「富んでいるように見せかけ、何も持たない者がいる。貧しいように見せかけ、多くの財産を持つ者がいる。富はその人のいのちの身代金である。しかし貧しい者は叱責を聞かない。正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。」
箴言13:7-11節
私たちは様々なもので着飾ろうとします。もちろんファッションは言うまでもないでしょうけど、知識やプライド、自分をよく見せようとします。もちろん何かを勉強したりする努力をすることは良いことだと思います。が、私たちは同時に忘れてはいけないのは、それらが絶対になければ認められないとか、そういうわけではありません。あなたは神様の大切な子、わが子と呼んで下さり、愛されている存在。神様は我が子にご自身の良いものを与えてくださっているし、今日も注がれている、神様ご自身があなたを覆ってあなたの日々を良くしたいとその思いが向けられている、私たちはこの神様の御心、といいますか心を受け取ろう。神様はあなたを愛し救うためにと、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えられた、それほどの愛が今日あなたにも注がれている。この内に神様の富がある。あなたはこの愛を、富をいただいていますか?富と思って生きていますか?
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向け神様が語られ示された、またそのソロモンを通して私たちに書き残された箴言・神様のことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、その知識・知恵はこの世レベルのものではない、この天地万物を創られ今も保持されている、またあなたをつくられいのちを与え、今日も導いておられるその神様が注がれているんですよね。知恵、まさに「神様の恵み」が。どうでもいいものをあなたに与えたいのではない、神様の恵みをあなたに与えたい。こんな素晴らしいものを蔑んだり捨てたりするなんてもったいない。神様が今日も着飾らせてくださっている恵みを忘れてはいけませんね。
そんな神様はさらにソロモン、また私たちに向けてなお、「富んでいるように見せかけ、何も持たない者がいる。貧しいように見せかけ、多くの財産を持つ者がいる」と示されます。これは本当に大切なことを示されています。前者後者に共通しているのですが、自分の内に何があるのか、何が与えられているのか、これを知らなければいけません。どれだけ富んでいるように見えても、自分の内側が満たされていなければ次々に別なものを求めていき、際限がありません。そして自分を満たそうと、様々なものを求め、ある意味で本来のあなたという人を失ってしまう。自分が何ものなのかを見失ってしまう。
別にお金を持っていることを否定するわけではないのですが、それを正しく使わなければ、お金にとらわれてお金の奴隷になって生きる、それ、すごいもったいない事ですよね。それこそまさに、まあこれを言われたら腹立つと言われるかもしれませんが、貧しい。それはお金だけではありませんよ?自分を富んでいるように見せるために追い求める成功やら名誉やら、そうしたものも、それだけを追い求めていては結局のところ、あなたに与えられているいのちを貧しくしてしまう。人からほめられて終わり、まあそれでいいという人もいるかもしれませんが、でも本当に与えられている、与えようとされているはずの良いものを見失う可能性があります。
そう、見えてきたでしょうかね。私たちを本当に富ませるのは何なのか?それが大事であり、それは神様なのです。そもそも神様以上に富んだ方はいない。あらゆる面で。お金や物だけではありませんよ?あなたのいのちだって、日々だって、経験だって、みんなそう、全ては神様から来ていて、神様が与えてくださったんです。私たちのいのちは神様から与えられて、神様の創られたこの世界に住まわせて下さっているんです。そしてこの神様が私たちを養い支えてくださっている。その中で与えられているものはどれだけ素晴らしいことか。神様が与えてくださっているからこそすべては素晴らしいのです。
逆に言えば、あなたが与えられているものは決して小さくはありません。なんで自分はこんなものしかないんだ、と思うことがあるかもしれませんが、しかし神様から与えられているものの大きさを過小評価するのはもったいないです。神様が与えて下さった命なのですから、神様が働かれて富ませてくださる、それはこの世の価値では測れない。だって神様があなたの内に知恵・御心を働かせて益としてくださっているんですよ?
この世の価値に照らし合わせああ足りない、もっともっとと追い求め、それらにあなたを支配させてはいけません。足りないと思う思いに、またこの世の富を見せて神様は何もあなたに良いものを与えないじゃないかと惑わす声、サタンの声に負けて支配させてはいけません。この世の支配者はサタンではない、すべてを創られ、あなたを愛してやまない神様、この神様があなたを養ってくださっている。この神様があなたを貧しくとも豊かだと言わせてくださるほどに良いもので満たして下さるのです。
この神様を忘れて神様の富、いのち、御心、恵み…神様のくださる良いものを失って貧しくなるのではなく、自分には何もないけどこの神様の恵みで満たして下さい、と遜る中で、確かに神様の豊かさで私たちは富むものとされるのです。神様が「多くの財産」をあなたに与えてくださっている。なんと素晴らしいことでしょう。神様の財産ですよ?神様のもとにある全てですよ?この世界を創られた神様、あなたに惜しむことなく与える神様が与えてくださる財産ですよ?本来神様から離れて受け取るに値しないはずの私たちに、御子イエス様のいのちをもってでもあなたに与えようとしてくださったこの財産、それはどれだけ富んだものか。それに勝るものがどこにある、誰にあると言えるのでしょう。
イエス様は「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」と教えられました。
倉に納めさえしない鳥さえ心配し養う神様、そこまでその思いを届け、御手を伸ばされ養う神様。その神様の思いが届かない人がどこにいるでしょう。まあ誰かが横取りしたり邪魔をしてしまったり、それを届ける、助けるように神様から示されながらしないために「人の手で」止められてしまうことがあるのが非常に残念ですが。ただその人は別なところで何かを失っている。神様の恵みを失っていることは間違いない。ただ神様はあなたのいのちを心配してあらゆることをもって養おうとしてくださっている。この世の何ものもあなたのいのちを伸ばすことはできなくとも、神様の富んだ日々があなたに注がれる。この箴言を書き残しているソロモン、富の象徴とまで言われるソロモンさえ野のゆりほどさえ、神様なしには豊かになることはできなかった。
それでも信仰の弱い私たちを心配されその御手を伸ばされている。神様の内に全てがある、富はあるんだよ、と招いて下さっているのです。その神様を求めていいのです。この世のレベルの中にではない、御国を与えられる、御国に、神様の治めてくださっている、神様の富の中に住まわせようと招いて下さっているのですから。神様がまず神様を求めていい、と仰られている。こんな小さな、神様から離れ好き勝手に生きる私たちに。他のいつかは終わる虚しいものではない、魅力的に見えて、富んでいるものに見えて何もあなたの魂を満たすことのできない無責任なものではなく、愛するわが子に責任感をもって養う神様が与えてくださるものを。神様は求めれば与えてくださると約束されている、ならどうしてこの神様を求めずにいられましょう。
「富はその人のいのちの身代金である。しかし貧しい者は叱責を聞かない」、ある意味ではまさに身の代金と富はなる。良くも悪くも、あなたのいのちに影響を与える。じゃあ誰の、何の影響を受けたいですか?求めますか?神様はあなたのいのちを保証するため、取り戻すため、御子イエス様のいのちを身代金とされ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。神様から離れ、神様からの富を失ってしまい、貧しくなってしまった、死にゆく私たちを救うために、私たちに重くのしかかっている思い煩いも、痛みも、何より罪も、一切身代わりにイエス様に背負わせ、十字架上で罰し死なせたのです。それはあなたを愛するが故です。しかし3日目にイエス様をよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に「叱責を聞く」といいますか、罪を知り悔い改め立ち返る時、私たちは富むものとされる。神様の子とされる、新しいいのちが与えられ、この内に聖霊様が豊かに働かれ、いのちに富んだものとされる。イエス様のいのちによって買い戻されたという素晴らしいいのちに。このイエス様ゆえに私たちの今日は、この日々は、いのちは保証されている。魂の底にいたるまで神様の愛が注がれる、神様の知恵・富・御心があなたを覆い、本当の意味で富んだものとしてくださるのです。
「正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す」。イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」とも語られましたが、このイエス様が十字架でいのちを投げ出し私たちを救ってくださったからこそ、私たちの内に神様の光が輝いている。この光に闇は打ち勝つことはできません。このイエス様が照らして下さる道、日々、このいのちの内を、もうイエス様から離れることなく歩ませていただこうではありませんか。主の前に高ぶって争うのでもなく、誰かに高ぶって争うのではなく、知恵・神様の愛をもって仕える者であろうではありませんか。そこに神様の御心が溢れ、いのちが溢れる、そこは本当の意味で富んだもの、場所、関係に神様がしてくださるから。このイエス様の愛があなたの日々に、遣わされている場所にも溢れたらどれだけ素晴らしいか。このイエス様に従い行く中で増し加えられる神様の富、豊かな御心が、いのちが溢れ流れる事を祈りつつ、今日も歩もうではありませんか。
