一つ前の記事の続きですハート

 

 

その「好きなこと」を上っ面じゃなくて「本当の自分」で「好き」と自覚した時に、ようやく本当に楽しめるんです。

 

 

だからそこに宇宙のエネルギーが加わって

めっちゃ加速する。

あっという間に背景が変わる。

 

例えば同じ「人に会いに行く」ということでも、

「セミナーに行く」ということでも

全然変わってくるのです。

 

 

 

 

 

 

これが「取りこぼさない」ということ♡

全てが糧になるということ♡

 

 

例えば「セミナージプシー」という言葉がありますけどあまり良い意味で使われませんよね?

 

 

セミナージプシーは、よくこういうことを言いますけど

→「言ってることはみんな同じ」「そこはもう卒業した」とか言っちゃう一生マリオ。”低脳ナザレとは☆”

 

 

そういう人はそういう設定なのだな、と思う。

 

つまり「学び、探求」は「楽しい」という設定ではない。

 

自信がない人や、欠乏がある人だけが学ぶもの、という設定。

 

「学び、探究心」にはある「到達点」があって、そこに達したらもう終わり設定。

 

勝ち負けの世界。

 

 

どっちか。

2極の世界。

 

 

自信がなかったり欠乏感、劣等感からの学びは全て「ドヤ」や「穴埋め」になるし、その「知ったこと」から自分がどう感じてるのか、自分の人生とどうリンクするのか、まで自覚しないとただの「知識(しかも的外れの取りこぼし)」で終わっちゃう。

(だからオンラインサロンでお伝えします♡全てを糧にする方法♡)

→藤本さきこの設定変更大学♡4月から始動しますよ!オンラインサロン

 

 

 

「今の自分のままだとダメだから」学ぶと、

「知った私」「学んだ私」に酔ってしまう。

 

一度ここで悦ると、「知らないこと」「分からないこと」は負けになる。だめなことになる。劣等感になる。

 

だから、素直に「学べなくなる」

オープンにまっさらに受け取れなくなる。

「知ってる私」を装い誰かを見下すしかなくなる。

 

→歴史に学ぶとは。勝手に変換物語を「勝ち負け世界」でしないこと。

 

 

全て取りこぼす。

 

 

本当に勿体無い。

 

「セミナージプシー」っていう言葉は「セミナージプシー」自身から生まれた言葉だと思う。

 

タイトルにもあるように「何をすればいいのか」を探すことを「学び」だと思ってるなら、本当に的外れなんですよ。そりゃ「楽しく」ないよね。

疲れて「もう卒業!」とかそりゃ言いたくなる。

 

 

 

誰に勝つためでも、穴を埋めるためでもなく

ただ自分のために、より良い人生を求め続ける。

ぜんぜん苦しくないし、本来、めっちゃ楽しい♡

100人いたら、100人がそうだと思う。

だってそれが「人間」だから。

 

それが学び・探求の素晴らしさ

 

 

今で完全。

今で最高。

その上で「より良い人生を求めよう」

 

という繁栄の矛盾を抱えられる♡

それには終わりも「卒業」もない♡

 

拡大&繁栄は無限なのだ♡

 

 

 

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一つ前の、遥かさんとサリーさんの記事であるように本当に好きなことって、もうすでに自然にやってること。

 

何なら、子供の頃に、「好き」とも自覚せずにひたすらやってたこと。

子供の頃って「〇〇のためにやってる」っていうの、絶対にないから純粋な「ただ、好き」なんですよ。

 

私はね、「読書」と「学び、探求」と「空想」なんです。

 

考えること。イメージすること。が大好き!

好奇心と探究心が小さい頃からものすごい。

 

「何で何で何で?ねえ何で?」

「それはなぜ?どうして?何でそうなるの?」

「それってこういうこと?どういうこと?」

 

と探求し学ぶ事そのものが、「ただ大好き!!!」

だから子供の頃、親に一番言われた言葉「しつこい」です。笑

 

 

 

 

 

大人って辻褄合わないこと平気でするじゃないですか?

 

子供には「こぼすな!」って叱るのに

自分がこぼした時は「てへぺろ♡」みたいなのとか。

 

子供には「残すな!」って叱るのに

自分が苦手なものは「これちょっとな〜」って残すとか。

 

「何で何で何で?」

「何で自分はいいの?」

「いつも私にはそう言ってるのに、何で自分は良しと思えるの?」

 

別に揚げ足とりたい(勝ちたい)わけじゃなくて

ただ、純粋に「なんでそういう事になるのか知りたい」んですよ。

 

 

でもこれ、嫌がられるじゃないですか?笑

(確かに「どうでもいい」ことなんですよね。笑でも、これが何につながるか、とか何の見返りがあるか、とか関係なくやっちゃうのが「本当に好きなこと」)

 

大きくなるにつれて、「好奇心」「探究心」は「悪いもの」という設定ができてしまったのです。

 

 

 

 

 

しかし今も、私はやっぱり自然にこれやってるんですよね。

やろうと思わなくても、やってるの。

 

勝ち負け世界だと、好奇心や探究心も歪んでしまうけど、

やり込めたいわけでもなく、勝ちたいわけでもなくただ「なんでそうなるのか知りたい」という興味。

 

子供の頃って「好き」だと意識してないから、問うたこともなかったけど、

(だって好きだから、っていうそれだけの理由、笑)

大人になった今、好きを自覚して、「なぜ好きなのかな?」と聞いてみると

 

 

何でなのか知りたいハート

分からないことが分かるのが好きハート

知らない世界を知るのが好きハート

なるほど!と繋がる瞬間(展開できる瞬間)が大好き!

 

 

全ての感情は「喜び」と決めた途端に

勝ち負けの意識は辻褄が合わなくなる。

 

 

対等の世界で全て対等だからこそ、

 

自分自身に好奇心を向け

自分自身に探究心を向けることができる。

 

探求=疑う・問う

 

疑い、問いをひたすら自分に向けることができる。問うから学べる。誰に探求を向けても、目の前の世界に向けても、全て自分への学びになる。自分の繁栄になる。

 

 

 

 

自分のことを棚に上げない。

 

 

勝ち負けの世界にいると、自分のことを棚に上げて「やり込めてる」とか、「責めてる」みたいに感じるから、「明らかに見る」ができなくなるんだと思うよ。

人にも「言ってはいけない」「大人の対応しなきゃならない」になると思うんだよ。

 

私はこう言う意味で、「上っ面(勝ち負けの世界)の道徳が嫌い」です。

 

 

 

普通、嫌な事や違和感ある人ってあまり考えたくないじゃないですか?

嫌な気持ちになるから。

 

でも私、それを探求するのも好きなんですよ。

「嫌だな〜」「好みじゃないな〜」って嫌な感情を感じながらも。

 

何でこういう考え方するんだろう?

どういう設定だとこういう発言になるんだろう?

何がどうやって、どうつながってこういう主張になるんだろう?

全然辻褄合わないけど、何をどう考えるとそう言えるのだろう?

本当は何が言いたいんだろう?

 

ってもう、好きで好きで仕方ないんです。

 

「その人」や「嫌な気分になること」が好きなんじゃなくて、その「どう考えたらそういう発言になるの?」に好奇心と探究心が止まらない。

 

(もちろん、飽きたら終わります。笑)

 

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設定変更はもう、この私の「好奇心」と「探究心」の賜物だと思うんですよ。

 

心の底から、本当の自分で「大好き」と自覚したものって、勝手にエネルギーが乗る。宇宙からもどんどんサポートが入る。ものすごい勝手に繁栄していく。
 

上っ面で「好き」なフリして

楽しんでる波動だせばいい!って「楽しいフリ」するんじゃなくて、もう気づかないくらい勝手に楽しんでいるもの。

 

それは「楽しい感情」「嫌な感情」に関係なく、根こそぎ「楽しい!大好き!」のエネルギーが乗る。(私の"嫌いな人探究"のように)

 

 

好き!って心から自覚したものだと、同じことしてても、取りこぼさない。何をやっても全部受け取れる。

 

 

だから勝手に背景が変わって行く♡