資料を整理していたら面白い記事を見つけました。1979年に雑誌の企画で行われた冨田勲さんとの対談です。おそらく、FMレコパルかホットドッグプレスだと思われます。構成は、「I・O」のスーパーバイザーであり、音楽ライターの岩田由紀夫さん。
※ネットで読むには長めなので、各章ごとに4回に分けて掲載します。今回は、その2回目。
「80年代展望 マルチ対談」
線画的人間(新津)と彩色画的人間(富田)は、
ともに手作り音楽の名手だった
「バミューダ・トライアングル」を発表していよいよ冴えるシンセ音楽の大家、富田勲と、「I・O」でデビューのマルチ・ギタリスト、新津章夫の異色対談!!
経験したことがすぐ音楽になるとは限らない
新津 僕は、音楽を仕事にしようと学生時代は考えていなかったんです。
ただ、12歳から弾き始めたギターと自分の音楽の集大成を、バイトで買ったテープ・デッキに録音して、そのテープを知人に配ったんです。
もうこれで音楽馬鹿はやめて、就職しようってことで(笑)。
ところが、大学4年の夏に信州をドライブしてて、48㍍の崖から車ごと落っこちやったんです。
それで命が助かってどうせ助かった命なら好きな事をやってみようと思い直したんです。
冨田 怖かったでしょ。
新津 それが意外と冷静に落ちて行ったんです。全部で4回転したんですけど、その1回1回をいまでもはっきり憶えています。
冨田 1回1回をはっきり?! うーん、キミはすごい人だ。
僕の終戦の年に戦闘機の機銃掃射に友人と歩いていて狙われたことがあります。
一面焼け野原の青い空を飛行機が低空飛行で追っかけてくる。
地面にふせるとその横を、まるで戦争映画のように土ぼこりをあげて弾のあとが走って行くんです。
僕と友人のふせた30センチの間に弾の跡があったときにはゾーッとしましたよ。
今でも、TV映画なんかでそんな場面を見ると嫌な感じがします。
新津 そういったことは、何らかの形で音楽に影響するって気がするんですが、どうでしょう。
冨田 僕はそうは思わないし、自分の恐怖は描きたくありませんね。絶妙のラブレターっていうのは実生活では、意外に恵まれていないことが多いんじゃないでしょうか。
まぁ、僕はバミューダの円盤でも描いているほうがむいてる(笑)。
★対談はもっともっと続いた。僕はあまりの二人の話の高尚さと難解さに頭がちょっぴりこんがらかって、二人を残して失礼した。でも、この二人のすごいところは、あれだけ理論づくめの音楽をやっていながら、実際にアルバムを聴いてみると、ちっとも難しくなく、ポピュラーなところにある。80年代型ミュージシャンの一つの型なのであろう。
新津章夫の自動車事故の話は、いずれまた。九死に一生とはよくいいますが、よくまぁこれで生きていたもんだ、という状況でいた。それがもとで、ミュージシャンになったわけですから、まさにターニングポイントでありました。
