どうも、今日は煮詰まっています。
先に進めている感じがしないといいますか、そういう状況です。正確には、同じところをぐるぐる回ってるような、徒労感と焦燥感に支配されている状況です。
今までだと、こういう状態で、ネガティブになって、行動が止まるのですが、こういうブログを書き始めたのですから、少しは違った対応をとれないかと。

 

投げたって、どうにもならないです。
進んでいないと感じるのは、成果を感じていないということで、行動していれば成果はあるのだと考えようとしていても、そう思えないこともあるかと。

 

でも、、堂々巡りでも、繰り返しでもいいから動くのはやめないようにしたいと思います。
足踏みでも動いていれば、次に前に進めそうなときに、素早く動けるでしょう。座り込んでしまったら、立ち上がることから始めないといけないわけですし。

清く正しく美しくというが、人間っていうのは、どういう存在でも基本的に汚いものである。
まず、それを受け入れる。

 

他人がではなく、まず、自分が汚い存在であるということを受け入れる。
そうすると、少しは楽になる。
他人にいらだつことも少しは減る。

 

もちろん、そう考えたところで抜本的な解決にならないし、達観して聖人のように悟れないが、そもそも、汚い自分なのだからそれも当たり前で、どうせ世の中人間はみんなそうなのだったら、それでいいではないか。

 

雑な考えであるが、無駄に細かく考える性格でもあるので、雑に、同じ汚い者どうしなんだから、まぁいいだろって感じでやろうとしている。

私のようにネガティブなことばかり考えてる人間は、被害者意識も強い。
そして、些細なことで攻撃されたような印象を抱いていらだつ。
かといって、それを相手にぶつけることもできず、ただ、相手を恨むだけである。

 

被害者になりたいなら、戦わないといけない。
世の中には、自分が受けた被害ばかりを主張する人間がいるのだが、残念ながらそれはある程度正しい。クレーマーような人間が正しいとは思わないが、被害者であろうとすなら、クレームをつけないといけない。

 

被害が主張できないのは、それなりに理由があるからであり、だいたいにおいて、100%相手に非があるからではないである。ある程度は、自分が悪い。仮りに7:3で相手が悪くても、自分にも非があるなら、私のような人間は被害を主張できない。

 

そういう性格がいいか悪いかはおいておくが、明らかによくないのは、心の中で被害者になって、実際には行動しないとである。
被害者意識を持つなといって難しいのも事実であるが、その意識の中で遊んでいるような状態はいけない。

 

心の中で相手に怒りをぶつけたところで、状況が変わるわけでもない。
それ以上によくないのは、その心の中で怒る自分の矛先は、必ず自分に向かってくる。最後に何もできない、何もしない自分をののしることで、終わる。そのたび、自分が付かれてゆく。

 

被害を主張しないなら、忘れる。こうしないと、被害はさらに増大する。
 

何かアイディアが浮かんで、それを吟味する。アイディアを膨らませて、すごいものにしようとする。
頭の中でこねくり回して、不随するアイディアを考える。それらを統合して、整合性のあるものにして、その結果、だいたい止めてしまう。

 

完全主義と恥ずかしいものを出したくないという思考が強いために、やっているうちに、プラス面よりもあとからあとから出てくる膨大な欠点(しかも、些細なものが多い)に引っ張られて、欠陥品にしか見えなくなる。そして、その欠陥品の不具合が全部なくなってから出そうと、出すのを辞めてしまう。いや、出せる水準まで完成していることすら稀で、設計図を作ってる段階で投げる。

 

こういう、「出されなかった名作」が頭の中に溜まってゆけばゆくほどに、腐っていって、次に新しいものを作ろうとしたとき、足枷になって行動にブレーキをかける。

 

欠陥品でもなんでも、まず、出してしまえば反応はある。無反応であっても「反応がなかった」ことはわかる。名作か駄作かわからなかったのが、駄作とわかる。こうなって初めて、この作品を忘れることができる。発表しないうちは、内に溜まってゆくばかりであって、足を引っ張ることしかしない。

 

「発表された駄作」は「発表されない名作」より上である。

 

そう思う。だから、良し悪しなど考えず、拙速だろうと完成度がひくかろうと場合によっては未完成だろうと、出し惜しみをしないで発表してゆこうと考えている。

もし、完成度が低いが故に低評価であったら、作り直せばいいだけのことだと思う。

仕事にしても、こういうブログの文章にしても、出すのにあたって恥ずかしくないものを作ろうとする。
他人の目にさらして、恥ずかしい思いをしたくないから、品質を保とうとする。
そして、必死になってきちんとしたものを作っても、たいてい、他人の評価はたいしたことない。

 

一方で、「恥ずかしい」ものを作ってしまう場合もある。
だが、その「恥ずかしい」というのは質が低いというものばかりではない。「恥ずかしくて出せない」の中には「出来が悪い」という意味と「恥ずかしい」が混在している。そして、出来が悪い場合は、受け入れられないのが簡単にわかるので、だいたいは作り直す。出す時でも、腹をくくっているから、暗鬱にはなっても恥ずかしくはない。

 

「恥ずかしい」ものというのは、「笑われるかもしれない」ものであって、笑われるのが確実なものではない。
つまり、評価が定まっていない。

 

仕事のメールでも、二十年も仕事でメールを出し続けていれば、多少雑に書いても恥ずかしいとも思わない。雑でも通じるのがわかるからである。
一方で、新人が最初の一通を出す場合は恥ずかしい思いをする。たが、それが通用したときには、成長が待っている。

 

「恥ずかし」くて「評価が定まっていない」ということは、要するにチャレンジしているということである。
そして、高い価値はチャレンジしたところに埋まっている。それは、特に自分においてそうである。

 

出すのが恥ずかしいと思った場合は、価値があるのだ。

そう思うようにして、このブログも恥ずかしい内容だと思いつつ書いている。
 

以前に、行動すれば成果は絶対に出るということを書いた。
しかし、それでもやはり目標というものがあり、それを達成できるのとできないのでは雲泥の差があるということはある。

 

例えば、いくら競馬の勉強をしても、実際に的中しなければ意味がない。目的が金であるのに、競馬に詳しくなったとか、次はもっとうまく予想できるといっても、なかなか納得しにくいのもあるのも事実である。目標以外の部分で成果があるということは事実であるが、それが最終的な納得につながらない場合もある。

 

だから、まずは、こういうゼロサムゲームであるものとそうでないものをはっきりわけたらどうかと思う。そして、ゼロサムゲームでないものにまで、ゼロサムゲームの思考を適用してはいけない。

 

例えば、自分が常に戒めているのが、節約についてである。

 

仮に月に15万使っていたとする。それを9万にしたいと考える。節約を心掛けたが、12万使ってしまった。
こういう場合に、「ああ、やっぱりダメだった」と考えてはいけない。目標の6万円には達成しなかったが、半分の3万円は節約できたのである。達成率は50%であった。それが事実である。

 

いけないのは、「自分は節約ができないのだ」と考えて、辞めてしまうことである。実際には1円でも節約すれば、金は貯まるわけである。この行動は、やっただけ確実に効果がある。
1日1000円の節約を毎日やるのが目的であったが、11月は1日~29日までできなかったとする。「最後の1日やったところで無駄」ではないのである。一回でもやれば、その分だけ確実に成果がでる。毎日やれば「達成率100%」であるが、見方を変えれば「最低ノルマは1回以上」である。

 

こういうタイプの行動は、やるのに躊躇う理由がどこにもない。

 

今やっている行動が、どちらのタイプであるか認識して、成果についての考え方を切り替えてゆくのが重要だと思う。

 

 

(※) ただし、注意しないといけないのは、ダイエットや節約はリバウンドがあるのでその制御がいる。頑張って節約しても、その翌月に反動で使いすぎるようなことあってはいけないので、そこは重々、自分を戒めてゆく必要がある。
 

自分の居場所がないと感じることもある。職場にしてもそうである。若いころは、もっといい職場があるのではないかと夢想したこともあるが、どこに行って同じ、は青い鳥はどこにもいないということで落ち着いた。

 

よく、「今いる場所が自分の居場所だ」という話を耳にする。石の上にも三年とはいうが、居場所は作ってゆくものだと。だが、10年同じところにいても、自分の居場所だと感じることもない。

 

思うのは、職場にしろどういうコミュニティにしろ、他人が居場所を提供するのではないということである。

他人が自分にそこに居ていいと受け入れてくれるから、居場所ができるのではない。

自分がそこに居てもいい人間であると、まず、自分が承認しなければ、他人がどう言おうが居場所がない感覚はなくならない。

 

まず、今自分がここにいることを肯定することから始めたい。
 

大小さまざまな不安はある。
不安に対応しても対応した結果、不安がさらに発生するのだから、不安は減ってはくれない。
それらの不安にすべて対応することは無理である。しかし、対応しないと不安は消えてはくれない。

 

ジレンマである。
だから、なるべく一線をはっきりさせようとしている。
不安に対して対応する気があるならすぐに動く。対応しないなら、忘れる。対応しなければその不安はなくならない。自然消滅してくれる場合もあるが、それまでは常に不安のままである。

 

だったら、対応しない不安のことは考えないほうが得である。行動しないなら、不安感を感じるだけであって、マイナスしかない。

 

とはいえ、考えまいとしても思い浮かんでしまうのが不安である。
そういう場合は、すぐに打ち消しするようにしている。方法はなんでもいい。舌打ちでもいいし、大声では困るが小さく罵声でもつぶやくでもいい。打ち消しのアクションを作って、反射的に考えることに対応するようにしている。

 

それなりに効果はあったのであるが、いまだに対応しない不安を考えしまう癖は抜けてくれない。
 

私は人の目を気にする人間である。人に感情を気にして、心を動揺させることが多い。

 

「評価されたい」と考える心もある。

 

でも、私はその評価されたいと思う心を捨てたいと思ってきた。

承認欲求というものなのだろうが、それが悪いとは私は思っていないのだが、私の承認欲求はよくない承認欲求だと思っている。

 

私は承認欲求には、2種類あるのではないかと思う。

 

それは、
 「人によく思われたい心」

 「人に悪く思われたくない心」
である。

 

どちらも同じに思えて違う。

 

「人によく思われたい心」なら、人が喜ぶことをして関心を得ようとするだろう。
でも、「人に悪く思われたくない心」の場合は、他人の不評を買わないことをが中心になってしまう。
簡単に言えば「叱られない」ようにしようとする。

 

「人によく思われたい心」が0点から加算する心なら、「人に悪く思われたくない心」はマイナスを0点にしようとする思考である。
私の場合は後者なのだが、この考えに囚われ始めると、非常につらい。しかも、そのために必死になったとしても、だいたいは忘れられるだけなので、バカバカしい。

 

この種の承認欲求があるのはしょうがないが、せめて「人に悪く思われたくない心」だけでも振り回されたくないようにしたい。
 

不安に打ち勝つにしても、なににしても、行動を続けないとダメであると考えている。
今まで書いた内容も、その基本に従った内容でもある。

 

止まってしまうことを恐れないというのは、それに反するような内容に見えるかもしれない。

 

けれども、今の私は、行動を始めては継続も完遂もできない状況が多かったため、行動をが止まってしまうことを恐れて、そもそも最初の一歩を踏み出さないというようになってしまっている。

 

「どうせ続かないんだ」「調子がいいのは最初だけだ」

 

こういう思考がやろうと考えたすぐあとに浮かんでくる。

 

だが、始めなければ続くはずもない。始めなければ終わることは絶対にない。

 

始めるだけでもいいのだいうことを、もう一度思い出す必要があると思っている。

 

拙速でもいい、三日坊主どころか一日坊主でもいい。始めるることは十分に価値がある。止まるのを恐れて何もしないくらいなら、たった一歩だけでもいいから行動を始めるべきである。

 

一歩でも動いたことは、動かないよりもはるかにいい。