努力という言葉が好きではない。

そこには、自分が努力ができない人間あるということのが前提にある。
いや、自分が本当に努力できない人間なのかは、実際、他人と比べたこともないのでわからないのであるが、努力できない人間であると無条件に定義しているところがある。

そもそも、私は、努力が嫌いなのである。

なぜ、努力が嫌いかというと、辛いからである。苦痛だからである。

そう、努力には苦痛が必ず伴うのである。

自分は、努力ができる人間になりたいと思っていたし、そうでありながら、努力ができないことにコンプレックスを抱いてもいた。

しかしながら、ある時考えた。

自分は、無理矢理に「努力」をしようとしたのではないかと。
何事かを成し遂げるには、「努力」をしないといけない。「努力」は苦痛を伴うものである。だから、「苦痛のないものは努力ではない」と―――。

これが、どこかおかしな思考であることに、最近ようやく気が付いた。

そして、「努力」という言葉が嫌いになった。

そもそも、成果を出すのに必須なのは、「行動」であって「努力」ではない。「努力」は苦痛を伴うが、「行動」に苦痛を伴うとは限らない。だが、「努力」をしようとすればするほど、大量の苦痛を味わうこと主眼になって、本来あるべき姿を失っている。行動よりも苦痛に目がゆくようになる。

何かおかしい。

楽しく行動できるのなら、それは正しいのである。

もちろん、楽しく行動できないことも多い。
かといって、苦痛を伴わないと行動しても価値がないように感じるはおかしい。

それ以来、なるべく「努力」をしないように心がけている。それでも、行動が伴わないが辛いところであるが。(と、辛く思うのも努力の一つかも……)
 

成果とは何かと考えたことがある。
よく、成果がでなかったとか、成果を達成したとか、そういうふうに言うことが多い。

成果を辞書で引くと、「あることをして得られたよい結果」と書かれている。

これについては異存がないのであるが、実際の社会生活の中で成果というのは、このような使い方をされていないと思う。

いや、社会ではなく自分自身が成果を辞書のように、純粋な意味で使っていない。

 

成果を出そうとして行動して「成果がでない」ことは非常に稀であるはずなのだ。

プラス側面は必ずある。今、自分がこうやって書いているブログでも、その反応が自分の思ったのよりも少なかったとしても、自分が記事をつづったというプラス側面は常にあるのであって、マイナスになることは珍しい。

では、なぜ、「成果が出なかった」というのかというと、「成果」=「目標」と無意識に考えているからである。
つまり、「目標を達成できなかった」=「成果がでなかった」ということがある。あくまでも、最初に立てた目標がすべてであり、目標に向かって行動して得た何かに価値がない。そういう考えが前提にある。

成果主義という言葉があるが、これも目標主義と言っていいほどである。なぜなら、目標を超えたときのプラス査定よりも、目標未達であった場合のマイナス査定のほうがはるかに大きいからである。成果主義なら、成果と報酬は比例しないといけない。だが、実際は目標という一線で明らかに扱いが違う。

この目標達成主義も、それに向けて発奮できる人間ならいいのだ。疑似的なゼロサムゲームが好き人も多いだろう。

だが、私はそうでない。目標主義となっているから、目標未達なら無成果と考えてしまう。だから、目標を達成できないと考え始めると、極端に行動が鈍る。止まってしまうことも多い。

行動したなら、成果がでないことはない、いやでも出るのだと自分に言い聞かせるのであるが、こびりついた目標主義が離れてくれない。

完全主義というのがある。自分もそういう人間である。
行動しない完全主義者という、やっかいな病気を持っている。
しかも、完全主義だけでなく、すべてを失敗と定義する癖すらある。それは、目的を際限なく釣り上げてゆくためである。
だいたいの行動は完全主義のために、80点程度の出来でも0点と同じだと考える。だが、まれにであるが、100点が取れる場合がある。
物事というのは、基本的に100点が取れるということはないのであるが、他人があらかじめ100点を設定していてくれれば100点もありうるし、自分で100点のラインをあらかじめ設定しておけば、100点もある。
だが、私はやっていて100点をとったら、その時点でそれを最低ノルマにしてしまうのである。
以前、資格勉強をしていたことがある。同レベルの試験項目が複数種類あり、そのうち一つでも取れれば十分というものであった。一つ合格すれば、100点である。それに合格した後、二つ目に挑戦することになった。どうやら、それも大丈夫そうだと思った。2回連続で合格なら、100点二つで200点のはずだった。
しかし、自分の中では知らないうちに、1年に2回ある試験で毎回合格して、全種類を合格するのが合格点になっていた。
なぜこうなったのかわからない。この試験は、日本でも結構難しい試験で、半年程度でそうそう合格もできない。さらには、全部とったってこれといった実利もない。二つとれば十分なのに、正体不明の夢想的完全主義に乗っ取っられてしまった。
試験は、3つ目で落ちた。点数も悪くなかったから、もしかしたら、次受ければ合格したかもしれない。でも、それを失敗と判定して次の勉強はやめてしまった。そして、心の中では、この資格挑戦は失敗になってしまった。
客観的に見れば、かなり成果があったのである。たしかに、実利はほとんどなかったのだが、評価に値する結果を得たのである。だが自分は、どこかで立てた夢想的成果に引きずれて、いまだにこの成果を成果として評価していないところがある。
結果が分かりやすい資格試験ですらこれであるから、自分の過去はすべて失敗で満ちている。
この考えがどこからくるのか、また、合理的に考えてもおかしいと理解しているのだが、どう対処していいかわからない。
諸行無常という言葉がある。それについて思ったことがある。
「自分は変わることができない」
「自分は変わらなければいけない」
人間の苦痛に突き当たるたびに、この二つの間でせめぎあっている。
常に不安にさらされている自分が嫌で辛くて、別の人間、もっと強い性格になりたりと考える。しかし、思ったところで変わらずに、自分は変わらないと考える。
その一方で、自分を変えたくないとも思っている。今から別に性格になったところで、自分の本質と違うことをやっても、苦痛なだけである。だから、自分を変えずに、苦痛に耐えられるだけのツールとしての「強い性格」を求めている。
どちらをとっても、または、それらの中庸を求めても、結局は失敗してきた。
結局は自分は変わることができないという結論に向かって、苦痛から逃れるられないことを嫌々ながら受け入れて生きている。
その繰り返しだった。
しかし、ふと気が付いた。
「人は変わらざるをえないではないか」と。
思ってみれば、10年前の自分と今の自分は違う。1か月前とでも同じ人間ではない。本質が変わらないと思っていても、そう思い込んでいるだけで、もう変わってしまっているのではないかと。
つまり、人はいやでも変わってしまっている。社会も変わっているし、周囲の人間も変わっている。時間がたてば年を取り、身体も変わってゆく。変化しないものはなく、それは、自分自身の変わらないと思っている部分も同じ。緩やかに変わっているから変化に気が付かないだけなのだと。
そう考えると、「変わらないといけない」、「変わりたくない」、「変えられない」といった考えはずいぶんとぼやけてしまう。
変わってしまうのだから、それは受け入れるしかない。
常に変わっている何かがあって、その中で自分を構築するしかない。
自分の思う方向に自分を変えるというのは、ある程度できるのかもしれないが、それ以前に「今」という状況の中で変化している自分が常にあって、それに対して向かい合うほうが重要なのではないかと。