ここしばらく、自分の心の状態がよくないことを自覚していた。

 

そのため、「心のリストラ」が必要だと痛感している。

 

リストラというと、すっかり雇用調整のための解雇というイメージが定着してしまっているが、本来言葉の意味は、再構築(リストラクチャ)である。

 

私の心は、長い間の習慣で、悪い思考パターンがこびりついてしまっている。

 

その思考パターンを紐解いて、再構築したいと考えている。捨てるべき思考もあるだろうし、視点を変えるべき思考もあると思う。

完全主義を当たり前と思っていた自分もそうであるし、悪しき努力主義者である自分もそうである。

 

このブログで書いているのは、心のリストラを始めてから考えた内容であったり、ブログを書き始めてから思ったりしたことであったりする。
書き始めた理由は、なんとなくで、特に方向性も考えていなかったのだが、最初に書いた内容が心のリストラに関する記事であったためか、内容がそういうものばかりになってしまった。

ブログにして思ったのだが、自分だけで書き留めていても、無力感が強い。仮に読み手がいなくても、発表してしまったほうが、愚痴を言ったような気分になって、ストレス対策になるような気がする。

 

もう、10日ほどになるが、ブログのタイトルを考えていなかった。ちょうどいいので、「心のリストラ」をタイトルしようかと思う。そういう内容ばかり書くかはわからないが、むしろ、他の題材ばかりになるほどに心の余裕を目指してゆきたい。

完全主義者というのは恐怖体質の者が多いが、私もそういう人間である。
とにかく物事の悪い面を見て、それを不安に感じるという性格をしている。

 

不安があれば対応しようとはする。しかしながら、すべての不安に対応することはできないし、また、一つの不安に対応するとその対応した結果によって、また、不安要素が生まれてしまう。将来のために金をためると、今度は、その金を盗まれる不安が生まれるようなもので、結局は不安は尽きない。

 

行動すればするほどに不安は現れ、いつか息切れして不安に対応することをやめてしまう。
それで不安が消えればいいのだが、消えることは絶対にない。

 

また、リスクに対して非常に敏感だから、問題を起こしそうならやらないほう選ぶ。
それによって、やらないことによる失敗を犯す。そういうことが多い。やったことによる失敗よりも、やらなかったことによる失敗のほうがはるかに多い。

 

消えない不安という亡霊のような存在と戦いながら、それに疲れて、やらない失敗を繰り返し、最終的には失敗と不安に囲まれて苦悩しているような状態になる。

 

だから、まずは、不安は消えないのだということ受け入れるしかないのだと考えている。
不安が0の状態を常に夢想するが、それはない。どこにもない。いくら努力しても、そういうユートピアは存在しない。

 

一定の不安があって、それが、大丈夫だと思った範囲内にあれば、それでいいはずである。不安は問題を引き起こさない程度まで対応してそこで見切るしかない。
そもそも、今までの人生で不安にさらされ続けつつも、なんとかシノいできたのだから、その見切りはできるはずなのである。
実際、振り返ってみると、私が放置していることは、だいたいが放置していてもなんとかなることである。

 

そう信じてやってゆくしかないと思う。

個人目標に向かって行動しているときのノルマについては、なんとかしようと今までも思ってきた。
ノルマを少なくしたり、結果はすぐにはでないものであるとして計画を立てたりする。
または、計画通りは動かないというのを大前提にして、ノルマそのものを常に変更するように考え方を導入したりした。

 

多少の効果はあったのだが、それでも、ノルマに振り回される状況に変わりはない。

 

では、ノルマなど設定しなければいいというのもあるが、その場合は、行動しない場合が多い。

 

現状の私は、強制力が働かないと、行動につながらないのも事実なのである。また、行動にある程度のルールがないと、どう動いていいか迷ってしまう。

 

では、ノルマに支配されないためにどうすればいいのだろうか?

最近、考えているのは、そもそも、ノルマをマイナスに感じるようになった時点に赤信号だということである。

ノルマ感に煽られて、義務的にしぶしぶやっているような状況そのものがよくない。

 

やりたくないと思っているときにやるなら、分量が多かろうと少なかろうと、苦痛であることに変わりはない。

それでは、どうしても、結果を急ぐことになってします。

 

だから、「ノルマ感を感じたら、その場で考え方ややり方を見直す」ということを思うようになった。

 

今、行動を楽しめない自分がおり、行動を楽しめない状況があるのであるから、それを我慢して行動するよりも、状況をまず見直してみるということある。

 

悪しき努力主義者である私は、目の前にある苦痛は努力で乗り越えないといけないとすぐに考える。そして、その苦痛に耐えられずに努力をやめてしまう。

 

そのパターンを壊すことを始めたいと思う。

ある目標に向かって行動するときに、ノルマを設定することが多い。

 

そして、私の場合、純粋な個人目標の場合、ノルマをかなり高く設定してしまう傾向がある。

会社の仕事であれば、ノルマはなるべく低くしようとするのであるが、個人の場合は逆である。

これは、会社は高いノルマをこなしたところで収入が上がらないからだが、個人は「なりたい自分」への行動であるから、過剰なノルマを設定するのである。

 

しかし、だいたいは、このノルマにつぶされて途中で止まる。

 

以前、効率についてという記事でも記載したが、限られた時間で過剰なノルマをこなそうとすると、苦痛はどんどん上がってゆく。苦痛の時間を繰り返していれば、会社とちがって強制力がないだけに、やめてしまうことへの誘惑に勝てなくなる。

 

では、なぜ過剰なノルマを設定するかというと、結果を急いでいるからである。

 

「なりたい自分」があるということは、「今の自分に不満」であるからである。
「不満である現状」から逃れるために、「なりたい自分」になることを急ぐ。

 

見ているのは、結果のみであり、それに至る行動は苦痛でしかない。苦痛の時間を短くしたいから、過剰なノルマを設定する。それが、大きな苦痛をもたらす。そしてやめてしまう。

あとに残るのは、できなかったという挫折感と、苦痛の記憶だけである。さらに、「自分は努力ができない人間だ」というダメ人間のレッテルもやってくる。

 

しかしながら、続かないからとノルマを減らすと焦燥感に煽られることになる。「いつになったら、結果がでるのだろう」と。また、その思いが徒労感を呼び、やはりやめてしまう。

 

どうみても、負のループなのであるが、行動していると常にこれに陥りやすい。

他人にダメ出しされることは多い。気分のいいものではない。それを、あとで思い出して、気持ちを落ち込ませる。


そういうこともある。

 

しかし、最終的に自分にダメ出しをするのは、自分だけしかいないのである。
他人にダメ出しされて落ち込むのは、言った他人に共感している自分がいるか、または、自分の判断や感情よりも他人のほう信じて自分を責める自分がいるからである。

 

特に、あとから思い出して落ち込ませる場合、その場に非難する他人はいない。頭の中で非難者を思い浮かべていたとしても、それは他人の姿を借りた自分でしかない。そして、その頭の中の他人の言動は、言われた時の同じものではなく、自分の言葉である。

 

具体的にダメ出しをされたなら、それでも、まだ対象がはっきりしている。怒りと落ち込みの根拠もある。

 

しかし、具体的に言われてもいないのに、非難されたような気分になることもある。些細は言動を自分への非難ととって反応してしまうこともある。

 

そういう場合に、自分を傷つけるのはすべて自分自身である。

 

こう言い換えてもいい。

 

自分に最も残酷なのは、自分なのだと。

 

まず、この残酷な自分に異を唱えてゆきたい。
 

私は効率厨である。
厨というネガティブなネットスラングを使っているだけあって、よい効率主義者ではない。
いろんな作業に効率を求めはするが、あまり良い形では出てこない。

 

効率とは何なのであろうか?

 

これもここ数年、考え直してきたテーマである。というのも、自分の効率厨ぶりに嫌気がさしてきたからである。
以下、3つのテーマで考えてみたい。

 

テーマ① 
100の分量がある仕事がある。
通常であれば2時間だが、頑張って急いで、1時間でやった。

 

テーマ②
100の分量の仕事がある。
通常であれば2時間だが、やり方を整理して、分量を50に減らして1時間でやった。

 

テーマ③
100の分量がある仕事がある。
通常であれば2時間だが、自分にやりやすいやり方で無理なくやったら、4時間かかった。

 

さて、このうち、私は①である。とにかく、手を早く動かすというものである。しかしこれは、効率を上げたといえばそうなのであるが、効率が上がったというより、作業密度を上げたに過ぎないことも多い。自動車で倍の速度で走れば半分の時間つくのは道理であるが、いろいろと無理がでる。ガソリンは多く消費するし、エンジンの負担も運転手の負担も大きい。

 

これは、真の効率ではない。

 

真の効率は、②のような形で、やることをそもそも減らす。そうすれば、無理なくできる。
だが、これはやろうにもなかなか難しい。それで、勢い、①になる。

 

さて、次に③である。以前は、こんなのは効率とは無縁だと思っていた。

 

しかし、そうか?

 

③の方法であれば、時間は倍もかかるが、その間の負担は少なく、むしろ4時間楽しめる時間になるかもしれないではないか。
気楽に4時間作業するのと、時間と戦いながら2時間やるのと、自分を削りながら苦痛の1時間を過ごすのと比べたら、気楽にやる4時間が一番いいのではないか。そう思うようになった。

 

時間当たりの作業量で効率を語ってしまうと、いろんなものを見失うと思う。
 

あるチャレンジをやめてしまった。それを後悔している。それは誰にもあるのではないか。

しかし、後悔しているということは、ある程度は継続したチャレンジができていたということである。そもそも、本当にすぐにやめてしまったことなどは、やめたことに後悔などしない。せいぜい、「ああ、そういえば一時期やってみたことがあったな」を考える程度であって、普通は忘れてしまっていることのほうが多い。

後悔するということは、それだけの行動をしたということである。

そして、後悔するくらい行動したのであれば、必ずその知識や経験は身についている。だから、もう一度始めることもできるし、始めれば前回よりも上手にできる。

だから、「失敗してしまった過去」を思い出すよりも先に、前回やった最初の一歩をもう一度やってみることである。

ブランクは関係ない。長い間、やっていなかったとかも関係ない。前回と同じ苦痛を繰り返すとも限らない。とりあえず、一歩やってみることで、違うものが出てくると考えている。

物事を再開する場合、特に、比較的長いブランクをもって再開する場合、前回に書いた「前回にやめたときの自分と比べない」以上に重要なのが、「もし続けていたなら」を考えないことである。

これを考え始めると、行動には急にブレーキがかかる。

「あの頃の自分と比べる」のが貯めていた貯金を使い果たしてしまった行動だとすると、「もし続けていたなら」を考えるのはしてしまった借金を悔いるようなものである。借金を返すことから始める気分になる。

継続してなかったのは厳然としてある事実である。

それに、再開するまでに、自分は何もしてこなかったのか?
その間、何等かの行動をしていて、それは必ず何かの成果をもたらしているはずなのである。まったく無意味に時間を過ごしたわけでないはずなのである。

いくら、悔いたところでブランクが返ってくることはない。であるのに、やらなかった行動を仮定して、今の自分を卑下したところで、今、手元にある重要なもの、それはモチベーションであったり、チャレンジする精神だったりを失わせてしまう。やらなかった過去は負債ではない。単なる事実である。しかし、今、ありもしない夢想で自分を痛めつけるのは、将来の負債を増やす行為である。

前回の再開力に関してである。

物事を再開する場合に必要なことは、「前回にやめたときの自分と比べない」ということである。


私は、15年ほど前、2年の間にかなり多くの文章を書いていたことがある。今では、それらの文章もハードディスクの肥やしにしかなっていないが、よくこれだけの量を書いたと今でも思う。
ブログなどで書いているひとはある程度わかっていただけると思うのだが、文章というのは質はともかく、量を書くといういうのは訓練が必要である。質は才能に属する部分が多いが、量は訓練で書けるし、逆にある程度鍛えないと書けない。訓練していないとすぐに息切れして書けなくなる。

私はこれを文章の走り込みと呼んでいたが、この2年のあと、文章を書こうと始めると、書けなくなっている自分に愕然とする。それこそ、長距離走と同じで、ブランクがあるとすぐに量は書けなくなる。

昔話になってしまっているが、言いたいことは、再開する場合は前回やめたときの自分、特に、能力がピークであったときと比べてはいけないということである。ブランクがあれば、実力が劣化しているのは当たり前である。なのに、ことさらに、「できていた頃の」しかも「最大瞬間風速」の自分と比べて、やる気を削いではいけない。

比べるなら、最初に始めたときの自分比べるべきである。

私でいうなら、大学生の時、自発的に文章を書いて人に見せようと考え、原稿用紙に向かったあの時と比べるべきである。
そうであれば、今の自分の文章力が成長しているということもわかる。400枚の原稿用紙1枚にさんざんな苦労としていたあの時に比べれば、文章の量を書くこともかなりできるようになった。

再開するときのスタート地点は、最初のころよりずっと先にある。
最初のころからの苦労をすべてしないといけないわけではない。すでに来た道を進むだけである。走り始めてみれば、見慣れた風景をすらすらいけるかもしれない。

そう考えるようしている。

継続した努力ができないことが自分にとって生涯の悩みになっている。
私は、コツコツと毎日やる姿勢というのが保てない人間である。

最近はむしろ開き直って、世の中には継続する力などはないのだと思うようにしている。
実際、ある物事を365日24時間継続している人間などはいないのであるから、誰だって継続しない時間があるわけである。

要するに、継続しているように見えるが実際にはこまめに再開しているだけである。
なんていうか、再開力とでもいうのか。

むしろ磨くべきことは、継続する力ではなく、再開する力である。続けてやるのではなく、もう一度始めるということである。再開の感覚が短くなった状態を指して継続しているというのだろう。

そう考えると、三日坊主というのも悪くはない。始めたことには違いがないのであるから。問題は、四日目に「続かなかった」のではなく、三日で「やめてしまった」ことである。三日坊主で終わったとしても、その三日後にもう一度三日坊主をやればいいではないか。いや、一か月でも一年でも、それこそ十年でもいい。

いつ再開したってかまわない。再開した以上、確実に何かが得られる。そう思うようにしている。