―ゆだねてみる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。『先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。』ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。」

使徒の働き15章36-41節

 

人間関係にしても、仕事にしても、何にしてもうまくいく事もあればいかないこともある。それをもって、神様はいる、いない、と考えるのが人。そこで諦めたらでもとてももったいない。どうせだめだ、あの人は変わらない、仕方ない…って。ただ私たちには神様がいるんです。神様は私たちの思うことよりもはるかに超えた思い、計画をもっているんです。神様に委ねて良いんです。神様はあなたを最高の存在につくられた、そのあなたが失われないように、御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様が今日あなたと共にいてくださるのです。私たちはこの足を、思いを、自身を神様に委ねてみませんか。神様が見せてくださる、導かれる最高を信じて。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、多くの人を癒し、励まし、教え、なんとか人々、私たちに生きてほしいと惜しむことなく愛を注がれ続けた、たとえ裏切られても、民・私たちを見捨てず、私たちの重荷も痛みも、罪も全部身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、約束の新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してからしばらくしてのことです。このイエス様の命がけの愛による救いを、一人でも多くの人に届けいのちを得てほしい、と全世界に届けるため、聖霊様が多くの人の内に働かれながら人々を遣わしていきました。

 

そんな中でパウロとバルナバがその第一次伝道旅行から戻り、各地で起こった癒し、また彼らがイエス様の救いを受け入れたという報告を聞いた人たちの中で、「モーセの慣習に従って割礼(男性のシンボルの皮の先端部分を切る)を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張し始める人たちが出て、エルサレム会議というものが始まりました。その中で、世の教えや様々なもので囲む生き方ではなく、御子イエス様のいのちにあって与えられた命、このイエス様の愛が覆う中を生きよう、とまとまったところで、会議が終わりました。

 

その後↑、パウロとバルナバはもう一度各地を回ってイエス様の福音を届けようと「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか」と言って、第2次伝道旅行に出ようとします。これは別に人間的な思いで始まったものではなく、後の聖霊様の促しを考えると、聖霊様に促されて始まったものであることは間違いありません。

 

その前提で↑を見ないとその本質が見えてこないのですが、そんな中でバルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりでした。マルコ、覚えているでしょうか?第一次伝道旅行で一緒に行動していたのですが、キプロス島の段階でもう?と言わんばかりにあっという間に離れていった人です。彼は若かったこともありますが、その話を分かち合った時にも見ましたが、マラリアの流行でダメージを受けた可能性(パウロも同じ時にマラリアに感染したと後に語ります)もありました。またその地での迫害もあったりと、まだ若かったマルコにはショックだったこともあったのかもしれません。そのこともあってか、パウロはパンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考え、バルナバと激しい反目となりました。

 

正直この問題は非常に悩ましいです。あんなに愛を語っていたのに、一つの失敗で彼を見限るのか?イエス様は悔い改めるなら、何度でも赦しなさい、と教えられたし。まあそのイエス様の仰るポイントは、悔い改めるなら、という点で、ありのままに何でもいいよいいよ、と放置していい、というわけではありません。むしろその人が変えられていくために祈り、とりなす、勧めるということもとても大事です。一緒にイエス様に向き合っていくという意味で

 

確かに今回マルコはパウロと同行して一緒に旅をする事はできませんでしたが、後にパウロは牢に閉じ込められている中で、「あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです」手紙の最後に書き送るほどにマルコは成長しました。また他の手紙でもマルコを同労者と語り、またその彼の成長を知ったイエス様の12弟子の一人だった使徒ペテロは、イエス様のなされた働きの福音書を彼に書き記させます。正確にはペテロが口でイエス様が成されたこと一つ一つを語り、そのことばをマルコが書き記したわけですが。それが今の聖書に「マルコによる福音書」という形で残っています。聖霊様の取り扱いの中で、神様の愛に触れられ、帰られていったのです。

 

ちなみにバルナバとここで反目したとありますが、後に「それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか」と手紙の中で彼について触れ、自分の生活のすべてをささげた無二の戦友として紹介し、心のわだかまりが溶けたようです。

 

はい、見えてきたでしょうかね。ここで2手にわかれたのは喧嘩のためにも見えないこともありませんが、しかしそれぞれに神様が触れ、一人一人が聖霊様の取り扱いを受け、より成長していく事となったのでした。

 

イエス様は、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と教えられましたが、人は誰しもが失敗しますし、完璧な人などいません。ただ、私たちはイエス様が十字架に私たちの思い煩いや痛み、何より罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれてまであなたを救おうとされた、この愛をいただいたなら、もう元に戻ってはいけない、イエス様との歩みをやめてはいけない、後ろを振り返ってはいけない。人の思いでやる、やらない、あの人は言い、ダメだ、と考えるのではなく、聖霊様の導きに信頼し、委ねようではありませんか。この先にイエス様がどのような計画をもっているのか。あなたのために、最後まで鋤を降ろさず、いのちを最後まで惜しまず私たちに与えるために十字架にかかられたイエス様が現わされた愛、その先に見せてくださる栄光を待ち望み。

 

榎本保郎牧師は「信仰の世界では、失敗を恐れる必要はありません。大事なことは、失敗なく従うことではなくて、ただ従うことなのです。何もしない人は、失敗もしないし、神に従うこともできないのです。アブラハムは失敗の故に恥をかき、罪を重ねても、なお神の約束に頼ったから、彼は、信仰の父と呼ばれたのです」と語りました。神様に従う中に失敗はありません。神様が何かをなして下さるからです。

 

今日、私たちは神様に従う決断をしよう、どんな時でも。自分の思うことと違うから、と従うことをやめず、ただ神様がなさろうとしている事に信頼する者であろう。パウロ自身が「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです」と後に手紙で書いたように主人・神様が立たせてくださる、神様が支えてくださり、その上に神様の大いなる計画、益が成される。あなたはこの神様の益を今日どれだけ期待し信頼していますか?