「『…神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、【私たちもまたその子孫である】と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。』死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」
使徒の働き17章26-34節
私たちは何か良いものを探し求めます。もっと良いものはないだろうか、と。でも知ってます?あなたには最初から良いものが備えられているんですよ?いや、今日も。私たちを愛してくださっている神様がどれだけあなたに素晴らしいものを与えてくださっているか、神様のくださっているこのいのちの内にどれだけその良いもので満たして下さっているか。神様は愛する我が子にどうでもいいものを与えるのではない、むしろあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えられた。その神様があなたにどれだけの良いことをしてくださっているか。私たちは今日この神様を求めよう。私たちはそこに本物のいのちを見出すから。
さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、その愛を惜しむことなく注がれながら、私たちに本物のいのち、救いを与えるべく、私たちの負っている重荷、罪もすべて身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主なる聖霊様が約束通り降られ、教会が誕生してからしばらくしてのことです。このイエス様の愛を、救いを、一人でも多くの人に届けいのちを得てほしいと、全世界に届けようと、聖霊様が多くの人の内に働かれながらパウロなど様々な人を遣わしていきました。
そんな中、第2次伝道旅行が始まりました。ヨーロッパ方向にはパウロとシラスを聖霊様は遣わし、今アテネまで来ました。アテネは哲学や、ギリシャ文化から多くの偶像が入り込んでいました。なぜ彼らが哲学に走り、なぜそんなに多くの偶像が満ちていたのか、それは彼らの迷いの数ではないのか、と思われます。
(今は⑫のアテネにいます)
そんな彼らの所に、神様は諦めず、聖霊様によってパウロは彼らの所に来て話し始めます。ここまでは聖霊様がパウロの内に働かれ、彼らに訴えたのは、この天地をつくられた神様が彼らに命を与えた、物言わぬ偽神ではない、生きた神様が私たちに命を与えてくださったんだ、と語ってきました。
なおパウロは続けて「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」と語ります。
ひとりの人というのはアダムです。厳密に言えば、神様がアダムに命を与え、そのアダムのあばら骨を一本取ってエヴァをつくられ、そのアダムとエヴァからすべての子孫が生まれ出たわけです。今もですよ?人の誕生のプロセスを考えれば、形はできても、いのちを誰かが吹き込まなければ私たちは生きることはできません。このからだだってそう。偶然?進化?とんでもない。神様が、私たちが母の胎内にいる時からあなたが私たちの内臓を造り、組み立てられたんです。神様のイメージに似せ、神様の思いを込めてあなたという人を。
その神様が、私たちそれぞれにそれぞれの場所に住まわせて下さります。神様がつくられたこの天地万物、神様がそれを今も働かせておられる、実を結ばせ、太陽と月、星をもって年月を司り、そうした中に私たちは住まわせていただいているのです。私たちが今生きている時、場所はあなたに神様が備えられた場所なのです。だから私たちが神様を探し求めるなら、見い出させていただけるのです。神様が働かれているいのち、時、場所、その中に神様の働き、恵みが今注がれている事を見出すのです。
アテネの人々が何もないからもっといい哲学を、偽神を、と求めている中にあって息のないそれらがあなたをコントロールし、形づくり、生かすのではない、あなたに命を与え、形づくられる神様が今日働いている、この神様以上にだれがあなたに良いものを与えることができるだろう、そう訴えているのです。神様は↑の前でアテネの人たちが捜していた「知らない神」、何者かも不明な偽神ではない、まことの神様が私たちと近しい関係になってくださっている、それなのに私たちは神様から遠ざかったり、また神様を遠ざけてどうしましょう。
パウロは「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」といいますが、まさに私たちが猿の子でもなければ、偶然ここに、この時代に生まれたのではなく、この神様ご意思の中で、神様に支えられ、生かされているのです。私たちは自分で生まれたわけでもない、この命を与え、生まれさせてくださった神様が私たちを支えてくださっているのです。
パウロはさらに「そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです」と続けます。
私たちは神様の子孫、と言いますか、子とされ、やがて今エゼキエル書でも見ていますが、御国の相続をさせていただける。私たちが滅びるのではなく、永遠のいのちを持ってほしい、と御子イエス様のいのちを私たちの罪一切を身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのは、まさにあなたをこの罪の呪い、束縛から解放し、新しい命を得てほしい、と願われてのことです。復活のイエス様の恵みに私たちもあずからせていただける、新しい命がわたしたちにあたえられるのです。このイエス様にあって私たちも生かされているのです。
パウロは後に手紙で「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。…しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」と書き送りました。もしアテネの人たちが馬鹿にしているように死者の復活がなければ、私たちは死んだまま、虚しい。自分の罪の中にいて、いつまでも神様のいのちが彼のうちにはなく、やがて滅びていくだけです。しかしイエス様はそうならないために死なれた、また父なる神様によってよみがえらされたのです。そこまでしてあなたに相続させたい恵みが、愛が、いったいこの世の何に勝るでしょうか。この復活の力、愛があなたに注がれているのです。
あなたのために最も近くに来られたイエス様からもう遠く離れることがないよう、またアテネの馬鹿にしていった人たちのように、それはまた今度にしましょう、とこの恵みをぞんざいに扱うのではなく、見るのではなく、今ここに主の愛が、御業が、栄光が、いのちが溢れることを祈ろうではありませんか。虚しい偶像的なものに支配された歩みではなく、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在」させていただこう。ここに死を打ち破られ勝利されたイエス様の素晴らしさがあふれるから。

