石橋を叩いて「いつも」渡る必要があるの? | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

人は、特に日本人特有なのか、「前向きに検討します・その件については後ほど検討します」と、その気がなくとも語る。慎重になりすぎることがあります。しかし、慎重になりすぎてと機を逸する、得るべきものを得られなければ何の意味ありません。

 

確かに私たちの人生は様々な困難があるかもしれません。

時には薄氷の上を歩くような日もあるかもしれません。

しかし、あなたとともにいてくださる方は、御子イエス様の命さえ惜しまずあなたに与えられるほどに愛される方なんです。その方が一緒に歩んでくださるのです。

私達は慎重さも必要ですが、それ以上に、神様にあって敢行する、勇気を持とうではありませんか。

 

V・レイモンド・エドマン氏は言う。

 

自分の行くべき道について熟考し、与えられた事についてよく検討してから行動する、慎重さは、確かに必要である。

 

しかし、同時に、どんな困難があろうとも与えられた義務を遂行するという「敢行」の態度も、また必要である。必要以上に慎重になりすぎると、疑念がその人の力を麻痺させてしまう。

 

神が、私たちを導いてくださる時に事を敢行するなら、人間的には不可能なことも可能となり、ついには完全な勝利に導かれるのである。

 

すなわち、敢行するかしないかによって、任務遂行の喜びを得るか、それとも任務怠慢のための敗北を招くかが決まるのである。