―あなたの全てが美しい― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、あなたの歯は、洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。あなたのくちびるは紅の糸。あなたの口は愛らしい。あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。その上には千の盾が掛けられていて、みな勇士の丸い小盾だ。あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」

雅歌4章1-7節

 

日本ですと、なかなか相手の人をほめる、どこどこが素敵だ、と伝えるのが苦手、とする人もいますが、これをストレートに表現できる人もまたいます。美しい、愛している…と。でもそれってその人を良く見ているから、どこどこが素敵だとか、そういう言葉が出るのでしょう。そしてその思いがその人の内にあるから。神様は私たちのことをよく知っています。神様は私たちの事をよく見て知って、思ってくださり、愛してくださっている。そんな大切なあなただからこそ、あなたが失われることを悲しまれるゆえに、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてまで、本来の最高の姿を取り戻させてくださったのです。私たちはこのイエス様にあって結ばれた、究極の愛、受け取っていますか?この愛に生きていますか?

 

さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王であったソロモンが歌ったとされる、歌、多くの歌の中の最高傑作・雅歌の続きになります。ただ、詩人だけが歌ったというよりも詩人の歌と神様の応答的な歌が織り交ざったものとなっています。ここまでは、詩人は世で見る偽りの愛や関係ではなく、本物の愛を求め神様に心を向け歌ってきました。一方で神様は神様を求める人を喜んで、口づけをもって受け入れ、その喜びで満ち溢れさせてくださる、神様がご自身のもとに大切な我が子・私たちを引き寄せて宝石のようにご自身の恵みで輝かせ、建て上げてくださる、と歌ってこられました。そんな神様はたとえ目に留めてもらえないような場所に咲いている私たちでさえも着飾らせて下さり、その大樹の陰に休ませ、また潤して下さる、そんな関係に神様ご自身が招いて下さっている、冬を終わらせ新しい季節、いのちを迎えさせてくださる神様が山や海を越えて今あなたの所にその愛を示そうと来てくださっているわけです。

 

そして↑の前から婚姻の時を迎えたわけですが、荒野に神様は花嫁なるあなたを迎えにイエス様を遣わされ、その上ってくる様を見て喜びました。そして↑で、「花婿」イエス様が、「花嫁」とされる私たちの容姿の美しさをたたえます。びっくりですよね。聖書の中で、人が神様をほめたたえる言葉は山ほどありますが、イエス様が私たちの容姿を美しい、と言ってくださるのですから。聖書の中の他の箇所で「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」ということばが有名ですが神様は曖昧に愛しているとかそういうことをいうだけなのではなく、私たちの全てを知っておられ、見ておられ、なお愛してくださっている

 

そんな中で花婿は「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ」と花嫁をたたえます。何やら人がワインをていすとした後に表現するような詩的な表現になっていますが、花婿イエス様はそれほどに「わが愛する者」として私たちを見てくださっている。

 

それでまず目について、「顔おおいのうしろの鳩のようだ」と。ちなみに、この顔おおいというのは、花嫁のしているところから想像がつくかと思いますが、これはウェディングヴェールのことです。そのうしろの鳩のよう鳩は私たちの目は鳩のようだという表現が1章でありましたが、ただ平和とか、美しさ、清らかさとかそういう意味だけではなく、聖霊様をも意味することをその時お伝えしましたが、そうすると、この神様がどんな風に私たちを見てくださっているのか、思いますね。三位一体なる神様、その聖霊様を見るかのように私たちを美しい、と言ってくださるなんて、本当に素晴らしいですね。

 

私たちは聖霊様ではありませんから何とも言えない所ではあるのですが、ただ一つ言えることは、私たちはイエス様の似姿に変えられていくということです。美しくしていただける、ということです。パウロはコリントという教会に向けて「…しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と手紙で書き送ります。私たちの覆いをイエス様が取り除いて下さり、そこに自由に働かれる聖霊様のお働きによって、私たちはイエス様の似姿に変えられていくわけですね。そう、そのウェディングヴェールをあげてくださる花婿イエス様によってもちろん私たちは不完全です。弱さもあります、しかしそうした中で神様が働かれ、癒され、また罪も取り除かれていく…ただ花嫁として迎え入れられる時に美しく着飾らせてくださる、というより、今、その聖霊様による美しい関係がここにあるわけですね。そう私たちをしたい、その思いをイエス様は歌ってくださっているわけです。そしてこの覆いが完全に取り除かれる日をイエス様は待ち望まれているわけです。

 

さらに「あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、あなたの歯は、洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない」花婿イエス様はたたえてくださっています。これはどういうことなのかといいますと、やぎは黒やぎを指しているようで、ギルアデの山はヨルダン川の渓谷から1000mも高い所にある、そこから黒やぎが群れを成して降りてくる姿を想像するとなんと美しく勇ましいことでしょう。ある意味抜け毛と言いますか、途切れる心配もない光景に感じませんか?

 

同時に、の髪というのは力の源を意味します。有名なところでは、サムソンとデリラの話を思い出すとわかりやすいかもしれませんが、サムソンは神様に誓いを立てた(正確には両親が、ですが)ナジル人で、髪を切らない間は神様の御力を受けていましたまあすべての髪がそう、というわけではないのですが、神様がその御力が現わされる、その美しい様子がたとえとして言われているわけですね。他にも「女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです」と、パウロが手紙で書き送っているように、服従という意味もあります。イエス様も人となって仕えその愛を現された、その愛を私たちも謙遜に服従・遜る時、そこにイエス様の御力と愛、それが私たちの間に織り込まれ美しさを放つわけですね。

 

もう一つ一つ取りあげるだけでいかにイエス様が私たち花嫁を思ってくださっているか、見えてきますが、次のですが、羊が毛を刈られる前に洗ってもらう、その羊は白くきれいにされます。それが汚れたところのない歯と比喩されているのでしょうね。

 

ところで聖書の中に「あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です」とあります。見えてきましたね、神様はそのみことばを与え、食べ、養い、成熟した関係を私たちと持ちたい、いのちに溢れた関係に神様の美しさが現れる、その美しさを喜ばれるわけですね。

 

さらに神様は「あなたのくちびるは紅の糸。あなたの口は愛らしい。あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ」と歌います。度は唇と口。紅色の唇、それは高貴な色を現すそうで、花嫁さんを高貴なものとして受け入れてくださる、神様の家族に、それだけでも素晴らしいですね。荒野から上ってきた私たちを高貴、罪や悲しみに痛んでいた私たちを高貴なものとしてくださる

 

一方で、この唇のもとの意味を考えると、内面の思いとか考え、感情が溢れて出てくる所のことを指しているようで、他の聖書箇所を見ますと、「口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです」とイエス様は仰られます。つまり、口から出るものが私たちを汚してしまう…私たちのうちにはつらい部分がたくさんあったり、人に見せられないところだったり、色々あります。しかし、「あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ」とある詩人がイエス様について歌われるように、イエス様の唇から出る言葉や、御業、あらゆるやさしさをもって私たちを癒して下さる。聖めて下さる。その口が語られることがなして下さる事、そうした神様のやさしさの中に私たちも癒され美しいものに、イエス様の似姿に変えられていくわけです。そういう美しい関係が今ここにあるのです。

 

なお、頬(こめかみ)は豊かさとか繁栄、いのちそのものを象徴するそうで、心に肉的な思いを持つなら死という実を結びますが、御霊様の思いを持つなら、いのちと平安の実を結びます。鳩がヴェールのうしろにあった↑の一番最初に表現されていましたが、まさに御霊様によって命の実をあなたに結ばせる、その思いが込められていますね

 

私たちはそうして神様の平安が与えられながら、花嫁として迎え入れられる期間を支えられ守られています。↑でについて出てきますが、盾を置いていいほど戦いではなく平安でいられる私たちが重荷をイエス様に降ろすとき、まさにその平安が与えられるわけですね。私たちが首を下げる、遜る時、魂に安らぎが来る、2つの乳房について↑で語られているように、川のような繁栄とあふれる流れのような国々の栄光が乳を飲ませ、私たちを生かして下さるのです。このイエス様の愛が、花婿から花嫁に向けられた愛が、御力が私たちに溢れ流れ、支えてくださっているのです。

 

私たちを見捨てるのではなく、花嫁として迎えるために、御子イエス様は私たちのこれらの重荷も痛みも、何より罪も一切身代わりに背負って十字架で罰せられ、死なれてでもあなたを愛しぬくことを選ばれたのです。乳房、と言いますか、まさにその十字架から今日もあなたに向かっていのちの川が溢れ流れているのです。私たちがこの花嫁の愛を、いのちがけの愛を受け取る時、復活の花婿イエス様の花嫁としてやがて迎え入れられる、そこまでされた愛が、花嫁として迎え入れようとされているその愛が今日もあなたの内に注がれ、支え、守られ、生かされているのです。

 

「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」と↑の最後でイエス様は歌ってくださっています。あなたの全ては美しい、そう今日もあなたを整えてくださっている。この花婿イエス様の愛が今日もあなたの内にある事を覚え歩もう。この恵みを他の何ものにも奪わせてはいけない。ただただ私たちはこのイエス様に今日心を向けよう。あなたの全身、魂に至るまで愛し支えてくださっている、↑で見た一つ一つの愛、あなたの一つ一つ、一日一日、一瞬一瞬のうちに、キリストの似姿に近づけたいというその愛が注がれていることを覚え感謝し、この方だけを見つめ歩もうではありませんか。