■ 目崎徳衛再考──制度外的知識人の評価をめぐって学問的観点から検討するならば、目崎徳衛という人物は、現代的な基準に照らして「一定の問題をはらむ知識人」であると位置づけることができます。これは彼の人格や動機を問うものではなく、あくまでも制度的な専門性、学問的方法、地域社会への影響という三つの軸から検証されるべき、冷静な分析に基づく評価です。
---【1】制度的専門性の曖昧さ──国文学者でも歴史学者でもない「越境的知識人」目崎徳衛は、東京帝国大学文学部国史学科を1945年に卒業しました。この経歴からも、制度上は歴史学の基礎教育を受けたとされますが、実際の研究や著述においては、和歌・人物論・宗教思想・美学など、国文学・宗教学・文化論をまたぐ主題を扱っています。しかし、いずれの学問領域においても、訓練された方法論や厳密な実証性に基づく記述とは異なる傾向が見られ、制度的な専門家と明確に位置づけることは難しいと言えるでしょう。そのため、小千谷市をはじめとする地域社会において「日本文化史の大家」「全国的な学者」として語られてきた彼の評価は、「何の専門家なのか」を正確に問われたときに、明確な説明を欠く構造になりがちです。これは、制度的境界を越境しつつ、専門性の権威づけを可能にした戦後的教養主義の典型ともいえるでしょう。
---【2】方法論の曖昧さと学問的厳密性の欠如目崎の著作──『紀貫之』『西行』『王朝のみやび』『日本の美学』『日本文化の源流』など──は、いずれも文学的・歴史的対象を主題としながら、学術論文というよりは、随想的・美学的・思想的に構成された評論文に近い形式をとっています。作品の解釈には個人的感性や信仰的共鳴が多く含まれ、根拠史料の精査や異説の比較といった学問的検証手続きが明確に示されることは少ないのが特徴です。こうした特徴から、学術界においては、目崎を「学者というより文化評論家・批評家に近い存在」と見る見解もあります。すなわち、彼の方法は「学問」と「評論」の境界線上にあり、後者の性格が濃厚であるということです。
---【3】地域史・郷土史における影響と課題とりわけ小千谷市における目崎徳衛の評価には、地域特有の課題が内在しています。たとえば市政による文化施設の紹介文や図書館の展示パネルでは、目崎が「日本文化史の学者」として扱われており、地域の象徴的文化人として高く評価されています。しかしその称揚は、学問的実証や制度的裏付けよりも、イメージとしての「知識人」「文化人」像に依拠しており、客観的根拠に乏しい場面も少なくありません。たとえば、地元の口承や人物伝の再解釈にあたって、目崎の言説が既成の価値観として流布し、資料批判や再検討の機会が妨げられるといった傾向も一部に見られます。このような状況は、地域文化政策の中で、専門的根拠が不明確なまま知識人像が利用される例として、批判的検証の対象となり得ます。
---【4】制度外的知識人の系譜として捉える視点目崎徳衛のような存在は、戦後日本における「制度化されない知の語り手」──すなわち、文化的日本論や教養主義的評論を展開した知識人たちのひとつの類型とみることができます。たとえば網野善彦・成田龍一らは、戦後知識人の多くが「日本文化」や「伝統」について語る際、歴史的実証を欠いた美学的・思想的枠組みに依存しがちであった点を批判しています。また、林博史・平川新・酒井直樹らの議論からは、地方において知識人像が権威化され、公共的対話を妨げる構造が形成される危険性も指摘されています。さらに、近代文学・国文学の研究者の中には、制度外の評論家が「文学」や「美」の名のもとに、根拠の薄い言説を語ることに対し、繰り返し警鐘を鳴らしてきた研究者も少なくありません。こうした知識人たちは、制度的な専門家ではないものの、社会的影響力や文化的権威を帯びる存在として、戦後日本の公共文化空間において大きな役割を果たしてきました。その意味で、目崎もまた、制度の外から公共文化に働きかけた一例とみなすことができるでしょう。これらの議論は、目崎徳衛という個人を対象にしたものではありませんが、彼のような制度的周縁に位置する知識人像を、より広い思想史的・文化論的文脈の中で再検討する際の枠組みとして参照可能です。
---【結語】学問的再検討の必要性と地域社会における責任以上のように、目崎徳衛をめぐっては、専門性の制度的曖昧さ学問的方法の限界地域社会における過剰な権威づけといった課題が複合的に存在しており、郷土史・文化政策の双方の視点から再評価が求められる存在だといえます。制度化されない知が持つ創造性や発信力は決して否定されるべきではありませんが、同時に、それが学問や文化行政に与える影響を冷静に検証することも、私たちの責任であるはずです。