「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマです』と答えた。そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです』と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。」
使徒の働き19章1-7節
ある結婚式で、出すワインを、最初は良いものを出して酔いが回ったころに質の劣るワインを出す、そんな話を聞いたことがあります。まあこれ、聖書の中の話なのでもイエス様は水をワインに変えて、しかも専門家も舌をうならせるほど良いものをだされたのでした。イエス様はあなたに、神様が創られた最高の子たるあなたに、最初から最高のものを備えて下さっているのです。しかしそんなものはいらない、と離れていった私たちを取り戻すためなら御子イエス様のいのちを与えてまであなたを取り戻された。このイエス様がいのちをかけて招かれた本物のいのちにどれだけの恵みが込められているか。私たちはこのイエス様のくださった本物にいきよう。ここに神様はすべてを備えて下さっているから。
さて、↑は今から約2000年前、神の御子イエス様が人となって生まれてこられて、その愛を惜しむことなく現された、人々を癒し、私たちに本物のいのち・救いを与えるべく、私たちの負っている重荷、罪もすべて身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生した後の話です。私たちへの愛ゆえにたてられた十字架の救い、その約束を、いのちを届けるべく、多くの人の内に聖霊様が働かれ遣わしていきました。そして↑からパウロの第3次伝道旅行が始まります。
↑でエペソの町、今のトルコにパウロはまず到着しました。18章、第2次伝道旅行の時にも、アクラとプルスキラとともにエペソに来ましたが、パウロだけは、急いでエルサレムへ向かいました。そして彼はシリヤのアンテオケに戻り、再び宣教旅行を始めました。ガラテヤの地域を巡りながら今、エペソに来ました。パウロが前回エペソを去ったあと、アポロという人がエペソにやって来ましたが、ヨハネのバプテスマしか知らず、彼の話を聞いていたアクラとプリスキラは、アポロにもっと正確にこの道のことを教えて、その結果、アポロは力づけられ、彼はコリントに向かいました。ただアポロが教えていた人たちには、アポロと同様に大切なことが欠けていました。
(パウロの第3次伝道旅行の行程;今のトルコあたりのエペソに今彼はいます)
↑を見ると、パウロがこのエペソに到着した時、「『信じたとき、聖霊を受けましたか』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマです』と答えた。そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです』と言った」というやり取りがありました。
信じたとき、聖霊を受ける、ということについてですが、イエス様は十字架に架かられる前に「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」と仰られました。イエス様を信じる時にこの聖霊様も共におられる、そう約束されたわけですね。この聖霊様なしに私たちは逆に生きる事はできません。新しい助け主なる聖霊様が送られると約束されたのに、その聖霊様がいなくなったら大変なことになりますからね。
その聖霊様は、私たちの側にいてくださるだけではなく、助け、導かれます。これまでパウロの伝道旅行の道筋を導き、切り開かれ、何を語るべきかを教え、また力づけたように。まあその聖霊様の賜物というのがまた色々あるのですが、これについてはパウロが書いた書簡を分かち合う時に詳しく見たいと思います。ただ、聖霊様の賜物の何かがないと救われていない(異言)とたまにいう方がいるのですが、それはちょっと違います。聖霊様の賜物は様々ありますから。これがなければ救われていないというのはあり得ない話で、信じたものにまず聖霊様が注がれる、共におられる、まずこれ自体が恵みですよね。
そう、まさにこの聖霊様というのはイエス様を信じたときに与えられるある意味で賜物、だからパウロはこれをあなたは受けましたか?とエペソにいた人たちに聞いたわけです。このエペソの教会に向けた手紙の中でパウロは、「御霊によって歩みなさい」と語られていましたので、とても重要なことです。むしろその助け主なる聖霊様がいなければ大変、と確認したわけです。
するとやはり幾人かはアポロと同じようにバプテスマのヨハネの洗礼までにとどまっていました。というよりも知らなかった、というのです。彼らは肝心なイエス様を救い主として受け入れていないことにパウロは気づいたのです。確かに神様を彼らは知っている、罪人だということも知っている。でもそこで終わってしまっている。ああ、罪を告白したんだからまあいいでしょう?的な。実際バプテスマのヨハネのところに集まってきていた人たちの中にも、罪を告白したからいいでしょう?と興味本位で来ていた人たちもいましたし。
ただパウロが言っているように、バプテスマのヨハネが伝えていたのは、「悔い改め」がメインでしたが、そこで終わらずに、罪を悔いてやめます、反省します、で終わるのではなく、イエス様について行きなさい、と導いていたのです。反省してはい、終わり。もういいでしょう?好きに生きて、とするのではなく、ならイエス様について行きましょう・生きましょう、とバプテスマのヨハネの所に来ていた人たち、またその彼の弟子たちに話していたのです。
イエスという方をたぶん当時の彼らも、また私たちも存在は知っているでしょう。しかし知って終わりではない、このイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架に架かられ死なれたこと、そして3日目によみがえられたことによって、「このイエス様」の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら、その人の罪は赦され、神様の子とされるわけです。そしてその中で聖霊様が注がれる、新しい助け主なる聖霊様が私たちの内に住まわれ、働かれるわけです。
信じて赦されたんだからもう好きに生きていいでしょう?ありのままでいいでしょう?ではなく、私たちがこのイエス様を信じるということは我が道ではなくこのイエス様に従いついて行く、ということです。この話を聞いたエペソの人たちは、イエス様を救い主として受け入れた、悔い改めて、そこで終わるのではなくイエス様について行く、古い罪に生きるものから、イエス様に生きるものとなることを望んだ。その中に聖霊様が働かれ、助けられる、罪や困難、様々な誘惑にある事もある、その中に聖霊様が助けてくださるわけです。そして私たちはイエス様の似姿に聖霊様の助けによって変えられていくのです。
私たちはバプテスマのヨハネから洗礼を受ける受けないということはありませんが、イエス様の十字架による救い、神様の最高のプレゼントをいただいていますか?ごめんごめん、次は気をつけるよ、で終わっていませんか?信じたけど、赦されたからもう好きに生きる、と古い歩みに戻っていませんか?むしろ私たちはこのイエス様にあって与えられた新しい命に生きようではありませんか。今、旧約で雅歌を見ていますが、あなたを神様のその最高の場所、奥間に、親しい者しか入れない場所に招かれたわけです。古い罪や思い煩いが支配するところから、神様の恵みが満ち溢れるところに。御子イエス様のいのちによって新しく与えられた命、そこに満ち溢れる聖霊様の働き、わくわくしませんか?私たちは今日、イエス様に帰ろう。そしてこのイエス様が与えてくださった新しいいのち、イエス様について行きましょう・生きましょう。そこに聖霊様という素晴らしいプレゼントが待っている、そこから広げられる新しいいのち、聖霊様が満ち溢れた、充満した日々を歩ませていただこうではありませんか。

