正直者は祝福を見る | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。人はその口の実によって良いものを食べ、裏切り者は暴虐を食べる。自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。正しい者は偽りのことばを憎む。悪者は悪臭を放ちながら恥ずべきふるまいをする。正義は潔白な生き方を保ち、悪は罪人を滅ぼす。」

箴言13章1-6節

 

正直者は馬鹿を見る、なんて言葉があります。正直に何かを守っていても何も言い目を見ずに、かえって守らない人が得している「ように見える」状況、確かにありますね。じゃあ、自分の好きなように生きればいいの?それは本当にそうした人たちが考える得する歩みと言えるのか、と言えばそうではないですよね。得、得るというよりも失うことの方が多い。そのリスクもそうですけど、何より神様があなたに与えたいと思っている恵みの日々を失ってしまう。何に正直に生きるか、これはそういう意味で本当に考えさせられますね。神様に正直に生きる、その時どれだけの祝福が溢れるでしょう。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えられたこの神様があなたに与えるもの、注がれる恵みをあなたは得ていますか?いただいていますか?神様があなたをイエス様のいのちゆえに保証され、守られている、守られたこの命をどこまでも歩み続けよう。ここに確かに主の祝福が注がれているから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された、またそのソロモンを通して私たちに書き残した箴言・神様のことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、神様は知識・知恵をもってわが子、私たちにその御心を現そうしてくださっているんですよね。わが子の幸せを願う親のように、神様は私たちに幸せを得てほしい、と私たちを捨てず、愚か者ではなく、神様の子としての幸せ者にしようとその御心を現して下さっている、だからその初め、源なる神様にへりくだろう、と招いて下さっているわけですね。

 

そんな神様はさらにソロモン、また彼を通してさらに私たちに向けてなお、「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない」と示されます。もちろん、お父さんの言うことだけを聞いていればいい、というわけではありませんよ?十戒の中にも、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」とある通り、母親も敬う、両親を敬う中で、私たちの齢が長くなる、と神様が約束されているのですから。そこに祝福を約束されている。神様の与える日々が長いって幸せなことですよね。

 

もちろん現代においては両親を敬うなんて難しいご家庭が多いのが残念なところです。いや、正確にはですよ?親になったことがある方なら特に実感する事かと思いますが、自分が敬ってもらえるほど完璧な親ではない、そんなに親はいないんですいよね。人もそうでしょう?誰かに敬われたい、と思っても敬われるほど自分はできていない。ただ、そこで大事なのはそこに父なる神様を求めるかどうか。私たちにいのちを与えてくださった、つくり主なる神様、父なる神様の訓戒を聞き、求め、従うか、そこにあるわけですね。本当に知恵のある人は、この箴言でずっと見てきたように知恵の源なる神様に答えがある事を知り、求める。自分に知恵も何もないことを知り、遜る時、そこには神様の知恵が、御心が現わされる、御力が働かれ、変えられるのです。私たちが神様より優れている、正しいと思い、神様を敬わない、聞かず従わないうちは、本当の神様の恵み、祝福は受け取れない。どんな場面にあろうと、神様の知恵を求める、神様をあざけるのではなく、聞き従う者でありたいですね。そこに人の思いが支配するのではなく、神様の愛が溢れ、癒され、変えられる事を願い。

 

さらに神様は「人はその口の実によって良いものを食べ、裏切り者は暴虐を食べる。自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る」と、ソロモン、そして私たちに示されます。

 

これは口から語る言葉によって良い実を食べることもできるし、逆に嘘や、それこそ裏切りを語ることによって残念な結果、悲しい結果をもたらすことが示されていますね。そういう意味では何を語るのか、これが重要になります。それは先程の父の訓戒の話にも共通したことで、こう書いてあるから両親は好き放題に行っていい、していいとか、そんな無茶苦茶な理屈ではありません。両親はその子を神様から授かったのですから、その責任も問われる。子どもに何を語るか、それがその家庭に影響を及ぼします。もちろん先ほどの家庭の話だけではなく、あなたの職場だったり、誰かとの関係だってそうです。どうせなら良い実を見る、食べたいですよね。

 

私たちはその「良いものを」もたらして下さる、食べさせてくださる方がいるということも忘れてはいけません。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と教えられました。これは神様もかつてのイスラエルの民に語られていた言葉でもあるのですが、神様は私たちを生かすことばをその口から発せられ、それを実現されます。この世界も神様のことばによってできましたし、神様は語られた言葉を実現させ、虚しく帰ってこさせることはありません。良いものを食べさせてくださる、良い実を得させてくださるのです。私たちが生きることを神様はなして下さるのです。

 

かつてイザヤという人を通して神様は「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」と約束されていましたね。

 

私たちが神様にはできない、と諦めることばを発して他の何者かを求めることばをはっするのではない、神様を求めるなら神様は答えて下さる。「求め続けなさい。そうすれば与えられます」と約束された通り、その中で神様の答えを見出し、閉ざされた扉は開かれる。神様が開いて下さる、神様がなして下さる答えは私たちが想像する者、成し得る者とは全然違う。あなたを苦しめる状況などを打ち破り、神様の知恵・御心がそこに現され、天からの恵み、食べ、実、パンを食べさせてくださる、私たちが生きることができるようにしてくださるのです。元気を与え、励まし、またそこに神様の驚くべきわざを神様が成し遂げてくださる。

 

だから↑、私たちは神様を求める、諦める言葉ではなく求めるんです。自分の思いでは無理だから、と別なものを求めるのではなく、「神様にとって不可能なことは一つもありません」、と約束されたその言葉を信じて神様の計画を待ち望む、その時、人の計画をはるかに超えた神様の偉大な御心が、知恵がそこに現されるのです。

 

神様はあなたの一つ一つに、人には不可能だと思う中に神様の良いことを成そうとしてくださっているのです。それなのに、これは個別な事案として神様を求めずに自分の思いやあの人がこう言っているから、ということを優先させていませんか?その人が神様より上にくることがあるなら、神様と逆なことを言っているなら、その時は要注意。自分に都合のいいことを選び取って食べるのではなく、あなたにいのちをもたらす良いものを食べる、神様の約束を信じ待ち望みたいものです。「神様の口から出る一つ一つのことばに」よって私たちは今日生かされているのですから。神様以上の父はいない。あなたにいのちを与え、日々養ってくださっている完全なる神様、父なる神様の愛が、御手が今日もあなたと共にあるのだから。

 

「なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。正しい者は偽りのことばを憎む。悪者は悪臭を放ちながら恥ずべきふるまいをする。正義は潔白な生き方を保ち、悪は罪人を滅ぼす」私たちは神様を求めることに勤勉でありたい。その中になまけるどころか勤勉なる神様があなたの心を、あなたの状況を、あなたのゆく道を満たされるから。私たちは偽りのことば、なんとなく耳に良いことばに聞こえるものを選び取る、自分に都合のいいことばを選び取るのではなく、一見いいことを言っているようでその裏で悪臭を放っているのに気づかないで選び取るのではなく、神様の御ことばを、約束を選び取ろう。神様に従う、正直になると馬鹿を見る、なんて考える人もいますが、そうではありません。神様はそのあなたに祝福をもたらす、ここまで見てきたように良い実を食べさせてくださる、生かして下さるものを与えてくださっているのです。

 

人はもちろん潔白な生き方なんてできません。だから様々な苦労があります。しかしだからこそ、私たちは神様が必要なんです。私たちの傷ついた心や汚されてしまったもの、それらを癒し、また聖めてくださる神様が必要なんです。神様はこれだけの愛を注がれているのに離れていってしまう、そんな私たちを見捨てず、むしろ私たちのこれらの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。普通に考えたらあり得ない話です。なぜ潔白なるイエス様にそこまでさせる必要があったのか。それはあなたを保つため、神様の聖さで、義で覆い、本当の命に生きてほしい、神様の恵みの中生きてほしい、その神様の思いゆえなのです。義である神様は罪を罰せずにはいられない、でも同時に愛なる神様はあなたを見捨てられないゆえに、その義を現すべく、御子イエス様にその罰を負わせ、あなたを取り戻されたのです。それほどにあなたを神様は愛してくださっているのです。

 

これだけ愛された神様を今日私たちはどれだけ信頼し、また求めているでしょうか。他の偽神などと並べて自分の都合に合うものを選ぼうとしていませんか?私たちは神様に正直に生きる、求める者であろう。この神様が、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった方があなたに与えてくださる祝福、いのちは他の何にも比べることはできない。一体だれが罪人のために何の罪のない方がいのちを身代わりに差し出せるというのでしょう。そこまでされた方があなたに与えてくださるよい食べ物がどうして自分にとって悪いと言えるでしょう。私たちはこのイエス様と共に歩む生涯を堅く保つ、いや支えていただきながらただ純粋にこのイエス様を求め続け歩みたいものです。その中にイエス様がその身を割くのと共に与えてくださるすべての恵みを感謝し、頂き、これに生かされ歩もうではありませんか。何もせずになまける何かを求めるのではなく、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどにその愛を注ぎ続ける方が今日もあなたと共におられるのだから。その勤勉なる愛に、私たちも勤勉に求め続けよう。イエス様の十字架にあって結ばれたいのちの関係の中に。