望みのあるうちに | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。」

箴言19章13-18節

 

私たちのいのちは、あなたのいのちは偶然できた、存在するものではない。両親から、と言えばそうなのですが、しかしいのち、あなたという人は神様がそのいのちを与えてくださったから、今生きているんです。偶然このからだになったのでもなく、神様が組み立て、神様が良い計画をもって今日まで養い導いて下さっていたのです。何もない、誰も見てくれていない、助けてくれない、そんな風に思う中にあっても神様がその恵みの雨を、愛を、御心を現し、支え、こうして今私たちは生きているわけですね。それは過去だけではなく、これからもです。こんな方がいるなんてなんという望み、希望でしょう。父なる神様は愛するわが子、私たちのいのちを保ちたい、その思いを今日も注ぎ続けて下さっているのです。この愛ゆえに、私たちが死ぬことがないよう、私たちの負うべき罪の報いも痛みも全部御子イエス様に背負わせ、身代わりに罰して死なせてでもあなたを救う、愛し抜かれることを決断、実行されました。これだけの愛がどこにあるか。今日私たちはこの神様に希望を抱き歩もう。今日もこの方の恵みの雨が私たちを潤して下さっているから。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言・神様からの知恵のことば・いのちのことば、そしてこれを受けてソロモンが書き残して私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちの生涯に良いものを注いでくださっているんですよね。それは両親、そして子供、またその家庭、学校、職場、友人関係、地域…。神様を恐れるってびびるとか、そういう事ではなく、この方をその場の主人と言いますか神様とすること、その神様にへりくだる中で、この神様の素晴らしい愛が、御力が、御業が溢れるのです。神様はあなたを蔑まず良いもので満たそうといつもその御手を伸ばされている、あなたはどうですか?と問いかけられているわけですね。

 

その神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらにその知恵について、いのちのことばについて、「愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り」と語られ、ソロモンもこの知恵のことばを書き残します。ここでは家庭について、神様の知恵が示されていますね。家族の中が平和であることを。いや、もっと言うとこのありかたというのは私たちの置かれている場所、地域、友人関係、学校、会社、どこででもこの考え方は言えると思います。

 

それでこの箴言の最初のことばですが、確かに息子さん(娘さんでも同じ)が何かをやらかすと父親もダメージを受けることがありますよね。うちも、兄の起こした問題で父親が移動(左遷)させられたこともありましたし。ただそういうレベルの話で終わらず、父親、いや母親にとってもそうですがそれは心の痛みを伴います。自分の立場がどうなること以上に。また奥さん(旦那さんでも同じ)の起こすいさかい、争いや不和は、たとえそれが小さなことと思える事でも、伴侶や子どもの心を消耗させ、徐々にそれが雨漏りが家を浸透していくように、生活全体を不安定にしてしまう。雨漏りというのは本当に厄介なもので、すぐに家の大きな崩壊をもたらすわけではありませんが、放っておくと家を傷め、住む人の心を疲れさせます。

 

そのようなことがあってはいけない、そう訴えるわけですね。ただ、そんなことを言っても現実完璧な人はいないし、完璧な家族なんてない。だから夫婦喧嘩はだから仕方ないよね、子どもが何かしても子どもなんだから仕方がないよね、とかそういう話を私はしたいわけではなく、じゃあ問題の雨漏りを放置していいの?という話になります。それに、ここでは父親には何の責任がないような書き方になっていますがそんなことはありません。むしろ重要な役割を果たしています。もちろん父親が亡くなってしまった家庭、シングルの家庭など現代色々ありますから、父親だけが、というわけではありませんが。

 

パウロが私たちの新しい助け主なる聖霊様に導かれ、私たちの助けとして導かれ書いた手紙の中で「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。…私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』…それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と、私たち人は不完全である事は知っている、だからこそ家庭の在り方についてこうして勧めます。夫婦、そして子供、そしてこの続きの箇所で、これがベースとなって仕事などの話に発展していくのですが。これ、本当に大切なことなので覚えていていただきたいです。

 

それで、そのためにまず、神様は全てのかしらは夫でもなく妻でもなく、もちろん子どもを好きなようにさせるのでもなく、イエス様がかしらなんだよ、と示されているわけですね。奥さんも、旦那さんも、もちろん子どもも、かしらなるイエス様により頼む。イエス様が私たちを愛してくださった、私たちを神様の家族から捨てられることがない様に、ご自身のいのちを身代わりに差し出し、十字架に架かられ死なれた、そこまでしてでも私たちを救われた、取り戻された、これほどの愛のイエス様を愛する、委ねる、そのことを勧めるわけです。

 

自分たちが頭になって、神様が働こうとすることを邪魔する、伴侶を押しのけて好き勝手に家を改造するのでもなく、これほどまでに愛され、私たちを救い癒そうとされたイエス様の知恵を求める。その中でかしらなるイエス様がこの家を建て上げてくださるのです。その神様の祝福が子どもたちに、家庭全体に、雨漏りじゃない、恵みの雨で、愛でいっぱいにしてくださる、そこに神様の業が溢れるのです。あいつはだめだ、こいつはだめだ、じゃなく、もともと不完全な私たち人の内に、家庭の内に、ここから話を発展させていきますが、仕事場や学校、友人関係、地域に働いていき変えられていくのです。憎しみや争い、そうしたものではない、新しい神様の創造、回復へと。

 

それを人の思いで壊したり諦めてはいけない。むしろここにあるように、互いに愛しあう、その中に神様の愛が働くんだよ、そう訴えるわけですね。イエス様も、互いに愛し合うことを何度も勧められましたし。自分を裏切り罵る者たちのためにさえ、その罪を背負われ十字架に架かられたほどの完全な愛が。そのイエス様の愛を、御業を諦めてはいけませんね。互いに進め愛、愛し合う、赦し合う、イエス様の愛に帰っていく、知恵に帰っていく、私たちのいのちを取り戻して下さったイエス様による回復を何より願う。その時、家庭も、地域関係も、仕事や学校でもどんなところにも、全てのかしら、つくり主なる神様の御業が溢れる、これを期待せずに諦めて、何に期待したらいいのでしょう。神様の創造の業、癒し、再創造、これに私たちは期待しよう。主の訓戒の御前にへりくだり、神様のくださる幸せを求めよう。

 

たとえどんなにつらい時であっても、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕え」る、その中で神様からの報いが確かにそこに現されるから。

 

さらに↑で「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの」と語られていますが、確かに家や財産は先祖から代々受け継ぐもの、ですが、それらはすべて神様が創られたところ、与えられたもの。その神様の祝福を私たちに受け継がせていただける、なんと幸いな話。神様は良いもので家庭や置かれている場所を満たしたい。でもそれを受け継ごうとしなければ何の意味もない。思慮深い妻(夫もそう)は主からのもの、と言いますが、まさに神様からすべての良いものは与えられ、そこから家も、遣わされている場所も建て上げられていく。この神様から受け継ぐといいますかいただく財産で、良いものでいっぱいに「神様が」してくださるのです。

 

私たちは本来神様からそんな良いものを受け継がせていただけるに値しないものでした。神様を神様とせず、好き勝手に歩んで、それこそ自分が神なんだといわんばかりに歩み。しかしそんな私たちを神様は見捨てず、御子イエス様を私たちに与えてくださったのです。しかしそれでも自分の思う通りにならないイエス様を否定し、ついには十字架に架けてしまった。それは昔の話ではなく、私たちもこの罪のためにかけたのです。しかしそれでもイエス様は私たちを見捨てず、神様のくださった命を失った私たちをもう一度回復させるため、この傷も痛みも思い煩いも、何より罪も一切身代わりに背負われ、十字架に架かられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによってこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、和解させていただき、神様の子として迎え入れてくださる。このかしらなるイエス様の家に私たちは住まわせていただける、生きさせていただいているのです。

 

私たちはこのイエス様をかしらとして今日も生きよう。「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない」と語られているように、私たちは神様に委ね信頼することに怠惰になって諦めて寝ている場合ではなく、目を覚まし、この神様の御業を待ち望もうではありませんか。私たちを死からいのちへ引き上げてくださったこの神様が守ってくださる、保ってくださるのだから。困っている人にも祈りの手、助けの手を閉ざすのではなく、この望み、希望を私たちも持ち続け、語る者であろう。仕えるものであろう。そこには神様の御業がなりここにいのちが溢れるから。わたしたちはどこまでも頭なるイエス様、命をかけて愛されたイエス様の愛によって癒し、回復が起こる事を信じ求めようではありませんか。

 

家族と十字架、施しに報いる神