お互いに心を留め合うことって大事だよね | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ。富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ。草が刈り取られ、若草が現われ、山々の青草も集められると、子羊はあなたに着物を着させ、やぎは畑の代価となる。やぎの乳は十分あって、あなたの食物、あなたの家族の食物となり、あなたの召使いの女たちを養う。」

箴言27章23-27節

 

私たちは誰かに支えられ、また支え、助けられ、助け、そうした中で生きています。自分は一人で生きていける、という人もいますが、地域や社会、どこかのコミュニティに属し、その様々な助けを受けながら生きているわけですからそれは残念ながら成り立ちません。というよりも、逆に一人ではなくそうした様々な助けに支えられ生きることができるって素晴らしいと思いません?逆に自分は自分だからと、人に気を留めずに好き勝手に生きれば大変なことになってしまう。もっというなら、自分は神様の助け、支えなどなくても生きていける、という方もいますし、自分はもう救われたからひとりでもう大丈夫、という人もいる。でもそうじゃない、私たちはこの神様から離れては生きていけない。いや、むしろ神様から離れて神様の恵みを、愛を失った結果、人はこうして今苦労し、痛み悲しみ、またさまざまな思い煩いに支配される、罪に支配され死に向かっていってしまう、神様の最高の御心ではなく。でもそんな私たちを神様は見捨てることなく、愛するわが子のために天の父なる神様はお心を痛めながらあなたを救うために、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった、それほどに愛された、愛されているのです。その心を現して下さるのです。私たちはこの方に心を向けよう、留めよう。この神様のお心、みこころに生かされ今日も歩もうではありませんか。

 

ということで、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け神様が語られ示された、知恵であり、いのちのことば・箴言で、これを聞いたソロモンが書き残し、それをさらに約250年後、南ユダ王国王・ヒゼキヤが、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、これ以上の知恵、私たちを生かすものはない、と一言一句変えることなく書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は私たち一人一人のことを知っておられる、そんな私たちのためにその知恵・御心を現してくださる。愚かな、どうでもいいようなものではない、いつかは捨て去られるような適当な知恵や思いを向けるのではなく、また気が向いた時にだけ思いを向けるのでもなく、私たちを蔑むことなくどんな状況にあっても、どんな恐れが囲むような状況にあってもその知恵によって救い出し、神様の良いもので囲って、覆ってくださる、だからこの神様のもとに帰ろう、と招かれているわけですね。

 

そんな神様は、その愛、御思いをソロモン、ヒゼキヤ、そして私たちに向け示されたわけですが、↑では「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ。富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ」と語られます。羊だから自分には関係ない、と思わないでくださいね。そうすると「王」冠と話が合わなくなりますから。その羊は、親であるなら子、また家族全体、会社であるなら、上司から見た部下や社員、会社全体、まあ政治にしても地域にしても、いずれにしても私たちの「周り」に目を向ける、よく知ろうとする、心を留める、これが大事ですよ、と訴えるわけですね。この箴言を書き残したソロモンにしても、それを書き写したヒゼキヤにしても王、国民のことをよく見て、自分のしたいことだけを押し通す、するのではなくその彼らのために本当に何が必要なのか、どんな状態にあるのか、良く心に留めるように神様から導かれたわけですね。

 

羊ってまあ羊飼いからしたら見分けがつくのでしょうが、私から見たら数匹くらいならなんとかなるかギリギリですが、国民の数となると相当でしょう。でも、彼ら一人一人のことに心を配る、心を留める、よく見るように、と。まあそんなの無理だよ、と言われてだから最大公約数で、と行動してしまうのかもしれない。それに、いつまでも富が続かない、というように、いつまでも上に立っている人や助ける役割をしている人が生きているわけでも、続くわけでもない、いわゆる世代交代的なことだってある。だからこそ、なんでしょうね。ただ、ひとりひとりに目を留められないから、と最初から決めつけるのではなく、だからこそ私たちはまことの羊飼いなるイエス様に心を向ける・そのお心に留める、その声に耳を傾ける必要があるわけです。

 

一方で、心に留めるからなあなあにする、甘やかすという事だけを言っているわけでもありません。その羊と言いますか、その人の成長を助ける、促すというのも大切な羊飼い、あなたの役割だと思います。まあこれ、教会の成長、クリスチャンの成長という意味でも大切な意味を持ってくるのですが。そういう意味で羊側も、羊飼いの声をよく聞く必要があります。考慮する、心に留めてくれている羊飼いから羊が離れてはどうにもなりません。羊と表現されていますが、羊はあまり目もよくなく自分一人で何かをすることはできない。だから羊飼いの後をついて行く、羊飼いの声を聞いてそれに従うのです。そうして羊は羊飼いに導かれ、良い牧草を食べ、命に関わる水を飲んで生きるのです。羊飼い自身も同じ、師匠といいますか、まことの羊飼いなるイエス様の声を聞き、どうしたらいいか、この群れをどう助けたらいいか、この人をどう助けたらいいのか、聞きながら、導かれながら治めていくわけです。そこに、神様の知恵、御心、私たちにはできない、私たちには想像つかない神様の業が、ご計画が現れるのではないでしょうか。

 

イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。…まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と語られました。

 

イエス様が私たちにいのちを与え、それを豊かに持たせてくださる。イエス様は私たちの群れをかき乱したり、自分勝手に壊していくものたちから守られる、どうしたらいいか分からない弱い羊のためにいのちをかけて守られる、先頭に立って。私たちはどの立場にいようが、このまことの羊飼いなるイエス様の声に耳を傾ける、それが重要なのです。このイエス様が私たちを富ませてくださる。その群れを、家族を、コミュニティを、職場を、学校を、友人たちを…あなたがこのイエス様のことを知っているならなおのこと、この羊たちのために心を留める、その必要を覚えますね。その群れが、神様を知らずに苦しんでいる人たち、迷っている人たちが、このまことの救い主、羊飼いなるイエス様を知ったなら、最高じゃないですか。そこは、その人はどれだけ変えられていく事か。喜び、いのちある者へと変えられるか。

 

世のやり方で群れを養うのではなく、イエス様の愛を知ったあなたがイエス様の愛をもって仕えるなら、そのイエス様に倣うなら、自分は不完全ながらも、その不完全な私たちの内に完全に働かれるこの方が、そこに本物の喜び、平安、いのちをもたらされるのです。

 

イエス様は「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」とも、先程のたとえの続きで語られていましたが、イエス様はこの状況をどうせ知らない、理解してくれない、と思う、けどイエス様はあなたの事を知っておられる、あなたのいる群れを知っておられる。その群れと言いますか、羊一匹のために、あなた一人のためにさえ命をかけられるのです。それこそ他のたとえ話の中で、100頭いる羊の中から1匹が彷徨った時、99匹の羊を置いて、そのたった1匹の羊を探しい駆け回ったように。

 

そう、神様は私たち羊を救うために、私たちの悩みも痛みも、傷も、汚れも、何より神様から離れ好き勝手にさ迷い歩いていた、ある意味では自業自得と言われて捨てられてもおかしくない中、あなたを救うために、御子イエス様にこれらすべてを身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、この滅びゆく私たちを死の墓から、罪の群れと言いますかその中から引き上げ、神様の家族、子、神様に属するものへと変えてくださるのです。私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら。そういう意味では、私たちが神様の群れに属するものとされているならなおのこと、私たちはこの神様の、まことの羊飼い、私たちのためにいのちをかけられたイエス様の声に聞き、導いていただく必要があるのではないでしょうか。そのあなたの群れ、いのちを世やサタンに明け渡してはいけない。

 

私たちはこのイエス様の愛をいただいたそれゆえに、このイエス様の愛の視点で友に、群れに、隣人・あなたの苦手な人も含めて心を留め、また何をそこでしたらいいか、イエス様に尋ね求めよう。そこを富ませ、いのち溢れるものとしてくださるイエス様に。イエス様も、イエス様の愛を知り、罪赦されたペテロに、「わたしの羊を飼いなさい」と仰られた。特別な人だけじゃない、その中にイエス様もその愛を現したいとあなたをも招かれている。あなたのいるところがそうして変えられていったら、イエス様がおられたら最高じゃないですか。今の時代にイエス様がいたら…と思う感覚、それがまさにそこに現されるわけです(まあもともとおられるのですが)。

 

「草が刈り取られ、若草が現われ、山々の青草も集められると、子羊はあなたに着物を着させ、やぎは畑の代価となる。やぎの乳は十分あって、あなたの食物、あなたの家族の食物となり、あなたの召使いの女たちを養う」というように、彼らが変えられていった時に、私たちにとっても喜びになる。いや、イエス様が報いてくださり変えられる。なんと素晴らしいことだろう。その喜びを私たちは味わう日が来るのです。私たちに出来ることは確かに限界はあるかもしれない。でも私たちは諦めてつらく当たったり、世と同じ方法で当たるのではなく、その人のために執り成し祈り、また何ができるか、祈ろう。そこが神様の国へと変えられていく…困っている人を助ける、それだけではなく霊的な、たましいに至るまで、霊の戦いにおいてもすべてにおいて、神様の勝利がなる。そこに待つ喜びを信じて。

 

「イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに(内臓がひっくり返るほどに心を痛め)思われた」とあるように、主は今日も私たちが本当の意味で回復していく事を願われてその御手を伸ばされている、心を留めておられる。私たちはこの方に心を向ける、留めようではありませんか。主の愛がここに溢れることを信じ。

 

羊と子羊の群れ、箴言27:23