幸せとは、感じるものだけれど、
感じ取れる自分がいる事が、とても重要。
「感じ取れない」という事が、
私は一番不幸だと思う。
と、昨日書いたので
感じ取れないのは不幸、ということについて書きたいと思います。
▶︎こちらの記事の続き
私は本が好きなので、Amazonなどもよく使うのですが、「星一つ」のレビューが一番上に表示される仕組みなのですよね。
なので好きな作家さんの本を買う時にアンチコメントが見えてしまう事があります。
「Amazonレビューが一番参考にならない」と出版社の方々も言っているのですが、特に「星一つ」のレビューはアカウント公開してマトモな意見を述べているレビューってあんまりなくて、びっくりするほど低レベルなコメントが多い。
感想・意見ではなく反応。憂さ晴らし。
例えば
「買って損した」とか
「内容が薄い」とか
「全然面白くなかった」とか
「買わない方がいい」とか。
他にもその作品に関係ない、私生活を持ち出して(絶対プライベートで会ったことないくせに)ただ著者の人格を否定したいようなコメントもある。
自己啓発やビジネス書だけではなく、小説とかエッセイとか詩などに、そういう事が書いてあると、こんな恥ずかしいコメントよく平気で書けるなと思う。
いつかの夏、ボンマルシェのお花屋さんにて♡
ほとんどの場合、感じ取れないのは自分の責任で、
人にいい思いをさせてもらおう、
楽しませてもらおう、
と当然のように思ってるのが不思議。
もちろん作家としての「表現」が、結果的に多くの人にウケる楽しい物語や面白い作品ならそれはそれで素晴らしいことだけど、表現に「楽しませなければならない」という責任はない。
それよりも、まず読む方に
楽しもうという心があるかどうか、は
非常ーーーーーーに大事だと思う。
ここを勘違いしてる人が多すぎる。
楽しませなさいよ
いい気持ちにさせなさいよ
という勘違い。
ほとんどの場合、作品が悪いから楽しめなかった!のではなく、楽しさや味わいを感じ取れないだけ。そういう姿勢、心を自分が持っていないだけ。
バカじゃないの、と思う。
ジヴェルニーの道端で買った油絵♡
それに、本でも絵でも、人の表現は、
自分の内部へ入っていくきっかけになるようなものだ。
もちろん自分の好みとの折り合いもあると思う。
私もある。読んでいてこの本すごく苦手。と思うこと。
(これについても後で別記事で書きますね)
しかし、だからと言って「その本が劣っている」なんて思わない。優劣とは全く関係がない。それに、それすらその表現から色々感じ、考え、自分の内側へ入っていく良い機会になってる。どんな本でも、読んだかいがある。
だから匿名であんなレビュー(面白くなかったから劣っている!というようなコメント)を書く人って、何て不幸なんだろうと思う。
きっと日常でも何も受け取れなくて、感じ取れなくて、それを「感じさせてくれない!」と人のせいにして、優劣つけてジャッジして、すごく傲慢で、それはもちろん自分自身にも作用して、悲惨な人生なんだろうなあ、と不憫に思ってしまう。
私は、「堂々と表現して作品を出している人」ってそれだけで価値があると思ってる。
さらに、いい表現というものは、「どれだけ自分の魂に潜っているか、内側を現そうとしているか」だと思うし、そういうものは、見る側にも、嫌でも自分の内側に入る機会をつくる。
そして、「受け取る人がすごい」とも思う。
どんなものでも、そこから自分の内側に入っていける人っている。
それは「感じ取る器」「楽しもうという心」があるということ。
「楽しむ」とは、「ポジティブに見ればいい」とか「いい作品だー!」と何でもかんでも感動すればいい、ということではなく、絵でも本でも音楽でも、それを通して「自分の人生を味わう」という姿勢。
作品そのものはもちろん、
作品を通して、自分の内側を味わおう、という姿勢。
だから、「私は感じ取れない人なんです」丸出しのアンチレビューなどを見ていると、本当に不幸な人生だな、次元違いも甚だしい、と思う。
もっと自分の人生を味わう努力をしたら?
もっと、楽しむ心を養う努力をしたら?
そうなると、好みに関係なく、誰かの表現には感謝しかなくなる。
きっかけをありがとう、と思うようになる。
ずっとずっと幸せな人生だと思う♡
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