野菜力?肉力? | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。なまけ者の道はいばらの生け垣のよう。実直な者の小道は平らな大路。」

箴言15章16-19節

 

私たちには色んなものが与えられています。ある人の目にはどうでもいいものに見えても、実はとても素晴らしいものだったりすることもあります。逆にすごい良いものに見えて、いざ使ってみると…なんてこともあります。ようするにそれぞれ今目の前に与えられている何かの見方が人それぞれ違うんです。何をもって良しとするのか、幸せとするのか。でも、私たちの持っているもの、与えられているものはすべて神様から来ているんですよね。神様が与えてくださったこの世界に、このいのちの中で私たちは生きている。その神様が与えてくださっているものに大きいも小さいもないのです。わが子に良いものを考え、与え、また養う両親のように、いやそれ以上に神様はあなたのことをよくご存じで誰の目にも留められないような小さな私たちであろうともその御目を留め、御手を伸ばし養い導いて下さる。私たちはこの神様のくださっているすべての事に感謝しよう。そしてその中に神様が現わされる素晴らしい一つ一つの恵みに目を留め歩もう。神様は私たちを愛するがゆえに、あなたを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛されているのだから。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られた知恵のことば箴言・いのちのことば、そしてソロモンを通して私たちに書き残された神様のことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていました。私たちはどうも日本にいると八百万の神とか、色んな神社などの「ご利益」的なものに頼ったり、似たり寄ったりと考え神様を甘く見てしまいますが、そもそも神様はただおひとり、他にはいない。その唯一真なる神様、この天地万物を創られた神様、あなたにいのちを与え、今日もリアルに生き養ってくださっている神様が、決して小さくはない、最高の知恵・御心を現しあなたを着飾らせてくださっているわけですね。この神様を恐れる、へりくだり、この最高のいのちを受け取りにおいで、と招かれたわけですね。

 

そんな神様はさらにソロモン、また彼を通して私たちに向けて「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。なまけ者の道はいばらの生け垣のよう。実直な者の小道は平らな大路」と語られ、ソロモンもこれを書き残します。

 

この中で特に気になるのが野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」。このことばは前後を見ると少し違和感を感じられる方もいるかもしれません。よく箴言で1節だけ取り出して、だからこうなんだ、という人がいるんですよね。これは美味しいから役立つとか。この箇所1節だけを取り出して、ほらだから菜食主義の方が良いんだ、とか。ただ、このことばが意味するところはそうではないのです。というよりも、この前にある、「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる」ということばとセットで考えるとわかりやすいのです。

 

それで当時の文化では、肉料理は特に肥えた牛はごちそうとされていて、まさに豊かさの象徴でした。反対に、野菜の食事は質素で貧しい食事を象徴していました。肉が良い、野菜が良い、とかそういう話ではないんですよ?それぞれに必要な栄養素があります。考えてみますと、食事がおいしい、ってすごいですよね。素材の味そのもので美味しい、ということも。神様は美味しい食事、生きるために必要な栄養素を食べ物に込められているんです。段ボールをかんでいるような食べ物ではなく、味も栄養もある。そう、どんなに質素に見えても、え?これだけ?と思うような中にあっても神様は十分な素晴らしいものを備えられているわけです。神様の味が、憎しみ愛ではない平和がすべての内に働き、本物の喜び、幸せをもたらすのです。

 

イエス様はよく食卓に人を招き、共に食事をしました。中には病気の人で、社会的に見捨てられた人もいたし、罪人もいた。周りの人たちは何でそんな人と食事をするんだ?と冷ややかな目で見てイエス様を非難していたこともありました。彼らは自分たちが与えられている喜び、豪勢なもの、神様という存在を知りながらその愛を受けてその愛を分かち合い彼らを助けようとせず、憎しむとは言わないまでもばかにして傷つけていた。しかし、イエス様はそんな人たちをその食卓で、イエス様の持てる言葉、励まし、慰め、またその愛ゆえの御力による癒し、また道に迷う人たちにその道を示され、本当の神様のいのち、恵みで、栄養で満たし、元気に、何より魂に癒しを、罪の赦しによる神様との和解、そこに注がれる完全な神様の愛を与えようとしてくださっていたのです。イエス様の食卓、関係の中に招いて下さり、私たちにその全てを惜しむことなく注がれ、生かそうとしてくださっているのです。

 

あなたに与えられているごちそう、お肉、それをあなたはどれだけ分かち合っているだろうか。↑を見ると肉はダメ、豪勢なものはダメ、と言われているように感じるかもしれませんがそうではありません。むしろその与えられているごちそう、それは賜物だったり、知恵だったり、何かお金かもしれない、それこそ物だったり食べ物だったりするかもしれない。でもそれを自分だけの内に留め、自分が満足するためだけに持っていてはどうにもならない。でもそれを分かち合うなら、愛をもって分かち合うなら、それは素晴らしいものに変えられるのではないか。何よりあなたが与えられているのは小さく見えても、神様から与えられた最高のものなはずです。それを分かち合うなら、なおのこと神様の素晴らしさが広がり、周りも生きるのではないか。神様の栄養、愛、いのちが広がり元気になっていくのではないか。

 

↑の最初で「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる」と語られていますよね。神様を信じる事、期待する事って結構大変なことなのかもしれません。でも、だからあれやこれやこの世の財宝・ごちそうと思えるようなものをもって対応してもそこには神様は働かない。でも私たちがたとえ野菜に見えても、ちいさな、わずかなものにしか見えなくとも、その小さくてもいい、その信仰の内に神様は働かれて驚くべき神様の御業が広がるのではないか。私の、あなたの、人の力や業によるのではなく、この世的な成功や富ではない、神様が、神様の最善を現される。

 

私たちはこの神様を、これは私の求めるごちそう、財宝ではない、と非難していませんか?あの人はダメだ、この人はダメだ、と自分の価値観に合わず非難して、神様を恐れることを忘れ、神様の愛が、御業が、その知恵・御心が現わされることを祈り願うことを忘れていませんか?神様のなされることが最善のごちそうだ、と信じ期待していますか?それをいただいたなら食べていますか?神様がどんなに良いものを与え、働こうとしていてもこれを信じ受け取る、取って食べなければ、そこに神様の味をいただけるのでしょう。食べなければ味もしなければ栄養も受け取れない。神様はその御手を伸ばされ働いて、あなたに良いもの、良い業、そのいのちのパンをくださっている。私たちが生きるためのパンを。でもそれが何の役に立つ、と言って受け取らなければそこに神様のいのちがあなたの内に働かれない。神様が互いに許し合いなさい、愛し合いなさい、と言っても、赦さず憎しみ合えばそこにどうして神様の和解、そこに広がる御業を受け取ることができますか?私が食べたいのは肉であり野菜ではない、神様の言うことは私の好みではない、と言ったら、それを実現されようとする神様の御業をどうして受け取れるでしょう。

 

神様を恐れる、愛する・へりくだるということはその御言葉に、神様自身に従う事です。イエス様が癒された方に声をかけられた時、「あなたの信仰があなたを癒したのです」と仰られた。まさに私たちがそれでも神様に従う、その信仰の内に神様が働かれる、その時は癒しでしたがあなたにはあなたへの神様の癒し、ないし何かを成されるのです。あなたの隣人(苦手な人も含め)を憎しむのではなく愛する、憎しみのことばや、神様の愛とは別な方向に語るのではなく、神様の愛を語るなら、仕えるなら、そこに神様の驚くべき御業が起こる、栄光・素晴らしさが現れる。あの人は嫌いだから、愛する必要はない、なんてそんなことはない。むしろその人が神様によって変えられたらどうでしょう?この状況は絶対に無理だ、と思う事でも、神様を求めるなら、神様が働かれるなら、そこは神様の場所となる、全ては変えられるのです。

 

「激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める」。私もこれは耳が痛い話なのですが、確かに腹をたてたくなる状況はあります。まあ食事が気に食わず…なんてこともあるかもしれませんが、それだけではなく人との関係も同じです。でもその時神様を私たちは忘れてしまう。下手をすれば神様に対して争いを引き起こす。なんで神様、こんな状況にするんだ!と腹を立て、激する。でもそうじゃなく、私たちが主の御前に祈り求め、ここに自分の思いを成すのではなく、神様の御心をなして下さいと祈る中で、神様が全てを静め、癒され、変えられるのです。野菜か肉かで争うのではなく、自分の好みか否かではなく、神様が備えて下さっている野菜だろうと肉だろうとそれが神様からのごちそうと信じて受け取る、食べる、その中に神様の素晴らしさが現わされるのです。神様にあれが気にくわないこれが気にくわない、ついには神様が気にくわない、なんてやっている場合ではありませんよ?

 

神様はそんな神様と争う私たちを見捨てず、それでもあなたを↑にあるようないばらの中から、暗闇の中から、痛みの中から、何より罪の中から救い出すべく、御子イエス様に私たちのこれらの思い煩いも、痛みも、罪の代償も一切身代わりに背負わせ十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪、茨を取り除き、新しいいのちの道、大路へと招かれるのです。神様はあなたのために御子イエス様という肥えた子牛を用意され、引き裂かれ、この肉を食べさせてくださった。このイエス様のいのちを受け取る時、私たちは生きるのです。この内にイエス様が住まわれ、聖霊様が豊かに働く。まさに最高の栄養、いのちが私たちの内に流れる、流れているのです。そしてこの聖霊様によって私たちは今日も神様の素晴らしさをいただきながら歩ませていただけるのです。

 

今日のみことばは野菜と肉というなかなか特殊な表現になってしまいました。私は野菜が苦手。でも、苦手と思う中に神様の愛が溢れている。こんなものを食べて、信じて何になる、と思う中に食べてみると意外においしい、いや本当においしい神様の御業があなたの内に現される、あなたの周りに現される。あなたは神様のくださっているものを美味しいと信じていただいていますか?これが良いものと知ったならさらにこれを分かち合う者でありたいですね。もっともっと神様の素晴らしさが溢れていき、全てが神様にあって回復、生きる事を信じて。