「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す。悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。人はその思慮深さによってほめられ、心のねじけた者はさげすまれる。身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。」
箴言12章5-11節
人には優しく…これはどこか私たちの内側にある思いと言いますか、実行はできなくてもどこかに秘めているものだと思います。まあどういうわけか世の中何とかしてお金をだまし取ってかせいでやろうとか、逆の方向の事をしようとする人がいますが。みなさんは後者ではないと信じます。ただ、誰しもがそんな成人君主と言われるほどに優しくなんてなれない。ただ、神様があなたの心を守られ、またあなたの周りに神様の御心がなることを願うなら、神様のご計画がそこになる。神様のやさしさと言いますか、神様の愛と言いますか。神様の願うところは、全ての人が御子イエス様の救いを信じ受け取って永遠のいのちを得る事。そうして神様の愛に溢れたならこの世界はどれだけ素晴らしくなるか。神様のあなたへの愛、優しさが、イエス様の十字架に現され、そこから今日もあなたにその愛が流れている。この愛を受けた私たちは今日、何を願い、どう生きるだろうか。
さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示されたもの、そしてその彼を通して私たちに訴えかける神様のことば・箴言・知恵のことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたね。両親は子を思う愛、優しさゆえに、子どもにその訓戒、正しいこと、間違っていることを語りますよね。愛しているから、優しさから何でもかんでも、いいよいいよとは言わず、子が幸せになって生きる事を願って育てると思います。神様も、ご自身がつくられたわが子、私たちへの愛、優しさゆえに、私たちに本物の知恵・その御心を現し養ってくださり育て、導かれる。そんな父なる神様がおられる、頼っていい、何と感謝なことでしょう。
そんな優しい天の父なる神様は、さらに「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す」とソロモンに示し、またソロモンもこれを書き残します。
これはある意味で当たり前のことと言えば当たり前の事なのですが、たぶんどこかで心のストッパーがかかって悪いことを計画をすることに躊躇するものです。そんな心を与えてくださっている神様、心を守ってくださっている神様がおられるということを忘れてはいけませんね。そもそも、みなさん体感的にわかるかと思いますが、どんなに隠れて悪いことを計画していようともいつかは明るみに出ます。見ている人は見ている。皆さん安心してください、悪いことをどんなに企む者がいても、神様が見ておられる。神様がそれを打ち砕いてくださります。
かつてヨブという人がいたのですが、彼はサタンの目論見によって家族を奪われ(殺され)、財産も失い、さらに健康まで奪われてしまいました。最初はそれでも神様を信じてこれらは神様から与えられたものだから、と神様にそれでも委ねていたのですが、彼を見舞いに来た自称友人たちは彼を最初慰めていたのですが、だんだん彼が罪を犯したから悪いんだ、と追い詰めていきます。彼の正しさは神様がよくご存じだった、でも彼らはヨブが悪い、とひたすら持論を展開。自分たちの正しいと思う知識で追い込み、ヨブを慰めるはずの計画をもっていたはずが、気が付いたら彼を追い込んでいく事となったのです。しかし神様が、神様のすばらしさを知る別な人を遣わして、彼を通して彼の心を整え、最後は神様ご自身が彼の内に現れ、ご自身の思いを語られました。そしてサタンの悪の計画も、自称友人たちの自分が正しいという知識も超えて、神様が勝利されることを知り、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を」と告白するのでした。その後神様は彼の健康を回復させ、新たな子供たちを与え、幸せに彼はその後贈るのでした。神様が計画された、神様の愛、優しさに溢れた生涯を。
同じように王から、いわれのない嫉妬によって命を狙われたり、多くの国々から攻撃を受けたり、息子からクーデターを起こされたり、と様々な苦労にありながらも神様に従うことを計画・選んだダビデ王は「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」と、告白的に詩を残します。結局神様がその口から語られること、ご計画を必ず成し遂げ、これを崩すことはできない。どんな人が、世の中がはかりごとを建てようとも神様がそれを無効にし、虚しくされる。でも神様のご計画は代々にいたり、虚しいのではない、いのちに満ち溢れたものとされるのです。
「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す」という↑のことば、本当に正しい人は神様の事、神様の計画は公正、正しい愛・優しさをもって、誰かを欺くのではなくいのちをもたらし、あなたを救い出す。私たちはこの神様の計画をどこまでも求めよう。言い方が変かもしれませんが、神様を信じる計画をもとう。そのあなたの思いに神様は答えてくださる。神様の知恵・御心・ご計画がこの地に現され、そこは神様のものとなる。神様の愛に満ち溢れる。
あなたはどれだけ神様に期待していますか?箴言の中の他の箇所では「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。…人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」と神様はソロモンに示されているのですが、あなたはこれを信じますか?「悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける」。あなたはいつかは覆され、いなくなる、なくなるものに心を置くか?それともいつまでも立ち続け、あなたを守られる神様に身を、心を置くか、あなたはどちらでしょう。悪者の計画、これらを覆し、打ち砕き、新しくしてくださる神様にどこまでも信頼しようではありませんか。
さらに↑で神様は「人はその思慮深さによってほめられ、心のねじけた者はさげすまれる」と示されていますね。これもまさにその通り。思慮深く、考えすぎ、と言われることがあるかもしれませんが、その深さをどこに掘り下げていくのか、表面的な事?それは深さとは言えない。多分思慮するということはもっと奥にある大切なことを考えるのでしょう。
でも、私たちはもっと大切なことを忘れてはいけない。表面的な世の中のことば、流れにとらわれるのではなく、もっと深いところで、見えないようで確かに働かれている神様、その神様が、先ほど見たようにどんな計画をもっておられるのか、何を成そうとしているのか、その御心はどこにあるのか、そこに思いをはせる事、それこそが本当の思慮深さです。あの人がどうだとか、時代がどうだとか、そういうことによって物事を判断するのではなく、神様がこう仰られているなら、神様のご計画がそこにあるのではないか、と祈る。
表面上は神様を求めていても、心を捻じ曲げて、いやいやこれは時代に合わない、この状況、あの人には当てはまらない、なんてどうしていえるでしょう。あなたは神様の何を知っていて神様よりも優れているとでもいうのでしょうか。これ、クリスチャンでもやらかす。優しさから言っているんだ、愛しているから、思っているから言っているんだ、と神様のご計画、思慮深いと言いますか、人には計り知れない御心、ご計画、やさしさ、思い…そうした神様の思いが確かにあるのです。それを人の手で捻じ曲げてはいけない。むしろ困っている、彷徨っている、罪を犯している方がいるなら、一緒に神様の御もとに帰って神様の助けを求める、神様によってすべてが癒され、変えられていく、それを一緒に見ていく事も優しさではないか。間違った道、計画、もしくは疲れどうにもならなくなっている、そんな人を神様はそれでも神様は癒し、慰め、またその道を回復させてくださるのではないか。
イエス様も人となってお生まれになった時、多くの人を癒し、慰め、励まし、それだけではなく時に厳しいことも訴えられました。それは私たちがいなくなってほしくない、生きてほしい、その愛・優しさゆえのこと。そして本物の神様の恵みの内に、いのちの内に生きてほしい、その思いからのことです。神様が本来私たちもっておられる最高の計画、いのちの内に生きてほしい、その愛、優しさからイエス様は行動される。そしてその私たちを取り戻すため、私たちのこの思い煩いや痛み、罪、一切を身代わりに御子イエス様に神様は背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目にイエス様をよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。いない存在ではない、神様の子としてくださる。新しくしてくださるのです。このイエス様の十字架にあって神様の愛・優しさゆえのご計画、御心があなたの内に今日も注がれ、現わされるのです。
「身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける」と↑に神様は示されていますが、本来私たちは神様の御前に高ぶることなどありえない、しかし、罪の中にいる私たち、もう見捨てられてもおかしくない低い私たちのために、神の御子イエス様が身を低くされてまででもあなたを乏しいものからいのちをもつものに、豊かなものに、神様の愛、いのちが溢れるものに変えてくださった、あなたのいのちに気を配られた。誰からも見向きもされないような私たちにさえ、神様は目を留め、その愛を、その御業を、その優しさを、ご計画を現そうとしてくださったのです。残忍に見捨てるのではなく、そのまま罪のままいても大丈夫、ではなく、本物のいのちを得て!という厳しくも優しさをもって。
神様の畑からは良い収穫物が取れる。涙と共に種を蒔いても、喜びとともに両手で抱えるほどの収穫を得させてくださるほどに神様のもとには良いものが溢れている。神様は愛するわが子に良いものを与えないことなどないのです。神様の良いものが今日も神様から溢れている。いつかはなくなるものではない、栄養に満たされた、神様の喜びで心もからだも満たそうと神様は今日もその御手を伸ばされている。私たちは神様なんて、と思慮に欠ける言葉に惑わされることなく、あなたのためにその身を十字架にかけ、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と命がけで赦しを懇願し、何も知らない私たちに神様の完全な愛、ご計画を知らせてくださったこのイエス様を覚えよう。主はこの十字架によってあなたにむなしいものではなく、神様の子とされるという最高の特権を与え、今日もその愛を注ぎ続けているから。あなたはこの十字架に現された神様の本物のやさしさを受け取っていますか?永遠のいのちを得てほしい、というあなたへの願いから御子イエス様のいのちを惜しまなかった優しい父なる神様の愛を。
