長女がお友達と行きたいと言うので、
十和田市現代美術館まで乗せて行きました。
八戸から車で1時間ちょっと。
長女に弱い私は、もちろんその友達にも弱く・・・
1時間半、無言で運転に集中し、空気、背景になりきりました。(帰りも)
びっくりしたのが、作品の写真撮影OKになってたこと!!
(これまでは外の広場にある作品だけOKだった。)
いつから??嬉しい♡
もう現代では、美術館の写真NGにしてちゃダメだと思う。
なので「映えスポット」としても人気がまた出てるようです。
アートはそうじゃなきゃ!と思う。
日常に溶け込む時の違和感とか不思議さとか異世界感、みたいなのが、とても楽しいもの。
日本の美術館もどんどん撮影OKのところが増えてきて嬉しいな。
閉ざさないで、それぞれの源表現を私たちの日常に溶け込ませて欲しい♡
入るといつも巨大なおばさんが迎えてくれます。
「スタンディングウーマン」いつ見ても「おおっ」となる。
本質は、「感じとるもの」なんだもの。
それはずーっと絶対に見えるものや聞こえるものにならない。
それを研ぎ澄ます為に、本質の余白部分を見えるもの、聞こえるものとして表現していく。
立体の空間の中、線で面みたいなものを感じる感覚がとても印象に残りました。
もう一つ、こちら。
きれーーーーい♡♡
ぽこぽこ、シュワシュワ、弾ける泡のよう!
良く見ると中にリアルで生々しい毛が見える。
本物の剥製にガラス玉のようなものをくっつけているようです。
パンフレットを見ると「PixCell」というシリーズの彫刻作品だそう。
常に携帯やパソコンなどを通して物体を見ている情報社会の現状を表現しているんだそう。
へー!
スマホやPCってこういうイメージなのね。
透明な光の粒で見ているのか。
こうしてみると、どんなものでも綺麗に見えそうな気がしてくる。
それが戦争だとしてもお花だとしても排泄物だとしても大自然の風景だとしても、私たちと接する部分はどんなものでも「透明な粒」という事実。
それに、元々の全体が見えにくい。
ひと粒の見る場所によっても元の物が大きく見えたり歪んで見えたり、
綺麗に虹色に見えたり、急にベットリ汚らしく見えたりする。
なんか、全体が隠されてしまうようで、
どんなものも、透明のクリアなひと粒でしかないのかも・・・
「幻」と「リアル」の境目をとても意識させられた作品でした。
決して広くない展示室に監視員がずっと一人立っているので、
もっと見ていたかったけれど、なんか見辛くて、出てしまいました。
はぁぁ。こういう場面、私はとても苦手。
知らない人と狭い部屋で二人っきり、という場面など。
私は、草間彌生のブツブツ作品が好きではありません。
とても、好きじゃない。
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