アインシュタインを超えたと言わえれたランドール・J・フィスク博士(原子物理学者)がこんな話をしていました。
私は長い間、真理を求めてきました。物理学を学んだのも、そこで真理に出会いたかったからです。神なんかいないという考えには、どうしても納得できませんでした。こんなにも美しい世界が、偶然の結果だとは信じられなかったからです。私自身が無意味な偶然以上の何者でもないという考えも、あり得ないと思いました。
その当時、なぜだか分かりませんが、聖書を読んでイエス・キリストについて知りたいという飢え渇きが起こりました。論理的にも、歴史的にも、イエスの良い知らせは、ほぼ確実だと思われました。しかし、それだけでは、真理とは何かといことが分かるものではありません。ところが、Iコリント2:14の「生まれながらの人は、神のことがらを理解できず、御霊のことは御霊によってわきまえるもの」だとありました。
聖書を読み進めていくと、それに応じて、私の心の中の何かが共鳴し、今読んでいることが本当だと告げるのです。私たちは、生まれながらの心と五感だけでは、神の真理の現実性を発見することはできません。神は私たちが自分の五感によって、神を発見してほしいとは望んでおられないのです。そうならばどうやって私たちは真理を発見することができるのでしょうか。神は私たちを愛しておられ、ご自分の真理を贈り物として与えようとしておられます。
ある日、真理の現実性が、いかに力強く私を捕らえました。主をほめたたえ、礼拝するクリスチャンの集会に出たときのことです。私の魂の内側で、神の御霊が喜んでおられるのを感じました。私は突然、泣き出してしまいました。そのように深い、本当に美しい感動を味わったことがなかったからです。神が強く私に臨んでくださったので、私はこの神を「私の天の父」と呼んでもよいのだと気づきました。神についての単なる知識にとどまらず、今や神が私の友として、分かるようになりました。宇宙において見ていた神の超越性は、今は私の身近なものとなりました。神の愛と臨在を深く味わっています。確かに神の偉大さは、その創造のみわざ、宇宙や自然界に見ることができます。しかし、その愛と臨在を見ないならば、最善のものを見失ってしまうということになります。私の今の願いは、もっと神を体験したいということです。
あのダビデが詩篇の中で、「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主のうるわしさを見、その宮で思いにふけるそのために。」とうたっています。
素粒子物理学の世界は、私に創造者なる神を想像させましたが、イエス・キリストは、私の個人的な神として、私の側に愛に満ちた方として、いて下さるのです。
神様は、あなたを愛してくださって、
あなたの傍にいてくださる。
あなたに命を与えて終わりではなく、あなたの全ての内にご自身の愛を現して下さっている。
神様は探せば見い出すよ、と仰りました。
私たちは何を探していますか?
何を求めていますか?
神様は御子イエス様のいのちをあなたを救うためなら惜しまず与えてくださるほどにあなたを愛されている、その神様があなたに注がれる恵みはいかばかりか…
今日、このイエス様にある本物の幸せ、いのちを求めようではありませんか。
