ネガティブな感情から自分に変化を求めると、今までやっていない、新しいことを求めるようになる。そして、たいていはさほどに新しいことが思いつかなかったり、考えはするが前途の膨大さに辟易して、着手もしなかったりする。

 

もともとが、今、自分がおかれている状況が苦痛であるから、そこから脱出したいという気持ちで動く。
だが、新しいことを始めたからといって、短期間に現状と同じ水準に達するは無理である。嫌々ながらでも、長年やってきた仕事のスキル水準は当然に高く、ちょっと頑張った程度で置き換えられるものでもない。

 

ようするに、ないものねだりなのである。

 

それよりも、今、手元にある目の前にあるできることを実行し、そこから発展させる方が現実的である。挫折の経験を思い出させるものかもしれないが、やればできることをやるのが、一番の近道であるし、そのほうが新しい何かに近づくはずである。

 

目の前にないものを探すより、あるものをまず磨いてゆこうと思う。

物事に集中して当たれたときというのは、気持ちいいものである。以前に、文章を訓練していたころがあって、そのころにライターズハイという状況になんどかなった。流れるように文章が出てきて、思考の速度でタイピングできないのがもどかしいというような状況は、味わってみると、忘れられないものがある。

 

だが、いつも、そういった状態になれるかというと、そんなことはない。むしろ、通常は一行の文章を書くのにも辛いという状態だった。ひねくりだそうともがいたところで、出てこないときは出てこない。結局は、出てくるまで待つ間に苦悩していただけということが多かった。

 

一度、ライターズハイのような状態を味わってしまうと、それが基準になってしまうところがある。特に私の場合はそういう傾向があり、トップスピードを基準にその速度がでないと、非効率ではないかと考えて、やる気を失う。

 

しかし、ライターズハイのような状態というのは、ゼロヨンレーシングみたいなものであって、しばらくやっていると、あっという間にエンジンがいかれてしまう。

 

まず、知らないといけないのは、トップスピードではなく巡航速度の方である。巡航速度には、補給や整備の時間も含まれる。休んでいる、止まっている、それを含めて巡航速度である。

 

集中してやるだけが作業ではない。量より質というが、そういうのは、特別な環境ある場合であって、行動を繰り返すというときには、量をこなすためのペースも必要になる。

やりたくない理由として、最後までやらないといけないからというのがある。完全主義がよくないことは以前にも書いてきているが、これは、もっと、単純に始めたら終わりまでやらないといけないという、普通のことでもある。

 

でも、やりたくないときは、この終わりまでやらないといけないという考えがすぐに心にのしかかってくる。

 

こういうときは、終わらせないといけないと思う気持ちをなくしてしまい、少しだけでもいいと考えるようにする。
作業というのは、始めたら終わらせないとダメなものも多い。料理なんかは、始めたら後片付けまでしないと、かえって状況を悪化させてしまう。しかし、そうでないもの、例えば勉強ならば、1時間の予定を10分にしても、進みんだ分が遅くなるだけである。

 

また、どんな作業でも、下見という行動がだいたいはある。料理であれば、冷蔵庫にある食材を確認する、掃除であれば掃除箇所の汚れ具合を確認する、などである。

 

見ることでも十分に意味がある。しかも、意外なことに常に効率が非いい。
なぜなら、状況が理解されることでこの後の計画が鮮明になるからである。人間は、やることが具体的に細分化されると、やる気が出てくる。

 

掃除を例にとると、汚れた箇所を見ることで、ここの作業がはっきりして優先順位がつけられる。そうすると、「全部やると大変だから、汚れのひどい3か所だけやろう」って気になってくる。実際やり始めると、やってしまえと、全部やることも多い。

 

また、その場で解決してしまうことすらある。
掃除であれば、見ることでどこもたいして汚れていないこを知る。だったら、次回でもいいやという結論がでる。こうなると、「やらなきゃいけない」を思う気持ちもなくなって気楽なものである。

やる気がでなかったら、見るだけでもしてみるといい。

 

私は非常にめんどくさがりやである。些細なことでもめんどうがる性格をしている。
一方で、めんどうくさいと考えることそのものは、あまり否定はしていない。

 

人間にはやりたいこととやりたくないことがある。やりたいときとやりたくないときがある。それはしょうがないことであって、これに逆らっても仕方ががないと思う。

 

一番いいのは、やりたくないことをやりたいことに変えることである。私はこれが苦手でたいていのことは、めんどくさがっているうちに、ますます、やる気がなくなってゆく。

 

だから、めんどうだと思ったときは、そのめんどくさく感じてる心をなんとかしないといけない。

 

方法として有効なのは、考える前に始めてしまうことなのだが、私はそれがなかなか実行できない。なので、とりあえずは、動くようにした。動くというのは、やるべきことを始めるのではなく、まず、ベッドから起きる。着替える。椅子から立つ。そういうことである。身体に「開始」を告げると、そのあとのことは、前よりもめんどくさいと思わなくなることが多い。

 

それでもやる気がでないのでは、また、別の方法をとることになる。

3連休ということで、何をしようかと考えている。溜まっているゲームのクエストを進めなきゃとか、どこかに出かけて遊ばなきゃとか。掃除とかそういうのもあるが、何か、遊ばないといけない、遊ばないともったいないという気持ちになってもやもやしている。

 

サラリーマンをやってると、3連休はあまり取れないから、有意義に使いたいのはわかるのだが、無理矢理遊んで面白いわけでもない。休日でしかできない遊びがあるからといって、効率的に休みの日にこなさないといけないわけでもない。

 

must beにしないっていうのは、以前から考えてる大きな目標である。私の場合、多くのことが強制要素になってしまい、肝心な時につかれている傾向がある。休みに一日だらだらしていることの何が悪いのかと思って、いっそ何もしないで休もうかとも思う。
 

年齢を重ねてくると、自分の限界もわかってきて、思ったよりも能力がないのだという事実を突き付けられることもある。
それを受け入れるのは厳しいものがあるが、受け入れてゆこうとは思っている。

 

無能を認めて開きなおるというよりも、自分の無能を認めた上で、他人と比較しないでゆきたい。他人と自分を比べた劣等感に苛まれるのは、無意味極まりない。無能を感じるとどうしても、自分よりさらに無能な人間を探して安心するというようなことにもなる。それで一時をしのげても、当然、あとで自分に返ってくる。

 

無能を受け入れて、その中でしのいでいけばばいい。能力の上下というのは、単なる指標でしかない。重要なのは結果であって、その結果も他人と比べるものではない。自分が決めた目標に対して進んでいるかどうかのみであり、自分の能力と自分の目標の間で折あいをつけられさえすればいいのである。
 

昨晩はかなり久しぶりに会社に泊まりこみだった。昔はしょっちゅうであったが、最近はほとんどなくなっていたが。
ただ、泊まり込みはいうほど苦痛ではなかったりする。誰もいない会社は意外と好きで、要するに他に人間がいるのが嫌なのである。

 

それはおいといて、修羅場になるとむしろ元気になる。追いつめられると選択肢がなくなり、目の前にあるやること以外を考える必要がないうえ、ダメでも会社を辞めるいい機会だくらいに開き直ることが多い。

 

追いつめられると、火事場のバカ力が発揮されるのは昔からで、これにはずいぶんと助けられてはいるのだが、そうそう日常的に発揮していては心が壊れるから、基本的にあてにはならないものである。

 

ただ、それでありながら、修羅場のテンションで普段から行動できることを求めているところがあり、これが、継続した行動を阻害する要因になっている。両者は違うものだと戒めて、継続した行動力をつけようとしているが、なかなかうまくいかない。

継続は再開する力であるとも考えているが、やはり毎日ようにやらずに行動を止めてしまうと、やめてしまうのではないかと恐れてしまう。ブランクが長くなれば、再開するにも労力が要るのも事実である。

 

だから、前進していないと考えたときに、足踏みでもしないよりはいい、と以前に書いた。ブログにしても、書きたくないときはあるのだが、休んでしまうと書かなくなるのは簡単なので、多少無理でも書くようにしている。

 

とはいえ、こういうのを繰り返していると、つまらないと感じる記憶を積み重ねてしまう。これがよくないのも知っている。つまらないと思う感情は、足に結び付けられた鉄球のようなもので、その記憶が多くなればなるほどに、前に進む意欲を失わせてしまう。

 

だから、足踏みの仕方を考えようと思う。繰り返しでも、質が低くても、他愛のないことでも、その場で一番無理なく、楽しみに最も近い方法を選択して実行する。成功を求めないで、楽しみを求めるようにする。

 

ベイビーステップという言葉がある。

 

赤ん坊の一歩のようにつたないものでも、少しづつやってゆくという意味でもあるらしい。(ちなみに、同名の漫画があって、私は大ファンだったりする)
前進を感じないときは、最初に戻った気持ちに、つたない一歩を踏み出すようにしたい。

行動するときに、計画や方針を立てる。プランを考えているときににはそれなりいろいろな案が出てくる。しかしながら、実際に始めると、うまくゆかずに、途中で頓挫する。

 

こういう経験を繰り返していると、二つの悪い傾向が表れる。
一つは、計画段階での発想に「できる」「できない」が強く入ってくる。詳細な計画にする段階はともかく、立案の段階ではアイディアを出すことに制限を付けるべきではないのだが、発想の最初の段階で、できないと思ったらそれ以上の思考を止めてしまうようになってくる。
もう一つは、考えたプランはやらないといけないと考えることである。なぜか、考えが浮かんだ瞬間にやらないといけないという意識がでて、さらに上のできないと思ったときに一種の小さな失敗をした感覚になる。

 

こうなってくると、立案自体が苦痛となってくる。立案が苦痛になると、考えて出したものを廃案にするのに、強い徒労感を覚える。この徒労感が、さらに、考えたことはやらないというけないと思う気持ちをさらに増幅させる。

 

考えたからって実行する必要はない。
だから、無駄なタガをはめずにアイディアは出すことである。その中で、実現できそうなのをやってみて、ダメから方向修正すればいいだけである。

 

そもそも、立案というのは全体でも一番楽しい段階のものである。ここをわざわざつまらなくしてしまわないようにしたい。
 

以前に効率について書いた。その時、効率といいつつ、作業密度を上げているだけであることが多いということも書いた。(「効率について」)

 

だが、簡単に言えば効率的に動くのが楽しいなら、それはそれで素晴らしいことなのである。そして、作業密度を上げて動くのも、最初は楽しいことが多い。
というのも、やはり、できなかったことができるようになるわけである。慣れによって、倍の速度で手を動かせるようになったという成長は楽しい。だが、こういう作業密度を上げるというのは、どうしても上限があり、その壁に突き当たったとき、単位時間あたりの疲労が大きい作業に辟易し始める。

 

では、そもそもの作業の量を減らすタイプの効率化はどうか。こちらも成功すると、労力は減るわけであって楽しいのであるが、こっちのタイプは、成功したとたんに楽しくなくなる。というか、効率化が達成されるすぐにそれが「当たり前のこと」になるのである。

 

実は、効率化が楽しいのは、効率化を考えている段階、効率化にチャレンジしている段階でにしか存在しないといっていい。一番いいのは、作業の量を減らすタイプの効率化を常に行い続けて、その過程を楽しむことであろう。

 

そして、楽しむためにやってはいけないのは、結果を急ぐことである。結果が早くほしいからと効率化を求めても、効率化を楽しめないし、またそういう姿勢では考えの練りこみも少なく、成功しない場合も多いと思う。

 

まずは、日常的に効率化を考え、それを楽しむようにしたい。