生命をスパークさせて生き続けた芸術家 岡本太郎 | naomi cafeにようこそ 目に見えない多次元のこと

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去年9月から多次元数秘ヒーリング講座を受講されています。愛知県在住の占星術家吉田祐子さんのレポートのご紹介です。


破壊と再生 カリスマと言われる数字13を持つ岡本太郎さん

同じ13を持つ祐子さんが

丁寧にそして緻密に読み込まれています。


そこにはメディアのイメージとは違う岡本太郎さんが浮かび上がってきます。

「芸術は爆発だ。」という言葉で有名な岡本太郎さん

芸術だけでなく自らの人生も

破壊と再生しながらスパークさせ続けた

岡本太郎さん

数秘で紐解く岡本太郎さんの生き様をぜひ

読んでいただけたらと思います。



 

 

 

「岡本太郎」

 

人物 岡本太郎 芸術家

 

1911年2月26日

 



誕生数(生まれ持った資質、才能、潜在能力)

【22-13-4】 理想主義、創造性、偉業、建設、インスピレーション

 

日本を代表する芸術家、岡本太郎。かの有名な「太陽の塔」や「明日の神話」。

 

コマーシャルの印象や名言などから独特で奇抜な人物であると世間一般から認知されています。

 

岡本太郎は漫画家で一世を風靡した岡本一平と作家の岡本かの子という芸術家一家に生まれました。

 

祖父は大人気の書家であった岡本可亭。

 

現在でも老舗の茶屋である山本山の看板の書体を見ることができます。

 

魯山人も可亭に弟子入りをしていた人物であり、太郎はそれだけ生粋の芸術家の血筋であり、その遺伝子を受け継いでいた事がわかります。

 

18歳で両親とパリに移り、その時はまだなぜ画家になりたいのか答えを見出せていなかった太郎。


その後、ピカソに影響を受け「ピカソを超える画家になる」「ピカソを超えてやる。自分を超えていく。」と心に刻み、その目標を掲げて画家になるための道を突き進んだと言われています。


また、25歳の時にバタイユの演説を聞く機会があり、その型破りな内容に感銘を受け、その後の活動に大いに影響を与えたということから#22の高い理想を持つ人物像が伺えます。

 

日本に帰国し、復員した後、新しい芸術活動を志し行動し始めた太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言しました。

 

常にアバンギャルドであり続ける姿勢、またその後の太郎の作品からもオリジナルな0から1へ、無から有へ生み出すエネルギーの持ち主という事が読み取れます。

 

また#22の「インスピレーション」というキーワード通り、太郎は制作依頼を聞くとその瞬間に最後に出来上がるそのままの形、姿がひらめいたそう。

 

制作に取り掛かる前には既に頭の中で制作物が出来上がっていたといいます。

 

そしてそのインスピレーションを#4の「創造性」「建設」を使って、具現化させる。

 

 

 

 

あの「太陽の塔」を始め数々の作品や「今日の芸術」でベストセラーなどの偉業を成し遂げれたのは#22のエネルギーをフルに使っていたのではないでしょうか。

 

また、太郎はカルミックナンバーである#13の持ち主。

 

「生と死」「創造と破壊」を繰り返し、破壊を通して大きな創造性を発揮していくナンバー。

 

太郎は誰よりも「生きる」「生命」について真剣に向き合ってきた人物だと感じます。

 

太郎は子供の絵が好きで、児童画の審査員を務めていました。

 

理由は「俺が行かないとうまそうなちゃっかりした絵ばかりが賞をもらってほんものは落とされてしまうからなぁ」と責任を感じていたそう。

 

自閉症の男の子の絵が太郎に評価され受賞したことで自信が付き、自閉症が治ってしまったという逸話があります。

 

その時、太郎は「そうか、良かったね。もう大丈夫だよなぁ」

と声をかけたといいます。

 

自我が強く、周りに適応できないために小学校一年生は2回も転校し、苦しい体験をした幼少期。

 

「みんなが自由にのびのびと描けばいい。子どもはみな天才なんだ。」

 

自身が環境に適応できずに学校に拒否された幼少期。

 

自殺を何度も考えた経験から、太郎だからこそ個の命の自由さ、脈動感を感じ、尊重する視点を持ち得て作品と向き合えたのではないでしょうか。

 

運命数(社会的役割、使命)

【9】壮大な夢を開花させるエネルギー 完成 真理 月 潜在能力

 

太郎は影響を受けた人物として両親の名前を挙げています。特に母、かの子へは敬愛の意を表しています。

母、岡本かの子は歌人、小説家として類まれな才能を持ち多くの功績を遺した人物です。

 

太郎を「子ども」とは扱うことなくいつも対等だったと太郎は語っています。

 

幼い太郎と遊ぶことはせずに、かの子に遊んで欲しいがためにちょっかいを出す太郎を柱に括

り付け、自分は小説を書くことに専念していたり、自身の愛人と共同生活をさせたり、と通常では考えられない家庭環境の中で過ごしながら、それは全く純粋で自分の心に素直なだけからの行動だったよう。お嬢様育ちで家事一般もできなかったかの子について、太郎はのちに「母親としては最低な人だった」と語っています。

 

 

太郎自身もプレイボーイで有名で、独特の恋愛観はそんな環境の中で育ったこともあるのでしょうか。生涯独身を貫き通し、「結婚なんて枠にはまりたくない」と語っています。

 

そして実質的パートナーである岡本敏子は養女として迎えています。

 

複雑な家庭で育った故、結婚という形に縛られなかった事から#9の「養育者」「無意識」のキーワードはこんなところにも表れているように感じます。

 

また、太郎自身も「母の運命と自分の運命と、イメージがぴたっと重なって、二人はあまりにも一つでありすぎるような気がする。」と語っています。

 

少女のようであり純真無垢で猛烈だった母かの子の生き様、作品は太郎の芸術に多大なる影響を与えており、太郎は心から芸術家として母を敬愛していました。

 

また太郎はかの子の死後に父一平が再婚し、できた異母兄弟を一平の死後には岐阜から東京に呼んで住まわせ、生活の面倒をみていました。#9の「懐の広さ」、「包容力」がここにも表れています。

 

 

ソウル数(魂の欲求、一番大切にしたい価値観)

【8】 富と権威 循環のエネルギー 永遠 無限を表す レミニスケート

 

スキーが好きな理由に「猛烈な斜面に身体を投げ出していくときのいのちがブルッとするような衝撃。あれがなんともたまらないのである」とあげているが、これは#8を持つ太郎の生き方そのもののような印象を受けます。

 

 戦後、太郎はやるべき道筋が見えていた、といいます。日本の陰気な画壇の固定化されたピラミッドを叩き潰すため、狭い枠や村意識に捉われない「芸術」をこの地に吹き起こすこと。

 

自分こそは宇宙の中心である、という個の尊厳と自由感をみんなの中に取り戻すこと。

 

 そのためには同志を得て集団の力で全体を動かす。それしかないと考えていました。太郎は意外に#8組織人でした。その後、作家の花田清輝に出逢い「夜の会」という組織を作りました。

 

そこでは月に二回、公開討論が行われていたという。また、定期的に美術の研究会を開き、若い未来の絵描きさんたちの作品を並べてみんなで徹底的に批評し、議論することもしていたようです。

 

 太郎は「現代美術研究所」を作った時も、「みんなでやるんだ」という想いから発したものでした。しかし太郎が既に有名だったことからか、みんなから「なにか裏があるんじゃないか」と疑いの眼差しを向けられてなかなか太郎の想いが伝わりませんでした。

 

太郎の#8組織、統率力の力はこの時点ではその時の日本では、異色すぎたのか個人的に目立ちすぎてしまっていたのか、上手く使えなかったのかもしれません。

 

 二科会にいた時に太郎は海外にいる仲間に呼びかけて、世界トップの前衛を招待しようと二科会の経営者に呼びかけました。承諾を得ましたが、その後に一般会員から反対があり覆させられました。

 

作品はもう海外から出てしまっています。待ったなしの状況に太郎は窮したが逃げ出さず、探し飛び回りました。場所探し、主催者、事務手続き、、、

 

てんやわんしゃで実現した「世界・今日の美術展」は大成功に終わりました。#8の、采配する能力、行動力、成し遂げる力がこんな場面からも読み取れます。

 

 

 

パーソナル数 (外からの印象、表面的な性格)

【19-10-1】無邪気 率直で前向き 生まれたての子どもの側面 イメージでとらえる力

 

太郎作品には「虫と子供」「美女と野獣」「駄々っ子」など、虫と子供を組み合わせが

多い。幼少期に放っぱなしの自然児として育った太郎は「目の前で動いている小さい虫。

 

それが自分か、自分が虫か混沌とした充実感を覚えた。今でもふと心の奥からふくれあがってとびだしてくるのである」と語っている。

 

#1、10の無邪気さ、溢れる創造力は幼少期の頃の自然豊かな環境に居た自身の内側から

溢れてきていたのではないでしょうか。

 

また、ホロホロ鳥を食した際、生きている状態のその愛らしい姿を見て「食べ物は結構だがやはりそれより自然にユーモラスな生き物の姿の方が楽しい」と話しています。

 

切実に生きている生命への共感、命の憂い、無垢なるものへの眼差し。

 

#10の「人や自然界への深い繋がりを信じ、才能と創造性を開花させる」を読み取れます。

 

 

画像はお借りしました。

 

 

また、太郎の有名な言葉に「芸術は爆発だ」をいう言葉があります。

 

この「芸術」という言葉。何を表しているのでしょうか。

 

先ほど述べたように「自分こそは宇宙の中心である、という個の尊厳と自由感をみんなの中に取り戻すこと」を芸術を通して日本でやろうとしました。

 

私にはこの「芸術」という言葉が「個々の生命の光」を表しているとしか思えてなりません。

代表作品である「太陽の塔」の中には「生命の樹」がそびえています。

 

芸術=生命 爆発=ビックバン

 

私達は宇宙の中でたった一つの尊い命なんだ。

 

だから思いっきり自分らしく生きろ。命を輝かせろ。社会や他の人、自分が作った枠なんか気にするな、どんどんはみ出せ。

 

太郎からそんなメッセージが聞こえてきそうです。

 

まさしく#19の起爆剤、刺激者となり人を導くジェネレーターではないでしょうか。

 

実現可能数 生来の才能と資質 社会的役割の数字

【13-4】安定 固定 建設 プロセス 知識欲 終始一貫

 

太郎は「芸術は民衆のものだ」と言いました。

 

「絵は社長室に偉そうにしまっておくものではない」と売ることはせず、壁画などのパブリックアートやウイスキーを買ったらもらえる「オマケ」など、大衆にわかりやすくストレートに送り出しました。展覧会も美術館ではなくデパートの催事として。敷居が低く、小銭を持って足を運べて気軽に作品に触れる事ができるようにしました。

 

 

 

 

 

 

 

周囲に「自分の価値が下がるからやめておけ」と言われてもその姿勢を崩しませんでした。

 

そのようにして芸術を生活の中に送り込み「芸術は暮らしの中でこそ活きる」と考え、

「座ることを拒否したいす」の「いす」など「芸術品」ではなく「くらしの中にあるもの」

を目指すようになりました。

 

 

太郎ほど名前と作品が知れた芸術家は日本にはいないのではないでしょうか。

 

「太陽の塔」を始め渋谷のマークシティ通路の「明日の神話」「こどもの城」「若い時計台」

など全国に身近に太郎の作品は溢れています。しかもモニュメントとして無料で見れるものが殆んど。芸術を#4の「普遍的なもの」にしようとしました。

 

 太郎は私たちの生活に自身の作品を送り込むことで何を伝えようとしたのでしょうか。

 

「私はあらゆることにぶつかり、問題を広げたいと常に思っている。

 

全人間的であるためにはうまかろうがまずかろうが何でもやるべきだ。

 

やらなければ本当の人間として責任が持てない」と語っています。

 

 苦手なことほど「恥をかくべきだ」と新しいことに挑戦し続けた太郎は自分の生き様や作品を私達に見せつける事により、私達の内側にある「熱い血潮」「生命」を気づかせ、問いかけてきたのではないでしょうか。

 

そしてここにも破壊を通して大きな創造性を発揮する#13-4が表れています。

 

 

Balance -4 後天的な経験によって得る

Tyape-Ⅱ 与えられた特質

 

1と5がなく

2×3

3×3

4×3

とオールマイティでバランスが良いように感じました。

実際、なんでもできる天才肌でピアノも陶芸も即興でプロ顔負けだったそうです。

 

 

Cycle 0歳~32歳 Cycle#2

Pinnacle#10-1 Challenge#6

 

特に母かの子の率直で素直、無邪気で「童女」と呼ばれたところは太郎の少年のような無邪気さと重なると感じる。また、母が若い頃、太郎をひざにのせて世の憂いを嘆き、さめざめと泣く姿を幼い目に焼き付けています#2。

 また18歳の頃にパリに渡ったが、画家になることは決めていたが自分が目指すものが見つかっておらず、芸術家一家のプレッシャーもあり、模索していました#6 

 

Cycle 33歳~50歳 Cycle#8

Pinnacle33歳~41歳#11-2 42歳~50歳#12-3 

Challenge 33歳~41歳#5 42-50歳

 

 

 

 

 

あまり知られていないが縄文を発見したのは岡本太郎である。上野の国立博物館で異様な形の縄文土器に偶然出くわした時「なんだこれは!」と叫んだという。

 

それまで「工芸品」とされていた縄文土器を「美術品」として位置づけたのも太郎です。

フランスで民俗学は学んだ太郎。縄文土器から太郎は造形美、四次元的な空間性、縄文人の宇宙観を土台とした社会。。。。

太郎は土器からイメージで世界観をとらえました。後にそれが説になる事もありました。太郎のイメージ力は驚くべきで時代を超えていたようです#11

 

Cycle 51~ Cycle#12-3

Pinnacle 51歳~ #14-5 

Challenge 51~ #1

 

太郎は芸術活動の他にもテレビ出演、講演会など、人前によく立ちました。

 

本人は「私は自分の姿を人前にさらすのが苦手だ」と語っている。が、弱気な自分が口惜しく「恥をかくべきだ」と引き受けていたようです。

 

太郎は苦手な事ほど挑戦していきました。可能性をどんどん広げていったのでしょう。ここに#12ナチュラルパターンの打破 #5の新しい経験 を感じます。

 

人とは違う視点をもつ太郎は時に道化のように扱われる事もあり、なんであんな事をやるのか、と散々諫められたが本人は意に介しませんでした。

 

 太郎はテレビ放映やCMなどで自分の言葉で人生や美術についてメッセージを伝えました。

 

しかし太郎が本当に伝えたかった事は民衆には届かなかったのです。なれ合いではホンモノは見つけられないと。自分を相手に遊んでいたと岡本敏子さんは書いています。

 

Cycle#2

Pinnacle#10-1 Challenge#6

 

1911年2月26日 漫画家・岡本一平、歌人で作家の岡本かの子の長男として生まれる。

 

1917年(6歳)#19小学校に入学するが一学期で退学し、一年で2回転校を繰り返す。

 

1918年(7歳)#20慶応幼稚舎に入学、寄宿舎に入る。

 

1929年(18歳)#14-5両親と一緒にパリに渡る。パリ大学ソルボンヌ校で哲学、心理学、美学、心理学、民俗学を学ぶ。#5変化、自由、冒険の年

 

1939年(28歳)#23-5母かの子没 #2の受容#5の変化

 

1940年(29歳)#24-6帰国

 

1941年(30歳)#25-7二科展に滞欧作品「痛ましき腕」「コントルポアン」など4点を特別出店し二科賞を受賞 

 

1942歳(31歳)#17-8兵役として中国戦前へ

 

Cycle#8

Pinnacle#11-2 Challenge#5

1946年(35歳)#21-3復員。戦火にて自宅にあった作品が全て焼失した事を知る

 

1947年(36歳)#22-4二科会に推挙される。#4の固定、現実

 

1946年(37歳)#23-5かの子の実家の大貫家や親交のあった川端康成宅に居候する。青山にアトリエを構える。

 

1948年(37歳)#23-5花田清輝らと「夜の会」を結成。同年、自らの芸術理念の核として「対局主義」を提唱する。父、一平没。デススケッチを描く。

 

1951年(40歳)#26-8戦後初の個展「岡本太郎展」を開催。同年、東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受ける。

 

1952年(41歳)#18-9縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話-縄文土器論」として「みずゑ」に発表。#1のインスピレーション#8循環。太郎がパリで民俗学を学んだ事から#9のすべてを内包するエネルギーを感じられる。

 

Cycle#8

Pinnacle#12-3 Challenge#1

1954年(43歳)#20板倉準三設計のアトリエ(現・岡本太郎美術館)が青山に完成。

 

「今日の美術」がベストセラーになる。父一平の七回忌法要。多摩霊園に墓碑として陶作品「顔」を設置。

 

1955年(44歳)#21-3淡校社主催「実験茶会」の亭主としてアトリエで茶会を催す。客人に丹下健三、北大路魯山人など。ヘリコプターで銀座の夜空に光の絵を描く。#3の好奇心、創造性、生産

 

1956年(45歳)#22-4 SF映画「宇宙人と東京に現る」のデザイン、及び色彩指導を務める。

1959年(48歳)#25-7沖縄に行き衝撃を受ける。

 

 

Cycle#12-3

Pinnacle#14-5 Challenge#1

 

 

1961年(50歳)#27-9「忘れられた日本(沖縄文化論)」を出版し毎日出版文化賞を受ける。

 

1964年(53歳)#21-3東京オリンピック参加記念メダルを制作。

 

1970年(59歳)#27-9日本万博博覧会シンボルゾーン中央に「太陽の塔」「母の塔」「青春の塔」を含むテーマ館が完成。テーマ館館長を務める。#9の1~8の全てを内包する数字から、今までの経験や思想がここに詰め込まれているのかなと。

 

1973年(62歳)#3飛行船(積水ハウス、全長56メートル)に絵を描く。#開放的、明るさ、陽気

 

1975年(64歳)#4太陽の塔の永久保存が決定される。#4の物質、現実的、形成

 

1977年(66歳)#7スペイン国立版画院に日本人として初めて銅版画が収蔵される。

 

1979年(68歳)#9「人生相談・にらめっこ問答」の連載を「週間プレイボーイ」にて始める。#9の包容力、経験による叡智

 

1981年(70歳)#11-2極彩色の鯉のぼり(TARO鯉)が発売される。「芸術は爆発だ」が流行語大賞の語録賞を受賞 TARO鯉は活き活きと青空に舞い、目が大きく見据えている姿がいかにも太郎らしく#11の情熱、哲学、未来志向のアイディア を感じる

 

1985年(74歳)#6シンボルモニュメント「未来を視る」「太陽」「こどもの樹」を制作。

 

1989年(78歳)#10-1フランス政府よりフランス芸術文化勲章)を受章。

 

1990年(79歳)#11-2岩手県・縄文サミットに参加。シンボルとして「縄文人」を展示。

 

 

 

1996年    急性呼吸不全にて死去。

 

 

年表参考)岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館、

参考図書)岡本太郎に乾杯 岡本敏子著

     人間は瞬間瞬間にいのちを捨てるために生きている 岡本太郎著

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レポートを終えて。

生涯を通してたくさんの作品、活動を世に送られてきた方のため、かなり年表は省略させて頂きましたが(おそらく半分以上は省略しています)亡くなる直前まで精力的に活動していた岡本太郎先生。

 

岡本先生は自ら行動し、発し、自分の生き方を貫きました。誰も味方になってくれなくても。

私はこの課題において直感的に岡本先生を選びましたが、先生のナンバーを見た時に

何を伝えようとしてくれているのか。課題に取り組んでいるうちに見えてくるのか。そんな気持ちで取り組みました。

 

私との共通点は#13-4#8#9でした。Soul#8とRealization#13-4 が同じでした。

 

#13の生と死はまさにそのものでした。そしてそれに執着しない姿を学ばせて頂きました。

 

太郎先生は「枠からはみ出せ」と何度もメッセージで伝えられました。枠からはみ出ると否定される環境にあった(ある)日本の教育や環境下で、この言葉に、岡本先生の生きる姿に救われた人はどれだけいるのでしょうか。

 

はみ出しまくって己を貫きとおした先生だからこそ、その言葉に重みと凄みが伝えられるんだな、と感じました。

 

 

私はこのレポートを通して「天上天下唯我独尊」の言葉を思い出しました。

私達の命は宇宙でただ一つ。尊い命なんだ、と。

仏教研究者の両親を持つ太郎だから感じられた言葉なのかもしれません。

 

Reported by Yuko Yoshida 


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