―本当に豊かないのちとされる日― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「第十一年のその月の一日、私に次のような主のことばがあった。『人の子よ。ツロはエルサレムについて、【あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった】と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。海の波が打ち寄せるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。彼らはツロの城壁を破壊し、そのやぐらをくつがえす。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。ツロは海の中の網を引く場所となる。わたしが語ったからだ。―神である主の御告げ―ツロは諸国のえじきとなり、畑にいる娘たちも剣で殺される。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。…』」

エゼキエル書26章1-6節

 

人のいのちの価値って実は本当にすごいんです。私たちは自分の弱さなどを見て、どうせ私なんて、と考えますが、とんでもない。あなたは偶然生まれてきたわけでも、進化して生まれてきたわけでもない、神様が造られたというものすごい存在なんです。神様ブランド。すごくないですか?この天地万物をつくられた方が、あなたを最も大切な存在として造られ、神様のイメージに似せて造られ、神様の霊を吹き込み、ただの形だけの「もの」ではなく、魂のある、生きたものとされたんです。人の誕生のプロセスを考えたら、誰かがいのちを与えなければ生きないでしょ?人って。どこの国の人だから、こういうすごい実績を出したから価値があるのではない、神様があなたをつくられたから素晴らしいんです。この神様が今日もあなたに素晴らしい何かをされている。導いて下さっている。御子イエス様のいのちを身代わりに差し出すほどにあなたを愛された神様によって今日生かされているこの日々を喜び楽しもう。この神様の素晴らしさが今日も溢れることを祈ろう。

 

さて、ここまではバビロン捕囚前~捕囚中の期間に、第一次バビロン捕囚でバビロンに連れていかれたエゼキエルを通して神様が、捕囚地にいる民に、またエルサレムに向けて、また周辺国に向けて様々なことを語られてきました。時には驚くべき幻や、実演的に神様の愛を示されたり、ともかく生きよ!その思いで、大切な民に向けて神様は語られてきました。彼らは神様の愛を受けながら離れていき、好き勝手なことをしていた、それでも神様は彼らを我が娘、我が子と言って何とか彼らが本当の愛、神様の恵みの内に帰ってほしい、と必死に訴えてきました。それこそ、赤ちゃんが生まれて、へその緒を離れた後でも、惜しみない愛を親が注ぐように、神様はそれでも彼らを愛することをやめず語り続けたのです。希望がない、そのような中でも神様は確かにいたのです。バビロンの魔の手が迫る中で、どこに希望があるのか、世の手が燃えさかる火のように襲い掛かろうと、神様の燃える愛は消えていなかったのでした。

 

しかし神様の招きに信頼しなかったイスラエルの最後の王ゼデキヤと共にイスラエルの民はBC586年、バビロンに捕囚されていきました。しかしすでにバビロンの地にエゼキエルや神様のしもべダニエルなどを予め神様が置いてくださっていたことによって、まさに神様の保護下に彼らはいた。何もかも失ったと思う中で、神様の御手の中に確かにあった。私たちは時に希望を失う、でもこの世の本当の支配者、またあなたを支えてくださっているのは神様であり、この神様の御手の中生きていること、この方が働かれていることを忘れてはいけません。バビロンが彼らによって少しずつ変えられていくように、私たちは諦めず祈り続けるものでありたいですね。

 

↑の預言の背景についてみましたが、↑の預言に話を進めますと、神様はエゼキエルに対して「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。海の波が打ち寄せるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。彼らはツロの城壁を破壊し、そのやぐらをくつがえす。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。ツロは海の中の網を引く場所となる。わたしが語ったからだ。―神である主の御告げ―ツロは諸国のえじきとなり、畑にいる娘たちも剣で殺される。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう」と語られます。ちなみに、第十一年の十一の月の一日とありますが、これは南ユダの首都、エルサレムが陥落してから半年後にあたります。

 

それでそのツロですが、どんな国なのか。ツロというのは紀元前3000年頃に建てられた、古代文明都市のようで、国としては非常に小さいですが、一つの都市国家を形成させていました。そして、地中海を舞台としてその海洋力を発展させ、地中海のあちこちに植民都市を建てました。そして世界を相手に貿易を始め、とてつもない巨大な富を蓄積させました。他の資料を見ますと、もう少し詳しい事が書いてありますが、「ガリラヤ湖から北西56km、エルサレムから北160kmにある地中海沿岸の町です。カナン本土と1キロほど離れた沖合にある岩礁島の二つです。特に、岩礁島は自然の要塞として、難攻不落の砦としてそこに城があった」ようです。

 

そんな彼らですが、↑の前までに見てきたような敵対感情をイスラエルに対して持っていたわけではありません。むしろイスラエルの国が建国され、ダビデが神様によって選ばれ2代目の王として治めている、その中で神様に祝福されている姿を見たツロの王ヒラムはこのダビデと友情を結びました。「ダビデに使者をつかわし、彼のために家を建てさせようと香柏および石工と木工を送」るのでした。

 

ダビデは結局自分の王宮は建てるものの、神様の神殿、いわゆるエルサレム神殿は、神様から赦されず建てることはできませんでした。それでもダビデとの友情関係は切れることはなかったようです。彼の息子、ソロモンの時代になってもダビデとの友情にゆえにイスラエルとの関係は続いたようで、ソロモンがいよいよエルサレム神殿を建てるということで、助けを求めてきた時、ツロの王は「あなたの申し送られたことを聞きました。私は、杉の木材ともみの木材なら、何なりとあなたのお望みどおりにいたしましょう。私のしもべたちはそれをレバノンから海へ下らせます。私はそれをいかだに組んで、海路、あなたが指定される場所まで送り、そこで、それを解かせましょう。あなたはそれを受け取ってください。それから、あなたは、私の一族に食物を与え、私の願いをかなえてください」と伝え、ヒラムは、ソロモンに杉の木材ともみの木材とを彼の望むだけ与えました。そこで、ソロモン王はヒラムに、その一族の食糧として、小麦二万コルを与え、また、上質のオリーブ油二十コルを与えた。ソロモンはこれだけの物を毎年ヒラムに与えたそうです。そして、「神様は約束どおり、ソロモンに知恵を賜わったので、ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、ふたりは契約を結」びました

 

そう、このイスラエルとの関係に神様が招かれていたのです。神様の祝福の内に神様が平和の契約を本来結んでくださっていたのでした。その中で、ソロモンとの見た目の関係では物資のやり取りの契約だけに見えますが、それを超えた、モノや自己満足では埋められない、神様の知恵、愛、霊、力、平和…神様の全てがそこに注がれる、神様の愛の関係に私たちは生かされるのです。神様の愛が溢れた関係、友情関係、家族関係、いのちはどれだけすばらしいものだろう。特にソロモンのこのころは本当に平和が保たれ、平和だった、まさに神様が中心にある中に平和が保たれていたのです。神様のところにこそ命が溢れるのです。

 

ところが↑、イスラエルの末期、イスラエルが滅びていく姿を見たツロは「あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった」とあざけったというのです。かの友情関係はどこにいったのだろう。ツロは世界貿易という点で、海洋を舞台にしていたものの、陸上は「海の道」と「王の道」の国際幹線道路が通っているイスラエルとユダによって邪魔されていました。その競争相手が今やなくなりました。「国々の民の門はこわされ、私に明け渡された」というのは、町の門にてユダが貿易商人らに関税を徴収していましたが、今は廃墟となって、ただ通り過ぎるだけでよくなった、そこをツロが支配することができるようになったを喜んでいたのです。

 

これまで神様が支えて下さっていた、守られていた、神様の与えられた場所に生きてきたからこそ守られてきたのに、自分の我の道を通した、神様との関係など何の意味もない、自分のものになったんだ、と喜んだ彼らですが、その時一体誰があなたを支えるのでしょう。この世界を神様が創られた、非常によいものとして創られた事を、またあなたを神様がご自身に似せて創られた事を思い出して下さい。神様は全てを本当に素晴らしいものとして創られ保たれ、あなたに最大の良いもので満たそうとしている。この神様に誰が、何が勝る事ができるでしょう。神様がおられるから、私たちは生きるのです。

 

詳しいことはまた↑の続きの箇所で触れますが、彼らの難攻不落とされていた海洋都市は、バビロンの手に落ちます。また後の時代にはアレクサンダー大王に攻め堕とされてしまいます。彼らは神様から与えられた地を、いのちを失います。

 

しかし神様はそれでも私たちを見捨てられないのです。神様は失われていく私たちを嘲笑うのではなく、もう一度回復させるため、ツロを神様がダビデの王国、神様との内に平和を結ばれようとされたように、あなたの内側にある様々な痛みや悲しみ、自分の我を通して守らければいけない、と希望を失っている彼ら、神様から離れて大切なもの、いのちを失っていくあなたを回復させるため、神様は御子イエス様にこの私たちの痛みも悲しみも、罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め、立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、もう一度神様との平和の関係へと招かれるのです。神様があなたを取り戻すため、私たちの抱える様々なもの、奪う者、何より罪に神様が立ち向かってくださったのです。神様こそ主であることを私たちに教えてくださる、現して下さるのです。

 

「事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神様は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神様は彼らのために都を用意しておられました」。私たちは確かにこの地上にあっては旅人ですし、様々なことはあるでしょう。しかし私たちは天の故郷、神様のいのちがあふれる都を待ち望もう。神様の子として迎えるため、御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方があなたの内に現される愛、取り戻された友情の内に現されるいのちがいかに優れているか。私たちは本物の故郷、迎え入れてくださる神様のもとに今日帰ろうではありませんか。

 

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる」。神様が今日明けさせてくださる夜明けを、助けを、神様の川が溢れることを待ち望み。