努力という言葉が好きではない。
そこには、自分が努力ができない人間あるということのが前提にある。
いや、自分が本当に努力できない人間なのかは、実際、他人と比べたこともないのでわからないのであるが、努力できない人間であると無条件に定義しているところがある。
そもそも、私は、努力が嫌いなのである。
なぜ、努力が嫌いかというと、辛いからである。苦痛だからである。
そう、努力には苦痛が必ず伴うのである。
自分は、努力ができる人間になりたいと思っていたし、そうでありながら、努力ができないことにコンプレックスを抱いてもいた。
しかしながら、ある時考えた。
自分は、無理矢理に「努力」をしようとしたのではないかと。
何事かを成し遂げるには、「努力」をしないといけない。「努力」は苦痛を伴うものである。だから、「苦痛のないものは努力ではない」と―――。
これが、どこかおかしな思考であることに、最近ようやく気が付いた。
そして、「努力」という言葉が嫌いになった。
そもそも、成果を出すのに必須なのは、「行動」であって「努力」ではない。「努力」は苦痛を伴うが、「行動」に苦痛を伴うとは限らない。だが、「努力」をしようとすればするほど、大量の苦痛を味わうこと主眼になって、本来あるべき姿を失っている。行動よりも苦痛に目がゆくようになる。
何かおかしい。
楽しく行動できるのなら、それは正しいのである。
もちろん、楽しく行動できないことも多い。
かといって、苦痛を伴わないと行動しても価値がないように感じるはおかしい。
それ以来、なるべく「努力」をしないように心がけている。それでも、行動が伴わないが辛いところであるが。(と、辛く思うのも努力の一つかも……)