「小千谷市に何が起きているのか?」
〜隠された小千谷町の成り立ち〜
知の空洞化と郷土史の再構築──制度化された語りの危機と『小千谷文化』の試み (続編その2)
行政文化政策と「地域の物語」構造―小千谷市の事例を手がかりに―
小千谷市の文化行政は、「1638年、何もない野原にゼロから99棟の区画と広い道を作り、そこから町が生まれた」という物語を紹介しています。(以下リンク参照)page=https://hontoka.city.ojiya.niigata.jp/pages/G4ZB95liSE9Oeb3Vpqqm?page=
これは大胆で魅力的に聞こえるかもしれませんが、史実とは大きく異なります。
実際には、戦国時代の終わりにはすでに村落が営まれていました。成就院が永禄年間(1558〜70年)に小千谷へ移り、照専寺が天正年間(1570年代)に境内を構えたことは、当時すでに人びとが暮らし、祈りをささげる場があったことを示しています。小千谷は「何もない野原」ではなかったのです。
江戸時代に入ると、小千谷は幕府の宿駅制度のもとで整備され、宿役を担う99軒の家々が置かれました。ここで広い通りや宿場機能が整えられ、既存の村落基盤に重ねるかたちで町が拡張しました。
この歴史の中で、野口・西巻・野澤・平澤・吉沢・久保田・草野などの旧家は、それぞれの立場から町を支え、時代の変化に応じながらも伝統を受け継いできました。彼らの暮らしと役割こそが、小千谷を町として形づくった原動力でした。
さらに、現在の文化行政に見られる町の「物語化」や史実単純化の施策は、制度内知識人の手法を模倣した「制度外知識人」であった目崎徳衛の影響を受け継ぐ側面もあります。目崎は学者的な立場にありながら、地域の歴史や郷土史の語りを独自の視点で編集・美化することで、地域文化政策に影響を与えました。
したがって、小千谷の町づくりは「ゼロからの都市計画」ではなく、戦国期の村落基盤 → 江戸初期の宿駅整備 → 旧家の営みと町の拡張という重層的な歩みの積み重ねです。文化行政が紹介する「ゼロ創出説」は史実を単純化した物語であり、小千谷の本当の歴史を見失わせかねません。
制度内知識人を模倣した「制度外知識人」目崎徳衛という存在が受け継がれている施策でもある。
行政文化政策と「地域の物語」構造―小千谷市の事例を手がかりに―
小千谷町の運営は複雑な輪番体制によって形成され、漆原・山本・佐藤・西脇の諸家は実務を伴わない輪番の名誉職として、付添庄屋・組頭・町年寄などを交代で務めた。この輪番体制の土台には、輪番庄屋と並立して「代々の郷元庄屋制」と「元大割元兼帯庄屋制」が存在する。 江戸時代後期、郷元を務め、西脇家を凌ぐ小千谷随一の財力を有し郷元野口家の存在がある。 小千谷町に大きな影響を与え、豪農(在郷商人)の筆頭でもあった「ノ三鶴屋」(本家大鶴屋野口三左衛門家)は、大名に匹敵するほどの優雅な暮らしを営んだと伝えられる。その一族、小鶴屋野口定右衛門は、能登屋野澤五郎右衛門、広川利兵衛と共に小千谷町の町年寄として小千谷村政と小千谷組の実務を掌握した。 江戸時代後期、小千谷村の村政は、村方を仕切る組頭を「野口定右衛門家と久保田弥三右衛門家」の交代で実務を務め、町政を補佐すると共に、郷元・小千谷組の広域的役割の実務も担った。 行政の郷土史として提示するこれまで庄屋制は、代々庄屋・交代制(輪番・年季)を問わず「一村に一庄屋」が通例であるかのように発言が成されてきた。 しかし、実際には代々庄屋と輪番庄屋が並立する事例が存在する。 ◎小千谷市域の事例 池ヶ原では、江戸中期から明治初期にかけて輪番庄屋制が確認できる。全ての記録が連続して残るわけではないが、年番・年季の交代で米山喜左衛門家・村山久兵衛家・関甚左衛門家・鈴木五郎右衛門家・中村忠兵衛家・中村彦右衛門家が庄屋を務めた。これらの家は明治初期に民政局へ庄屋役職家として届け出たが、正式な庄屋とは異なっていた。 弘化三年(1846)の記録には、付添庄屋津右衛門(関家)と庄屋藤右衛門(村山)の名が見える。藤右衛門家は池中新田の代々庄屋を務めたが、同時に池ヶ原の庄屋職も担っていた。これは、伊勢開田に伴う池中新田村の分村の庄屋職を本村と同時に有する特殊な役割を持った事例である。 新田村は開発時期を問わず、庄屋の任命と検地帳の成立によって独立していた。しかし幕府は「正保郷帳・国絵図」、「元禄越後郷帳・国絵図」以来、新田村を「本村枝村」として石高の独立を認めない制度を採用し、天保郷帳・国絵図で初めて新田村を一村として分村独立の承認をした。小千谷市域には、この事象が、「平沢新田、時水新田、池中新田、川口原新田、川井新田」(「越後国頸城苅羽魚沼古志三嶋郡御絵図取調廉ゝ書上帳」)などの新田村に見られる。


