期待が長引くと…?誰に、何に期待する? | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。良い思慮は好意を生む。裏切り者の行ないは荒い。すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める。悪い使者はわざわいに陥り、忠実な使者は人をいやす。」

箴言13章12-17節

 

希望、いつかはきっとよくなるだろうと信じる灯火、これがある意味で不安などを和らげて意味では前に進む力を与えます。ただその根拠はどこにあるのか、といったら不確定に感じるい方も多いと思います。果たしてうまくいくのか分からないからやっぱり不安に戻って悩む。でも、私たちには大きな希望があるということを忘れてはいけません。あなたを愛してやまない神様が今日もあなたに本物のいのちの内を歩んでほしいと、その御手を伸ばされながら働かれている。叶えてくれる存在がいるか分からないものにのぞみを置くのではなく、確かに生きておられる、今日も働かれておられる神様に信頼しよう。神様は、私たちを救い出すためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。このイエス様にあって神様と結ばれた、それ故に、この希望は失望に終わることはありません。あなたの灯火となって今日もあなたを神様の愛の内に、いのちの内に、神様の完全な計画・御心・知恵の内に招かれる。あなたはこの神様にどれだけ希望を持っているだろうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国で3代目の王であったソロモンに向けて神様が語られた、またそのソロモンを通して私たちに書き残された箴言・神様のことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、神様は希望的観測を語られる方ではないんですよね、そうしたものを与えたいわけでもないんです。そんなものは「知恵」とは言いませんよね。全ての知恵、私たちの生きる道、希望、力、それらすべては神様から来て、あなたを素晴らしく輝かせてくださる。あなたを捨てない神様を捨てずに歩もう、と導かれたわけです。

 

そんな神様はさらにソロモンに、また私たちに向けてなお、「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である」と語り示されます。これは本当になるほど、と思わされますね。期待をもってはいけない、ということではありませんよ?これは。期待を持つことは間違いではないのですが、仕事や人間関係、何においても感じる事かと思いますが、期待してもいつまでも答えてくれないとどうしてだろう、と思い、そしていつまでも答えないことに疲れてしまう。そういう意味で確かに期待が長引くと心が疲れ病む。ただこれを間違えると、どうせ期待しても無駄、あの人に期待しても何にもならない、ととんでもない話になるのです。それはちょっと違いますよね。そもそもあなたは完璧な人なのですか、最初から完璧な人だったのですか?誰かそれでもあなたを導いてくれた人がいて、今ここにいるのでしょう?という話になるわけです。

 

じゃあどうしたらいいのか。明確な答えがここに示されています。「望み」のありかです。それは「いのちの木である」、と示されていますね。いのちの木なんてどこにあるの?それは神様の所にあります。神様の御心をそこに求める中で、その期待は確かなものとなる。私たちが期待している通りのことを超えた神様の知恵・御心がそこに現されるのです。

 

私たちは高ぶってあの人はあれをしない、これをしない、と裁いたりしますが、それ、自分自身の心が病む以上にその人の心を病ませますよ?これ、本当にあっちこっちで見られます。神様の御心だ、愛だ、あなたのことを思っているから言っているんだ、といいながら神様の仰る事とは違う「持論」を押し付けて、期待に応えないとその人を裁いて相手を病ませる。でもそのあなたの持論は本当に正しいのでしょうか?

 

「いのちの木」、これは実はエデンの園に確かにありました。神様がエデンの園に植えられたのです。その時のことについて「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。…あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と語られていました。園の中央、というのはこの箇所の分かち合いを何度かさせていただいた時に申し上げましたが、それは神様のおられる場所、神様の主権です。だからその主権を侵害してはいけない、というよりも神様がその良いいのちの木から実を与えてくださる、だから主権を犯す必要はないんだよ、と仰られていたわけですね。

 

神様はその神様の園のどの木からも取って食べていいと仰られています。ただ神様がダメだよ、と仰るものからは取って食べてはいけないと語られました。ある意味では自分で善悪を判断して、これは言い、これはダメとするのではなく、神様が与えてくださるものは私たちを生かすから、わざわざ他のものを取らなくても大丈夫。神様のくださるものに全てがあるんだよ、と仰られたわけですね。神様の主権を否定してあなたが、誰かが病んで死ぬ事を悲しまれたのです。実際エヴァはサタンに騙されたとはいえ、それを取って食べ、アダムに与え、二人に死が入ってきた。サタンの声と神様の声、真逆なのに自分に都合の方を選んでしまった結果、彼らに罪が入ってきて霊的に神様の恵みを失った、死んだ状態となったわけです。ソロモンもだんだん他の国々の実にあこがれをもって、神様から離れていってしまった結果、神様の国としての祝福を失ってしまいましたね。

 

私たちは神様のくださるもの、御心、知恵は何の役にも立たない、自分の考えの方が正しい、とか思っていませんか?それはある意味では人の自由と言えば自由ですが、しかしそれで病んでしまっては悲しいじゃないですか。神様はあなたに生きてほしい、命を得てほしい、いのちある歩みをしてほしいんだ、とすべての良いものを与えてくださっているはずです。この神様のくださる希望、望みの内にこそ私たちのいのちがある。神様が働かれる中で命ある日々をもたらして下さるのです。とこしえに。あなたはこの神様にどれだけの希望を持っているでしょうか。

 

「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる」とさらに↑で語られていますが、まさにこのみことばには力がある。神様は希望的観測を語り、心を病ませるようなことはさせない。神様は確かにかたられたことばをむなしく帰ってこさせることなく、それを必ず成し遂げてくださります。いるのかいないのか分からない存在ではなく、この天地万物を創られ、またあなたをつくられいのちを与えられ、生まれる前から今日まで確かに養い導いてこられた神様があなたを支えておられるのです。

 

私たちが当たり前のこと、と考えてその背後で働かれている神様に気づいていないだけで、神様は愛するわが子であるあなたにいきてほしい、望みではなく神様から引き離そうとする者たちや、偽神、希望的観測によって報いを失うのではなく、神様のいのちをうしなっていくのではなく、あなたにいのちをもたらしたいと日々、あなたに語りかけています聖書を通して、また祈りの中で、また誰かを通して。また時には直接的に働きかけて下さったりすることもあるでしょう、聖書の時代のように。驚くべきことを神様は見せてくださるかもしれない。ただ、この神様のことばをどれだけ知識的に知っていても、聞いたことがあっても、これを受け入れなければ意味がない。神様は御言葉はいのちのパンなんだよ、と教えてくださりましたが、パンなだけに、食べなければ意味がないのです。これを受け入れなければあなたの内にいのちの泉は、水は入っていかない。これを受け取る時、私たちの内、腹の底からその神様のいのちの水、聖霊様がみちあふれるのです。まさに私たちが生きるすべて、希望は神様が与えてくださる、それをあなたは受け取っていますか?

 

「良い思慮は好意を生む。裏切り者の行ないは荒い」、とありますが、「裏切り者」ということばは「真実ではない者」という意味を持っているようです。私たちはそうではなく真実な神様を思っていますか?希望を持っていますか?そこから神様の好意、と言いますか、神様の愛があなたに注がれる、あなたの周りに広がっていく。決して裏切ることのない神様が。何と感謝なことでしょう。

 

パウロは「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです」と語りましたが、私たちは神様を諦めず、今日、この瞬間神様を求めましょう。神様の思慮、思い、愛が、好意がここに現わされることを。神様は遅れることはありません。というよりも「今日」も働かれている。「きょう」は良いよ、別に、と言わず、自分さえよければいいとも言わず、あなたのうちに、またあなたの周りに苦しみ悩んでいる人がいるならそこに神様の希望を届けましょう、祈りましょう。そこに神様の愛が溢れたら、すばらしいじゃないですか。

 

あなたの神様を求める思慮、祈りは確かに力になります。神様の愛を現すその行動を通して主は確かに働かれるのです。希望を神様に持つ、それは希望的観測ではなく神様が確かに働かれるその御業に身を委ねる、信じる、その中に現される。神様が希望に変えてくださるのです。「すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める。悪い使者はわざわいに陥り、忠実な使者は人をいやす」とあるように。

 

神様は私たちに本当の意味での希望、いのち、癒しをもたらすために、その究極の知恵をもって、何の罪もない御子イエス様に私たちの思い煩いも、痛みも、罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせることを決断されました。本来神様から離れ好き勝手に生きて、神様から捨てられてもおかしくない、希望を失い死にゆくだけの私たちに生きてほしい、とその愛をこの十字架上で示され、これを実行されました。そして3日目にイエス様をよみがえらせてくださったことによって、これらすべてに勝利された。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として受け入れてくださるのです。ここに確かな希望があるのです。このイエス様の十字架によって結ばれた関係の中に全てがあるのです。このイエス様にあって私たちは保証されているのです。

 

今日あなたは誰に希望を持っていますか?心を病んでいますか?疲れ果てていますか?イエス様を求めて良いんです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とイエス様は招いて下さっているのですから。何より私たちはとこしえに変わらない希望、心を病ませるのではなく元気、いのちをもたらして下さるイエス様、命をかけてでもその約束を果たされたイエス様に今日希望を抱き、また語る者であろう、求める者であろう。ここに主の癒しが、いのちが豊かに溢れ広がることを願い。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。今日もこの神様の愛があなたと共にありますように。