「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。その首長たちは、町の中にあってほえたける雄獅子。そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。朝まで骨をかじってはいない。その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す。主は、その町の中にあって正しく、不正を行なわない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す。しかし、不正をする者は恥を知らない。わたしは諸国の民を断ち滅ぼした。その四隅の塔は荒れ果てた。わたしが彼らの通りを廃墟としたので、通り過ぎる者はだれもいない。彼らの町々は荒れすたれてひとりの人もおらず、住む者もない。わたしは言った。『あなたはただ、わたしを恐れ、懲らしめを受けよ。そうすれば、わたしがこの町を罰したにもかかわらず、その住まいは断ち滅ぼされまい。確かに、彼らは、くり返してあらゆる悪事を行なったが。』それゆえ、わたしを待て。―主の御告げ―わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ。まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。そのとき、わたしは、国々の民のくちびるを変えてきよくする。彼らはみな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える。クシュの川の向こうから、わたしに願い事をする者、わたしに散らされた者たちが贈り物を持って来る。その日には、あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない。そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたからのもの。そしりはシオンへの警告である。見よ。その時、わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、足のなえた者を救い、散らされた者を集める。わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう。その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの繁栄を元どおりにするとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。」
ゼパニヤ書3章1-20節
あなたは「愛されている、喜びだ、ずっと一緒」なんて言われると本当にうれしいですよね。存在自体が認められているといいますか、それだけで元気が湧きますよね。一方で「嫌いだ、見ているだけでうんざりだ、どっかいって」などと言われた日にはもうどうにもならなくなります。悲しいのは、前者のような人たちだけじゃなくて後者のような人たちもいる、その間に生きているということ。そして引っ張られて自分を失っていくんですよね。ただ私たちは人の意見や考え、世の価値観、そうしたものに引っ張られていきているのではなく、あなたを愛してくださっている神様が私たちのただ中におられ生かして下さっていることを忘れてはいけません。あなたを愛しつくられた神様が、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてでもあなたにその全てを注がれた神様があなたの内におられる、この事を覚え歩もうではありませんか。あなたは神様に、愛されている。
さて、↑は紀元前に古代イスラエル王国が分裂し、北イスラエル王国がアッシリヤに捕囚され、南ユダもその危機にさらされている中、当時ヨシヤ王という王が治めていた頃にゼパニヤを通して神様が預言されたことばになります。神様は神様に立ち返り従おうとする民もいれば他の神々や価値観に生き、どっちつかずにいる彼らを見捨てず、預言者ゼパニヤ(=蓄える、秘め置く、心に納める、大切な事を隠す)を遣わすことで、神様を尋ね求めるように、そこに神様の無尽蔵な愛、いのち、御力が溢れるから、と招くのでした。主を尋ね求めよ、義を元よ、柔和を求めよ、主が匿われるから、と。
そんな神様はなお民を招こうと「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。その首長たちは、町の中にあってほえたける雄獅子。そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。朝まで骨をかじってはいない。その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す。主は、その町の中にあって正しく、不正を行なわない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す。しかし、不正をする者は恥を知らない」と語られます。
反逆と汚れに満ちた暴力の町、神様はこの状況に対してああ、と嘆いておられる。そのままでいいなんて神様は思っておられない。それはそうです、あなたの日々が、いのちが、家庭が、そうしたところが汚れや暴力、そうしたものに満ちていていいわけがないのです。実際に今の世の中だってそうですよね、それぞれが思い思いに生きて、自分が正しいと思うことを行う。意に反すれば暴力をふるい、弱いものを虐げる。その状況を神様は良しとされないのです。
ここで「懲らしめ」ということばを神様は使われていますが、厳密にはトーラー、「神様のことば」です。その神様のことばは、私たちを幸せにするために語られることを神様は仰られていました。また彼らが公義(公平さや正義)を行っていない中にあって、神様はご自身の公義を現され、愛を現し、朝毎に、いやいつもその愛を現して下さるのです、私たちを本当の意味で幸せにしようと、また喜びに溢れさせようと働かれているのです。そうして神様はご自身のいのちのうちに招かれているわけですね。
考えてみますと、この世界は神様の発せられる言葉によって出来、またそれらを非常によいものにしてくださりました。人をいのちあるものに、またこの地に良い産物を神様が実らせてくださりました。神様のことば、私たちへの愛ゆえになされる、語られる言葉の力というのはすごいんですよ?私たちを奪い去るために神様は何かをされるのではなく、私たちに神様の良いことを成し遂げてくださる、聖いことをしてくださる、聖めて下さるわけですね。
確かにこの世の中、様々なものが主権を握り、あなたに本来与えられているはずの神様の最高のいのちを汚そうと、奪い去ろうしてきます。しかし、神様はその中にあって働かれていることを忘れてはいけません。この方が私たちを取り戻して下さる、働かれている、だから私たちは神様の呼びかけに聞き、またみことばに信頼する、その中に神様は驚くべきことをなして下さる、この神様からその正しさが、愛が溢れ流れるところにいのちが満ち溢れ、癒しがあるのです。
私たちは神様と、神様に相対する様々な勢力の中にある意味で挟まれています。その中で私たちはどちら側に着くのか、これも問われてきますね。クリスチャンの中にもたまに、これは自分の考えていることと違うから、と神様の仰ることを否定する、そして神様のなそうとしている最高から他の人を引き離そうとする人もいます。多分現実問題にぶつかって神様には無理、どうせ、とかそういう考えに行きついてしまうのでしょう。こればかりは人の弱さゆえにどうしようもないのかもしれません。しかし、あなたをつくられた神様は、あなたに良いものをもたらしたいのです。この世界を良いものに創られた神様は、この世界を神様の良さで満ち溢れさせたいのです。そのために働かれているのです。その神様に信頼せずして誰に信頼しましょう。誰が、最善へと作り変えることができるでしょう。神様に納得せず離れ、逆らって、じゃあ自分でそれができますか?どんなに神様に逆らい、私たちの神様からの恵みを奪い去ろうとするものがあっても神様は戦われ、神様の義を現して下さるのです。
神様は↑で、「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない」と語られましたが、まさに神様は色んな人を通して働かれることもあるのですが、何より神様ご自身が寄る辺のない私たちの拠り所、見の避けどころとなって守ってくださる。嘘偽りを行わず、正義を、愛を、いのちを実行される神様が私たちを養ってくださるのです。ある状況、ある時は、時代が当時と違うからと言って何もされないのではない、公平なる神様が働かれる中、何者もこの命、神様のくださったいのちを脅かすことなどできないのです。涙と共に蒔いた種も、喜びの収穫を抱えきれないほど持って戻る日が来るのです。
私たちはゼパニヤの生きていた時代とは違う時代を今生きています。また困難も様々ある。しかし変わらずこの正義・公儀・公平なる神様がおられることを忘れてはいけません。↑で「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と神様は約束されていますね。
私たちにはこの救いの勇士が昔も今も、とこしえにおられること、この方があなたのために戦われていることを忘れてはいけません。神の御子イエス様は、↑の前でも触れました、「柔和」となられて子ロバに乗ってこられた、人となってこられ、私たちの罪を赦すため、私たちのこの傷つき汚れたいのちを取り戻し回復させるため、神様の私たちへのこの救いのご計画に従順に従い、逆らうことなく最後まで従われ、十字架で罰せられ、死なれました。しかし死を死で終わらせず、3日目によみがえらせていただいたことによって、私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちはこの神様の恵みの中に、復活の中に招き入れられ、神様の子とされる。復活のイエス様が、ここまで愛されたイエス様が、救いの勇士が今日あなたの内におられるのです。戦われておられるのです。
この命をかけてまであなたを取り戻すため戦われたイエス様がもたらされる平安、喜びはいかばかりだろう。あなたはこのイエス様の勝利を、愛を、命をかけてまであなたになさろうとしていることをどれだけ喜び、待ち望んでいるでしょうか。もう気力を失う必要はありません。あなたを喜ばれる神様が、今日あなたに成そうとしていることに信頼しよう。そして私たちはこのイエス様の愛をもってまた仕えるものであろうではありませんか。↑のように真逆の道を進むのではなく、神様の聖が、いのちが、喜びが全地に溢れるよう祈りつつ主の勝利を待ち望もうではありませんか。今日も神様の蓄えが、いや神様が共におられるから。
