「次のような主のことばが私にあった。『人の子よ。顔をシドンに向け、それに預言して、言え。神である主はこう仰せられる。シドンよ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現わす。わたしがシドンにさばきを下し、わたしの聖なることをそこに示すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。わたしはそこに疫病を送り込む。そのちまたには血が流れ、四方から攻める剣のため、刺し殺された者がその中に倒れる。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。イスラエルの家にとって、突き刺すいばらも、その回りから彼らに痛みを与え、侮るとげもなくなるとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき、わたしは諸国の民の目の前で、わたしの聖なることを示そう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住みつこう。彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう。回りで彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。』」
エゼキエル書28章20-26節
人は誰かと繋がりをもって生きています。ある牧師さんが、「ぶどうはぶどうの木からしかならない」と言っていました。ようするに、実はその木によって決まる、というわけです。私たちが誰に、何に繋がっているか、それによって結ばれる実というのは決まってくる。今の世の中本当に色々あって大変かもしれない。しかしそんなとき、私たちは誰につながるのか、何につながるのか。神様は私たちの遠くにおられるのではなく身近に来られた、いや本来身近な関係、家族関係であったはずなのに、私たちが離れただけ。神様は私たちに良い実を結びたいのです。神様はイエス様のいのちをかけて私たちをもう一度繋いでくださったのです。私たちはこのイエス様にしっかりと繋がろう。その先に現される実、御業に大いに期待しよう。そのいのちさえ惜しまず愛されたイエス様が今日あなたに愛を注がれているのだから。
さて、↑はBC586年にあった第2次バビロン捕囚によってイスラエルが捕囚されていった、その半年後に神様がエゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。もはや彼らからしたら絶体絶命、そんな時、神様は何もしてくれないの?見捨てられたの?やっぱり神様は自分たちを愛していない?気にかけてくれてはいないのでは?と恐れや不安に包まれていたでしょう。そして神様から離れていき、そこをサタンに狙われてしまう。でも神様は見捨ててなどいなく、私たちを家族として繋ごうとなおして下さっていた、バビロン捕囚前から多くの預言者を通してずっと語り続け、また御業を現されていたのです。それこそ天地万物が造られ、人が創られてからずっと、私たちと関わり続けて下さっていたのです。どんなに辛い時も、元気な時も、神様は彼らに愛を、ご自身を現し、語り続けたのでした。私たちを我が子と呼びながら何とか生きてほしい、生きよ!本当の愛、神様の恵みの内に帰ってほしい、と。それこそ、赤ちゃんが生まれて、へその緒を離れた後でも、何があっても惜しみない愛を親が注ぐように、神様は彼らをそれでも愛し、希望の光を照らし続けていたのです。
その神様の思いは一部の人たちだけではなくイスラエル、また周辺諸国への預言が語られます。↑の前からは、ダビデ王の時代からソロモン王の時代にかけて、友好関係をイスラエルと結んでいたツロに向けて神様は語られてきましたが、今度はそのツロとつながりが深いシドンに向けて語られます。
まず神様は「人の子よ。顔をシドンに向け、それに預言して、言え。神である主はこう仰せられる。シドンよ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現わす。わたしがシドンにさばきを下し、わたしの聖なることをそこに示すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。わたしはそこに疫病を送り込む。そのちまたには血が流れ、四方から攻める剣のため、刺し殺された者がその中に倒れる。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう」とツロに続いて、シドンに向け語ります。
じゃあそのシドンは一体何をしたのか。まずこのシドン、正確にはツロもそうなのですが、その地域はイスラエルの12部族の一つ、アシェル族が相続地とした場所でした。アシェル、それはイスラエルの父祖アブラハムの息子イサクの息子ヤコブの子なのですが、その出生が特殊でして、ヤコブの妻、レアは自分に子供が4人与えられた後、それ以上子供が生まれない状況を見て、もうひとりの妻ラケルに夫の心が奪われることがないよう、なんと自分の奴隷、ジルパをヤコブに妻として与えるのです。そしてその中で生まれてきた子が、アシェルでした。
この辺のヤコブとレアの行動については少々問題があるかもしれませんが、アシェルにはある意味では関係のないこと。神様にとってはなおのこと、そのアシェルに命を与えられたのは神様なのですから。アシェルの名前の意味は「幸い」ですが、まさにその通り神様は幸いを彼らの内に、また私たちがどんな状況下にあろうとも、注がれるのです。
そのアシェル・アシェル族に神様は素敵な約束をしてくださっていました。まず、神様はアシェルの父ヤコブを通して「アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す」と、モーセを通しては「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように」と預言者されていました。それが彼らへの神様の約束なのです。神様は最も祝福され、本当の力強いかんぬき、神様にあって守られ、彼の内に、神様の御力が生きる限り続くように、と。これこそが神様の彼らへの御思いでした。神様の創りだす本物のごちそうによっていのち溢れ、また周りに溢れ流れさせるものへとしたい、と。
そしてその神様の約束通り、アシェル族は豊かになっていったのですが、だからこそ神様に繋がっていくべきところ、自ら、北の異教の地フェニキア(ギリシャのほう)に接触して交わるようになり、物質的な豊かさの上に、異教の影響を受けて、はなはだしく堕落してしまいき、結局地中海沿岸沿いの平野部どころか、山間部に閉じ込められ、諸外国の圧迫に悩まされ続けながら、やがては歴史の中へ消えていくことになりました。神様のご計画を、祝福が与えられているのに、それでは心配だ、足りない、私の求めているものとは違う、と違う方向に進めばある意味で必然だったのかもしれません。
ただ、それでもツロとシドンはダビデとソロモンの時代に神様に招かれ、友好関係が結ばれた、神様彼らを見捨てていなかったのです。しかし時代と共に彼らはその神様のくださっていると見、恵みを忘れ、王国が分裂した後、北イスラエルにとんでもないものをもたらしたのです。北イスラエルが暗黒時代を迎えるきっかけとなる事件を起こしたのが、アハブ王が、その妻イゼベルをシドンから迎えて。イゼベルはこのシドン出身でバアル教をもちこみ、バアルを拝まない、神様を信じる預言者たちをどんどん殺害していき、偽神であるバアルで国を恐怖で支配したのです。
バアルはこれまで何度もふれてきましたが豊穣の(偽)神とされていて、豊穣のために子どもを生きたまま火にくべる全焼のいけにえとして捧げさせたり、淫行を伴う祭りに女性を借り出したり、祈りを叶えさせるために全身を傷つけさせるなど、もう気がくるっているとしか言いようのないことを強要させる、その宗教をイゼベルがイスラエルに持ち込み恐怖に陥らせ、これがどんどんイスラエルに浸透していった。そして神様から彼らの心を恐怖によって引き離していった、その罪を↑で神様は語られているのです。
北イスラエルの王たちの特徴でもあったのですが、そのイゼベルにそそのかされた部分もありましたがアハブ王はこの時頼るべき、つながるべき相手を間違えていたのです。きれいなバラと思って手を出したら、それこそ↑で「棘」とあるように、とんでもない棘がそこにあって傷つける形となったのですが、神様は本当の美しさ、富、喜びをアシェル族に預言していたではありませんか。預言が大事なのではなく、その約束を語られた神様につながること、信頼すること、それが最も大事だった。アシェルもツロやシドンに飲み込まれていきましたが、彼らは同じイスラエル部族に近づき、神様のそのいのちある交流の中に入っていくのではなく、離れていってしまった結果、彼らのアイデンティティ、神様の家族であるという意識を失い、何に頼ったらいいのか分からず、飲み込まれて行ってしまった。
しかし神様は「神様こそ主であることを知らせ」ようとしてくださっている。神様はツロとシドンをイスラエルにダビデの時代から招き友情関係を結ぼうとしてくださっていた、永久の愛の関係に招こうとしていたのです。ただ、↑でシドンに告げられているように、神様に立ち向かって、神様の現わされる栄光を受けず、罰をその身に受けてどうしますか。「わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現わす」と逆の意味で栄光を受けてどうしますか。
むしろ私たちは私たちを傷つける棘ではなく、神様は彼らに突き刺さる棘を抜いて下さり、癒して下さる、神様の愛があなたを刺し貫く時、私たちはもう一度回復されるのです。「わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき、わたしは諸国の民の目の前で、わたしの聖なることを示そう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住みつこう。彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう。回りで彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう」と仰られたように、神様はイスラエルの民をバビロン捕囚から解放、突き刺さった棘を抜き、癒し、回復させる、神様ご自身が私たちの内に住まわれ、神様のつくられるものを食べ、養われ、生きるものとされることを告げられましたように。
神様は私たちをもう一度アシェルに預言されていた本物の神様の富、いのちに溢れた者、神様の作られるぶどう畑で造られる恵みをいただき生きるものとされるため、私たちのこの突き刺さった痛み、悲しみ、思い煩い、何より罪のとげを抜き、この罰を身代わりに御子イエス様に負わせ十字架に架け、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。このイエス様の貫かれた十字架、その愛によって私たちは癒され、生きるのです。この復活のイエス様が私たちの内に住まわれ、そのうちにいのちの収穫をもたらし、これを食べ、私たちは生きるのです。
後の時代、イエス様はツロの女性の癒しを行われたり、ご自身も足を運ばれたりと、彼らの回復を願いその愛を現そうとしました。イエス様の愛は今日もあなたに刺し通され、その御業を、御力を今日も注がれています、安らかに住まわせていただけるのです。私たちはもうこのイエス様から離れてはいけない。このイエス様がいのちをかけてでも今日もあなたと繋がってくださっているのだから。アシェルに約束されていたように、あなたに神様の祝福が豊かに現されることを信じ、ただこの方に繋ろう。神様の富があなたの内に、またあなたの周りに溢れ流れ、回復、生かされていく事を信じ。