿勢から始めるべきである。

最悪のパターンというのがある。例えば、私の日常の最悪パターンというのは、ストレスを紛らわすため深酒してしまい、翌日会社を休んで、しかも一日中寝ているだけで罪悪感と後悔で悶々とするなどという場合である。

 

この最悪のパターンを避けるために、酒も飲まずに、きちんとした生活習慣で趣味でストレスを発散して、などと考える。

 

しかし、こういういわば「綺麗」な方法でどうにかできる状況にあれば、そもそも、最悪のパターンにはまることはない。

 

だから、最悪さえ避ければいいのだと考えるようにしている。

 

その行動がマイナスの結果を生むとしても、それでさらに大きなマイナスを抱え込むような状態を避けられるのであれば、それでいい。無理にプラスにしようとしても、できないで、最悪なうえで挫折感すら抱えることになる。

 

最悪を最善にしようというのが、そもそも無理なのであって、最悪な時にはちょっとましな程度で目指すようにしている。
 

「今から始める」っていうと、自己啓発みたいだが、違う意味で言いたい。

 

「今」とは、「今すぐ」という時間ではなく、「現時点の自分」という意味である。

 

私のように後悔屋とでもいうべき人間は、何かをしようとすると、即座に過去の失敗例が頭に浮かんでしまう。しかも、以前に書いたのだが、すべてを失敗と評価する人間であるため、浮かぶの失敗例には事欠かない。
(「すべてを失敗と評価する」はこちら)

 

しかし、過去は過去であり、次に失敗するとは限らない。この後、成功するかしないかは、過去とは関係なく、現時点の自分の能力とこれからの行動にかかっている。

 

つまり、行動を開始する場合に、「今」を意識して、「今の自分」「今の状況」を基準に考えるべきである。
過去の自分と今の自分は違うし、過去の状況と現在の状況では全然違う。

 

過去の失敗で委縮したら、強く「今」を思うようにしたい。

こういう風に考え方を再構築しようとしていると、心構えを変える理屈はいくつも出てくる。
もちろん、どれでもそういう風に考えようとはしているが、かといって、いつもできるかというとそういうことはないし、むしろできないことのほうが多い。

 

この考えが実践できれば、悟れるのではないかというなものもある。

 

そして、考え方を変えようと決意をしたのに、今までと同じような思考パターンにはまっている自分に、「決意したのに」と自己嫌悪を覚える。

 

だが、長年の思考パターンをすぐに変化させられれば、苦労はない。
すぐに達観して、違う自分になれるほど、人間は簡単ではない。

 

それでも、少しでも楽観できるなら、それはそれで進歩であるのであって、それでも十分だと考えるようにしている。
まぁ、この考え方も実践できるのは、10回に1回くらいだとは思うけれど、それでも十分意味はあるはずである。