ある時、ふと思いついたのがタイトルのこれだ。
何かを頼まれて、それを断る時に考えるべきことってなんだろうって思ったら、「諦めさせるプレゼンテーション」ではないだろうか。「それなら諦めて他の方法を考えるか・・・」と思わせるのは、納得なのではないだろうか?
それなら、あらゆるプレゼンテーションを考える時に、この2つの方向性から考えてみてはどうだろうかって考えた。
「納得させるため」と「諦めさせるため」は、似ているようで、同義語のようで、ニュアンスはまったく違うけど、結果はほぼ一緒。その「ニュアンスの違い」という視点で見ていくと、プレゼンする内容にも変化が付けられそうだ。それが「発想の転換」だの「柔軟な思考」だのにつながっていくのではないか。
僕は「多角的視点で人生を生きたい」という願望がある。多角的視点とは何かと言えば、5と5を足せば10なんだけれど、10を作るためには1と9でも、2と8でもいいわけで、っていう感じのものの見方ができるのが良いなっていうこと。
ある一人の人格が作られた理由は、「親のせいだ」「環境のせいだ」というのは事実だと思う。親が悪い。環境が悪い。境遇が悪い。人それぞれが持つ宿命は千差万別。それにより、何かが変わる。仮に僕とあなたが同じ顔で生まれたとしても、住んでいる環境がまったく違うのだから、「顔つき」は絶対に変わる。同じ顔であってもだ。
だから、人格や性格は環境が作るものであって、それで別に良いんだ。
だ・け・ど。
「だからと言って、一概には言えないよね」と僕は考えたいのだ。
僕は正直、環境のせいで僕の性格が作られたとは思っていない。思っていないけど、作られている事実を知るとおもしろいという話はしてきた。ただ1つだけ言えることは、僕は僕が思うようにも生きてきているということである。僕は、僕の自由な意思でここまで育ってきた。
だから僕は、「性格は自分が作るもの」だとも思う。
環境が作り、自分が練り上げる、その全ての結果が、僕のいう人間を作ってきた。
というように、多角的に考えたい。いろいろなこと「0か1か」なんて言わず、「1」じゃなくて、「0.2が5つあるのだ」と考えることが多角的思考なのではないかなと僕は思っている。
さて、そういう意味で考えるのであれば、プレゼンテーションの最後の目的である「成約」を獲得するために、あらゆる方向で考えるための材料として「納得」と「諦めさせる方法」なんていうアプローチでいろいろと考えてみてはいかがだろうか?と、思いついたわけだ。
そもそも、これを思いついた理由は、ある仕事上での頼まれごとをした人が、頼んだ人に「無理、できない」と簡単に断ったことが起因となって、「ふざけるな」と喧嘩になってしまった状況を見る機会があったからである。仕事なんだから、受けなきゃいけない。僕もその通りだと思う。
ああいうものを見ていると「やりたくないことをやらない主義」の人たちってクソだなと僕は思うんだけれど、実際にこうして、やらないことによって事なきを得るという選択をする奴とはやっぱり一緒に仕事は出来ない。ハッキリ言ってダメ過ぎだ。それは。
とまぁ、そんなことを見ている時に、「断るのなら、断るプレゼンテーションをちゃんとしろ」と僕は思ったわけだ。仕事の中での身内にもしっかり、なぜやらない方がよいのか?をプレゼンできる方が、当然のことながらお客さんにもプレゼンが上手にできるでしょう。
身内にプレゼンできない人が、他人にプレゼンできるのか?無理だろう。する機会なんていくらでもあるのだから。ということを考えた時に、「諦めさせる方法を考えなきゃいけないよ」っていう話を思いついたのである。
さて、ここから本題に入っていくのだけれど・・・
僕はこの時に思った。「納得と諦めは同義語だ」と思いついた矢先、それが「そうである理由」を僕はすんなりと理論立てて考えることが出来るわけだけど、それは「そうでなければいけない」という思考になっているからであって、その他の意見を寄せ付けない、独自の無理やりな思考になっているのではないか?と。
あと、昔はいろいろと工夫したり、努力したりしている人が、突然勉強しなくなって「持論が一番なのだ」とばかりに、自分の言葉しか話さなくなり、挙句の果てには「自分の手には強い力がある」とか「病気を治せる」というわけのわからないことを言い始めたりして、アホかと思っていたりするんだけれど、この「思いつきが正しい」かのような振る舞いをする思考は、僕を、今僕がアホかと言った人種にしてしまうのではないかなと危惧したわけだ。
じゃぁどうするのかって。もっと考えなければいけない。もっともっと考えなきゃいけないんだよね。思いつきが本当に正しいのか?って。僕から言わせれば「自分がどうしたいのか?」も、思いつきでしかない。それが全ての答えのように思っている人たちはたくさんいるけれど、はっきり言ってそれは間違いだ。自分がどうしたいのか?よりも、「何をどうすれば一番良い形に近づけるのか?」を考えた方が良いと僕は思う。
自分がどうしたいのかなんて、ほとんどの人がわかっている。それができない理由は、「自分がしたいことをすると、自分が思うような良い結果は得られない」と思っているからだ。それは、「そういうことを考えるきっかけ」としては良いことだけれど、だからと言ってそれを信じて突き進むのは思考を放棄するきっかけになりかねないと思う。バカになってしまう。
もっと、一言じゃ済まないような思考をしなければいけない。「それはそうだけど、これもこうで、あれもそうで、それもあれなんだよね。大変だ」くらい考えた方が良い。
たった1つの答えを求める癖は改めなければ、クズに成り下がりかねない。僕はそれが嫌だから、注意している。考えたい、もっと考えたいと思っている。
「考えすぎ」と言われることがあるけれど、「お前は考えなさすぎ」と僕は思っている。
「考えて出た言葉は良い言葉ではない」「自分の言葉じゃない」とか言うやつもいるけれど、僕は「もっと考えてから話して」とよく思う。脈絡のない、ストーリーの無い、起承転結もない、オチもない、なんだからよくわからない単語を並べたみたいなトークを聞いていて「ふんふん」と聞いているフリをしながら「だから何?」「本題は?」といつも思っている。
だから、考えなければいけない。考えて考えて、考えて考えて、考え尽くした時、誰かの言葉を自分の言葉として話すことが出来るほどの奥深さは身についているんじゃないかなと思う。ま、それはちょっとぼんやりとした感覚ではあるのだけれど。
何より、誰かの言葉の解釈を考えて、「こう思う」「俺はこう思う」「これってこういうことなんじゃないの?」と話しをしている方が、僕は圧倒的に楽しく思う。
ということで、何が言いたいのかと言えば、それらしい、もっともらしい、良き言葉を思い浮かんで、それを話したい衝動に駆られた時に一度、足を止めて考えてみてはいかがでしょうか。ということである。
そんなやつら10人集まって、例えば何かの会議や打ち合わせをしたとしよう。ものすごい会になるんじゃないかなって僕は思う。それは、とても楽しいものになりそうだなって思う。
何かを頼まれて、それを断る時に考えるべきことってなんだろうって思ったら、「諦めさせるプレゼンテーション」ではないだろうか。「それなら諦めて他の方法を考えるか・・・」と思わせるのは、納得なのではないだろうか?
それなら、あらゆるプレゼンテーションを考える時に、この2つの方向性から考えてみてはどうだろうかって考えた。
「納得させるため」と「諦めさせるため」は、似ているようで、同義語のようで、ニュアンスはまったく違うけど、結果はほぼ一緒。その「ニュアンスの違い」という視点で見ていくと、プレゼンする内容にも変化が付けられそうだ。それが「発想の転換」だの「柔軟な思考」だのにつながっていくのではないか。
僕は「多角的視点で人生を生きたい」という願望がある。多角的視点とは何かと言えば、5と5を足せば10なんだけれど、10を作るためには1と9でも、2と8でもいいわけで、っていう感じのものの見方ができるのが良いなっていうこと。
ある一人の人格が作られた理由は、「親のせいだ」「環境のせいだ」というのは事実だと思う。親が悪い。環境が悪い。境遇が悪い。人それぞれが持つ宿命は千差万別。それにより、何かが変わる。仮に僕とあなたが同じ顔で生まれたとしても、住んでいる環境がまったく違うのだから、「顔つき」は絶対に変わる。同じ顔であってもだ。
だから、人格や性格は環境が作るものであって、それで別に良いんだ。
だ・け・ど。
「だからと言って、一概には言えないよね」と僕は考えたいのだ。
僕は正直、環境のせいで僕の性格が作られたとは思っていない。思っていないけど、作られている事実を知るとおもしろいという話はしてきた。ただ1つだけ言えることは、僕は僕が思うようにも生きてきているということである。僕は、僕の自由な意思でここまで育ってきた。
だから僕は、「性格は自分が作るもの」だとも思う。
環境が作り、自分が練り上げる、その全ての結果が、僕のいう人間を作ってきた。
というように、多角的に考えたい。いろいろなこと「0か1か」なんて言わず、「1」じゃなくて、「0.2が5つあるのだ」と考えることが多角的思考なのではないかなと僕は思っている。
さて、そういう意味で考えるのであれば、プレゼンテーションの最後の目的である「成約」を獲得するために、あらゆる方向で考えるための材料として「納得」と「諦めさせる方法」なんていうアプローチでいろいろと考えてみてはいかがだろうか?と、思いついたわけだ。
そもそも、これを思いついた理由は、ある仕事上での頼まれごとをした人が、頼んだ人に「無理、できない」と簡単に断ったことが起因となって、「ふざけるな」と喧嘩になってしまった状況を見る機会があったからである。仕事なんだから、受けなきゃいけない。僕もその通りだと思う。
ああいうものを見ていると「やりたくないことをやらない主義」の人たちってクソだなと僕は思うんだけれど、実際にこうして、やらないことによって事なきを得るという選択をする奴とはやっぱり一緒に仕事は出来ない。ハッキリ言ってダメ過ぎだ。それは。
とまぁ、そんなことを見ている時に、「断るのなら、断るプレゼンテーションをちゃんとしろ」と僕は思ったわけだ。仕事の中での身内にもしっかり、なぜやらない方がよいのか?をプレゼンできる方が、当然のことながらお客さんにもプレゼンが上手にできるでしょう。
身内にプレゼンできない人が、他人にプレゼンできるのか?無理だろう。する機会なんていくらでもあるのだから。ということを考えた時に、「諦めさせる方法を考えなきゃいけないよ」っていう話を思いついたのである。
さて、ここから本題に入っていくのだけれど・・・
僕はこの時に思った。「納得と諦めは同義語だ」と思いついた矢先、それが「そうである理由」を僕はすんなりと理論立てて考えることが出来るわけだけど、それは「そうでなければいけない」という思考になっているからであって、その他の意見を寄せ付けない、独自の無理やりな思考になっているのではないか?と。
あと、昔はいろいろと工夫したり、努力したりしている人が、突然勉強しなくなって「持論が一番なのだ」とばかりに、自分の言葉しか話さなくなり、挙句の果てには「自分の手には強い力がある」とか「病気を治せる」というわけのわからないことを言い始めたりして、アホかと思っていたりするんだけれど、この「思いつきが正しい」かのような振る舞いをする思考は、僕を、今僕がアホかと言った人種にしてしまうのではないかなと危惧したわけだ。
じゃぁどうするのかって。もっと考えなければいけない。もっともっと考えなきゃいけないんだよね。思いつきが本当に正しいのか?って。僕から言わせれば「自分がどうしたいのか?」も、思いつきでしかない。それが全ての答えのように思っている人たちはたくさんいるけれど、はっきり言ってそれは間違いだ。自分がどうしたいのか?よりも、「何をどうすれば一番良い形に近づけるのか?」を考えた方が良いと僕は思う。
自分がどうしたいのかなんて、ほとんどの人がわかっている。それができない理由は、「自分がしたいことをすると、自分が思うような良い結果は得られない」と思っているからだ。それは、「そういうことを考えるきっかけ」としては良いことだけれど、だからと言ってそれを信じて突き進むのは思考を放棄するきっかけになりかねないと思う。バカになってしまう。
もっと、一言じゃ済まないような思考をしなければいけない。「それはそうだけど、これもこうで、あれもそうで、それもあれなんだよね。大変だ」くらい考えた方が良い。
たった1つの答えを求める癖は改めなければ、クズに成り下がりかねない。僕はそれが嫌だから、注意している。考えたい、もっと考えたいと思っている。
「考えすぎ」と言われることがあるけれど、「お前は考えなさすぎ」と僕は思っている。
「考えて出た言葉は良い言葉ではない」「自分の言葉じゃない」とか言うやつもいるけれど、僕は「もっと考えてから話して」とよく思う。脈絡のない、ストーリーの無い、起承転結もない、オチもない、なんだからよくわからない単語を並べたみたいなトークを聞いていて「ふんふん」と聞いているフリをしながら「だから何?」「本題は?」といつも思っている。
だから、考えなければいけない。考えて考えて、考えて考えて、考え尽くした時、誰かの言葉を自分の言葉として話すことが出来るほどの奥深さは身についているんじゃないかなと思う。ま、それはちょっとぼんやりとした感覚ではあるのだけれど。
何より、誰かの言葉の解釈を考えて、「こう思う」「俺はこう思う」「これってこういうことなんじゃないの?」と話しをしている方が、僕は圧倒的に楽しく思う。
ということで、何が言いたいのかと言えば、それらしい、もっともらしい、良き言葉を思い浮かんで、それを話したい衝動に駆られた時に一度、足を止めて考えてみてはいかがでしょうか。ということである。
そんなやつら10人集まって、例えば何かの会議や打ち合わせをしたとしよう。ものすごい会になるんじゃないかなって僕は思う。それは、とても楽しいものになりそうだなって思う。