「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、その兄弟たちの間にあって、資産の分け前を受け継ぐ。銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける。貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。すぐれたことばは、しれ者にふさわしくない。偽りのくちびるは、高貴な人にはなおさらふさわしくない。」
箴言17章1-7節
自分の持っているものを分かち合う、分け合う、これは本当に素晴らしいことだと思います。お腹を空かせている人に食べ物をくれる人もいれば、お金がない人に貸してくれる方、また無償で自分たちには十分あるからとお金をくださる方もいます。でも物だけではありませんよ?あなたのことば、時間、なんでも分かち合うことができます。いずれにしてもその規模によらず、愛を分かち合う、何かを分かち合う先に喜びが広がるのでしょうね。イエス様もいつもご自身の愛、力、時間、その全てを惜しまず与えてくださりましたから。5つのパンと2匹の魚をそういえば2万人近くの人に、2万人近くの人に分かち合ったこともありましたしね。何よりイエス様はご自身のいのちをさえ惜しまず与え分かち合ってくださった。それによって私たちに本物のいのち、救いをもたらして下さった。この愛は今日も惜しまず分け与えられ注がれている。その愛が溢れたらどれだけ素晴らしいでしょう、あなたに、あなたの周りにも。私たちはこのイエス様から溢れ流れる愛、これにどこまでも期待し歩もう。この愛を分かち合う者でありたいですね。
さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王であったソロモンに向けて神様が語られ示された、またその彼を通して私たちにも知ってほしいと書き残され示された箴言、知恵・いのちのことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はご自身の良いものを私たちにも分け与えたいんですよね。わが子と呼んで下さる父なる神様は、私たちに惜しむことなく善いものを。どうでもいいものではない、あなたを美しく着飾らせようと神様は愛からくる知恵・御心を今日も注がれているというわけですね。神様の愛は尽きることがない、だからこの神様を求めて良いんだよ、と。何と感謝な事。
そんな神様はさらにソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けて、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」と語られ示されます。まあどんなに良いものに満たされているように感じていても、いつも争いがあったり、もっともっとと貪欲になって相手を罵ったりして、そこまでして満たされようとするのはちょっと違いますよね。会社とかでよくありがちな話ですが。儲けばかりに目が行って社員の心は?ということ、ありますよね。もしくは家庭でも同じかもしれません。お金を稼ぐこと、養うことに一生懸命になって子どもが、家族が見れていない、とか、これは昔からありましたよね。まあ挙げたらきりがないでしょうが、ごちそうを食べている、と思って実はそれがごちそうではなかった、喜びを見出すどころか何かを失ってしまうことだってあるわけです。
それにしても一切れのかわいたパンって、そんな価値のなさそうなものを食べても何にもならないのでは?と思うかもしれませんが、そもそもの話、すべてのものは神様から来るんですよね。私たちは神様が創られた世界、神様が働かれている世界、神様が食べ物も生えさせてくださり与えてくださった、与えてくださっているものを食べ、その助け手も神様が与えてくださり…そうして神様が養ってくださっている、その神様が、言い方があれですが、分け与えてくださっているものをいただいて生きているわけですよね。
私たちは目の前にあるもの、状況を、こんなかわいたパンを食べて何になる、と言ってもっとごちそうを求めたり、自分が何か満足できないのか、貪欲に何かを求め続けますが、そもそも神様が良いものをくださっている、分け与えてくださっている、そのことを忘れてはいけませんし、貪欲になるなら神様をどん欲に求める、これを忘れてはいけませんね。
神様は良いことを出し惜しみされる方ではありません。エデンの園でのことを思い返してみますと、「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」と記されていましたね。
神様は、見るからに好ましく食べるのによいすべての木を生えさせて、そこからどんなものを食べてもいいよ、と仰ってくださっていました。さらにはそこには全土を潤し、良いもので各地を満たさせていました。でも、一つだけ神様は大切なことを仰っていますね。善悪の知識の木からは取って食べると、必ず死ぬ、だからだめだよ、と。神様は死ぬものを食べてほしいんじゃなくて、生きるために良いものをいつも与えてくださっているんです。善悪の知識の木だからというよりも、神様がだめだよ、ということの先に神様のいのちがない。神様が与えてくださるものの中に神様の栄養、いのちが溢れるわけです。神様が分け与えてくださるものに。神様は私たちに来てほしい、とご自身の内からいのちの川を流され、満たされる、生かして下さる。神様の恵みは、愛は尽きないのです。あなたに生きたものになってほしい、死なないでほしいというその思いは。
神様が分かち合うところに喜びは広がります。イエス様の話を聞きたいなど、色んな思いでついてきていた2万人近くの人たちがいたのですが、日も暮れお腹もすかせていた、そんな時に食べるものが無かったのです。そこでイエス様はある少年の5つのパンと2匹の魚に注目しました。その少年は喜んでイエス様にそれを渡して、イエス様は感謝の祈りと共に2万人の人たちに分け与えました。いやたったそれだけで満腹になるはずがない、一人当たりにあたる料などたかが知れている、と思うところ。なんとその5つのパンと2匹の魚はなくならず、全員を満腹にさせるほど十分に行き渡った。それだけではなく余った物をかき集めると、12のかごいっぱいになるほどだったというのです。まさにイエス様が分け与えるところには喜びが、いのちが広がる。少年が出し惜しみしていたらこのことはなかったでしょう、恐らくイエス様が何とかしたかもしれません。かつて何もない荒野を、約束の地に向けて旅をしていたイスラエルの民にも(男性だけで60万人以上いたのですから恐らく200万人くらい?)神様は毎日食べ物を送られていましたから。
こればかりは書いていないのでわかりませんが、たとえかわいたパン切れのように見える事であっても、ここにイエス様が働かれるところには喜びが広がる、満足が、いのちが広がるのです。イエス様はいのちのパン、そのイエス様を食べるなら、飢える事も渇くこともない。それはまさにごちそうへと変わるのです。そこに平和が広がるのです。
まあそもそも神様は困っている人に助けの手を閉ざしてはいけない、またあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られているわけですから、↑のみことばのもう一つ忘れてはいけない事として、困っている人にあなたの持っているものを分かち合おうよ、という意味合いもあります。それはお金だけではありません、食べ物だったり、あなたの時間だったり、誰か落ち込んでいる人がいたら、話を聞くのもいいです。一緒に祈るのでもいいです。あなたが神様から頂いているよいもの、愛、これを分かち「愛」をするなら、励まし「愛」をするなら、そこに先ほどまで見ていたようなイエス様の素晴らしい愛が溢れ広がり、その人を生かし、満たすのです。イエス様の愛が働かれるんですよ?生きてほしい、と願うイエス様の愛・御心がそこに現されるのです。こんなに素晴らしいことはないじゃないですか。
どうせ分かち合うなら、争いになることを分かち合う、語る、するのではなく、そこにイエス様の愛が広がるような事を語り、行いたいものですね。だって神様は私たちにそれこそ生きてほしい、と願い、神様から離れ好き勝手に生きている私たちと争い死なせるのではなく、生きる事を願い、御子イエス様を遣わし、その愛を惜しむことなく現されましたよね。人となって生まれてきてまで、社会から見捨てられたような人でも、罪人であってもその愛を惜しまなかった。癒され励まされた。でもそれだけではなく、私たちを一時的に癒すだけで終わるのではなく、私たちを完全に癒すため、私たちの内にある様々な思い煩い、罪、一切を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。
このイエス様のいのちが分け与えられたことで、私たちも生きたものとされたのです。この愛の力が今日あなたにも注がれているのです。そしてこの愛が溢れ流れることを願い、イエス様は全ての人にこの愛を届けるように仰られたわけです。新しい助け主なる聖霊様がおられ、働かれ今もそれは私たちにも注がれているのです。私たちがこんなかわいたパン、と思う状況をごちそうに変えてくださるのです。ならなおのこと、このイエス様の愛が溢れることを願い分かち「愛」、祈り「愛」…歩もうではありませんか。そこにイエス様によって和解された神様の平和が広がるから。
「思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、その兄弟たちの間にあって、資産の分け前を受け継ぐ。銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける。貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる」。神様は私たちに今日もその資産を分け与えてくださる。恥知らずの私たちのために、神様から離れた私たちのために、イエス様がしもべとなって治め、その良いものを受け継がせてくださった。私たちは神様を試すのではなく、この神様が与えてくださる良いものを聞き入れ、受け入れつつ、ただつくり主なる神様があなたのうちに、まわりにかたちづくってくださるそのご計画に期待しようではありませんか。私たちの罪をイエス様のいのち、血潮で覆ってくださったその神様の愛が今日もあなたの内、あなたの日々、あなたの周りを覆いますように。また是非これを私たちも分かち合い、この愛がさらに豊かに広がっていく事を切に祈ろうではありませんか。