柔らかな言葉の力 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。正しい者の家には多くの富がある。悪者の収穫は煩いをもたらす。知恵のある者のくちびるは知識を広める。愚かな者の心はそうではない。」

箴言15章1-7節

 

言葉の力、影響力というのは結構なものがあります。口調、言葉のセレクト…私も仕事上口調について大分気を付けますが、なかなか難しいところもありますね。ただ、何を語るにしてもその語る人の内側にある思い、動機に問題があれば、その言葉は意味を成さない、下手をすれば相手に傷をついけることになります。相手のことを思って言っているんだ、と口には出しても実際はただ自分を正当化させるために言っていることも結構ありますよね。考えてみると、私たちの口って神様が与えてくださったんですよね。ただものを食べるためだけじゃなく、しゃべるためにも。そして言葉を与えてくださった。その神様は私たちに互いに愛し合うことを、隣人を自分自身のように愛するように教えられている…その中に神様はご自身の愛を現されるのでしょうね。神様は、愛するわが子であるあなたを救うため、ただ愛を語るだけではなくその言葉にも振る舞いにおいてもすべてにおいて愛を現され、さらには私たちを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。そこまでされた方の愛を私たちは求めずにどうしましょう。私たちもこのイエス様の愛をもって語る、互いに愛し合い仕え合う者でありたいですね。そこに神様の言葉に表せない豊かな愛が、御心が現わされることを信じ、委ね。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵のことば・箴言、そのソロモンを通して私たちに書き残された神様のことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、神様の知恵はただの金言ではない、私たちに生きてほしい、素晴らしいあなたに神様が整えて下さろうとされた、私たちが愚かなものではなく、本当の意味で幸せな者として生きられるよう語られたわけですね。神様の愛からくるこれらのことばは私たちの内に働かれその御心を成し遂げてくださる、そうして私たちは神様の愛、知恵に満たされたいのち溢れる存在と変えられていくわけですね。全ての源なる神様が、愚かなものではない本物の愛、知恵をあなたの内に今日も成そうとされている

 

そんな神様はさらにソロモンに、また彼を通して私たちに向けて「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す」と語られ、示されます。

 

これは本当に耳が痛いですね。人は面白いほどに何かを言われると、まず「なに?」と思ってしまう。自分の意見を曲げられるのがあんまり好きではないからなのか。もしくは自分が優位に立つために、か。自分が偉いと思って相手は間違っている、と思ってのことか。まあこの辺は近年のハラスメントの問題の根っこにありそうですが。

 

昨日の分かち合いの中で「民の多いことは王の栄え。民がなくなれば君主は滅びる」という言葉がありましたが、それは王だけの話ではなく、上に立つもの、その組織、コミュニティ、家族、その他それらを支える人たちにもいえたことであって、その人たちの立ち居振る舞い、態度、そうしたものが大事、イエス様が立ち居振る舞い、言葉と行いにおいてもすべてにおいて仕え、愛されたように、私たちもイエス様の愛をもって互いに愛し合うことを見ましたね。その中で神様の完全な愛が、平安がそこにもたらされることを。大事なのはこのイエス様の御前にへりくだる事なんだ、と。

 

↑のことばはまさにその立ち居振る舞い、態度がどうあるべきなのか、その続きと言ってもいいかもしれません。それで、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす」ということですが、言葉というのは非常に大きな役割を果たします。誰かから受けた言葉が自分をある意味で建て上げ、また力づけられ、また逆に弱ることもある。誰かをそして今度は助けることもできれば喜ばせることもあり、逆に打ちのめしたり哀しませたりすることもあります。もちろん時には言わなければならないこともあります。そんな時にどうしても人は上から物を申したくなるのですが、謙虚に柔らかな言葉で伝えることを意識するだけで相手も受け取りやすくなります。言われた側も、素直に受け取ることも大事です。まあそんなことは当たり前と言えば当たり前なのですが、これが意外にできない。

 

ではどうしたらいいのか?その鍵はここで指摘されている「怒り」です。怒りが元となって何かを言えば決して良いものを生み出すことはできません。むしろその逆、「愛」をもって語るならそこには人の思いを超えた神様の知恵・御心が働かれ驚くべき変化をもたらします。

 

ある人はイエス様も神殿でお怒りになって商売道具をひっくり返されたじゃないか、厳しいことばをかけられたじゃないか、というかもしれませんが、そうではありません。イエス様は罪に対して怒りを覚えられている。イエス様は神様の家、神殿、本来神様の恵みを受ける場所から引き離そうとする発言をする宗教家たち、行動、立ち居振る舞いをする人たちに向けてなされた。でもイエス様は怒って終わるのではなく、悔い改めに導くために語られる、彼らに命を得てほしい、その思いで語られているわけです。ただ自分の思う通りに行かないから、しない人に激しい言葉を浴びせて終わる人とは違う。いや、むしろ罪への怒りで人々を罵るのではなく、私たちの神様に対する罪、それを何と身代わりに背負われ、十字架に架かられ、死なれるというあり得ないことをされた。自分を罵る者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」、と命をかけて懇願されました。神様と和解され、本当の恵みを受けてほしい、と。

 

パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と、怒りは悪魔に機会を与えることになることを語ります。また、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」と、そうした悪魔に機会を与えるのではなく、聖霊様の働きがそこにあふれるように、イエス様の愛を、赦しをいつも覚え、この愛を受けたものとして愛を語る、愛ある振る舞いをする、その中に聖霊様が働かれるんだ、と勧めるわけです。聖霊様の悲しみではなく、イエス様がそうされたように、互いに親切にし、心の優しい人になる…それこそ↑の柔らかいことば、振る舞い、そうした中でイエス様の赦しの力、和解の力が働くのではないのでしょうか。十字架にあって回復された神様の恵みが。

 

サタンに、もしくはそれに与する者、私たちを、誰かを支配し苦しめるものに機会を与えるのではなく、私たちは誰よりも優れたイエス様の愛が働かれる機会を奪わせてはいけない。それこそそれは神様の神殿をむしばんでいた様々な勢力がしていた事と同じ。でもそれをイエス様は追い出されたわけでしょう?ですから、むしろこのイエス様の愛に溢れた日、支配される日、働かれる日となるよう私たちは求めてみませんか?私がああしたい、こうしたし、あの人は間違っている、あの人はダメだ、とかそういうもので支配するのではなく、イエス様の愛、思いが溢れ、変えられる、癒されることを願ってみませんか。もちろん、罪や悪いことをしていても何でもいいよいいよ、ありのままでいいよ、というわけではなく、そのような時はむしろ静かに、でも確かな心をもってイエス様の愛がその人の内に働き、変えられる事を祈る、そのことを忘れてはいけません。

 

昨日も申し上げましたが、私たちは王ではありません。あなたが語る人より自分が優れている、絶対に正しい、なんてとても言えない。そんなことが言えるほど聖人君子でもなければきれいな人生を歩んでいるわけでもない。見くだす言葉や激しいことばで相手を自分の思う通りにする?とんでもない。むしろ王の王なるイエス様がそこに現される愛、その働きが現わされるなら、それはどれだけ素晴らしいことか。

 

むしろ王の王なるイエス様を退けて、罵って、あなたの考えは違う、と退ける、神様に対して自分の思う通りに行かないからと怒るのではなく、柔らかい心と言いますか、遜り、このイエス様の愛が自分の内を支配すること、また周りに現されることを祈るなら、そこにはイエス様の驚くべき知恵・御心が現わされるのではないでしょうか。イエス様のいのちによって和解された内に働かれる素晴らしい神様の御業が溢れ、私たちを変えたように。私たちはいつもここに帰るべきではないのでしょうか。私たちの厳しいことばで支配するのではない、イエス様の柔らかい、究極の愛が覆うことを願い。そしてこの愛をもって仕え。そのあなたの愛が、持っている福音が疲れ果てている、柔らかいことば、いのちを必要としている人に届くならその人の内に確かにあなたの思いではない、神様の憐れみ、力が働かれる。そうなったらどれだけ素晴らしいことか。

 

私たちは今日、神様の御前にへりくだり、まことに優れた神様の御業に期待しようではありませんか。イエス様は「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」と仰られましたが、神様を心から愛する、求める、あなた自身のように隣人を愛する、その中に現される神様の御業は何よりも優れている。私たちはその何よりも優れた神様の御業が現わされることを信じ、ふるまい生きよう。そのあなたを通して誰かがイエス様のいのちを得る、和解、癒しをいただける機会となる。人の業ではない、神様の業が、私たちのためにならイエス様のいのちさえ惜しまなかったそれ程の愛がここに現わされる。穏やかにして力強いこの愛が。

 

「知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。正しい者の家には多くの富がある。悪者の収穫は煩いをもたらす。知恵のある者のくちびるは知識を広める。愚かな者の心はそうではない」。私たちはこの究極の知恵、イエス様の御心を求め、また現すものでありたいですね。悪人と善人、神様から離れてしまった罪人の私たちの内にさえイエス様はいのちの木をそのいのちをもって与えてくださったのですから、私たちはこれを取り、食べ、この愛に生かされ、この愛を現し生きる者でありたいものです。そこに煩いではない神様の富が、知識が溢れることを、いつもこの口に、舌に、思いに、手足に、主の知恵、愛を置いていただき、そこに主の愛の業が溢れる事を信じ。