「神である主はこう仰せられる。エドムはユダの家に復讐を企て、罪を犯し続け、復讐をした。それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエドムに手を伸ばし、そこから人も獣も断ち滅ぼし、そこを廃墟にする。テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される。わたしは、わたしの民イスラエルの手によってエドムに復讐する。わたしの怒りと憤りのままに彼らがエドムに事を行なうとき、エドムは、わたしが復讐するということを知る。―神である主の御告げ―」
エゼキエル書25章12-14節
心って、目には見えないのですがとても大切だと思います。この心の状態は心身、周りに至るまで様々な影響が出ます。自分自身がある意味で一番影響を受けるかと思いますが。聖書の中に、ソロモン王の残した言葉ですが、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。この心がいかに大切なのか、守らなければいけないのか、彼は神様を通して知った。ここからいのちの泉がわくのだから、ここは何が何でも守らなければいけない。あなたはあなたの心を何で満たしているでしょうか。誰かへの恨みや何か、もしくは過去の痛み悲しみに支配されていませんか?神様はあなたの心を良いもので満たし、いのちで溢れさせたい。あなたを取り戻すためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに神様はあなたを愛し、生きてほしいと今日も願っておられるのです。あなたは今日何を心に求めますか。
さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚の時の際、バビロンに捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。なお、↑の預言が語られているのは、第2次バビロン捕囚によってエルサレムの城壁が破壊され、南ユダの崩壊を迎える時、ネブカデネザルの第9年のこの時から2年半近く城壁は囲まれ、とんでもない飢饉の時に語られています。イスラエル・南ユダの民からしたらどん底もいいところで、どうしてこんなことが起こっているのか、自分たちはどうしたらいのか、どうやったら守られるのか、いつ助けが来るのか、神様はどこに行ったのか?世の攻撃は燃えさかる火のように差し迫っている、自分の周りを囲んでいる。もう食い尽くされるだけだ。彼らの思いはそんな状態でした。
ただ彼らの心がそうした不安に支配されている中で、神様は語ることをそれでもやめません、諦めません。神様から離れる彼らを我が娘、我が子と呼びながらその我が子のためにその愛を尽くされ語られるのです。それこそ、お腹を痛めて産んだ我が子が、へその緒から離れた後でもその愛を惜しむことなく愛を注ぐように、彼らを諦めず、彼らにもう一度帰ってきて、生きてほしい、生きよ!と訴え続けるのです。破れ口を直そうと、あなたにこびりついた痛みや傷、何より罪を取り除き回復させようと。その思いはイスラエルの民だけではなく周辺諸国にまで及びます。神様は、私たちに心を向けてくださっている。神様は自分のことなど木にかけてもくれない、とかそんなことはないのです。確かに神様を知らずにいる人たちや、思い悩む人たちに神様は心を向け働かれる、その事を忘れてはいけません。
話を↑に進め、今度は神様はエドム人について語られます。そのエドム人、エドムとは何者なのか、と言いますと、イスラエルの父祖アブラハムの息子、イサクには二人の息子、エサウとヤコブがいました。彼らは双子で、エサウが兄、ヤコブが弟でした。そのエサウの子孫、一族がエドムにあたります。そしてヤコブの子孫からいよいよイスラエルの一族が増え広がっていきます。
ただ、エドム・エサウにはかなり問題がありました。まず、彼らが生まれる前、母の胎内にいた時からぶつかり合っていたようで、母が心配し、神様に祈っていると、神様は「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」と語られました。
その後彼らは成長していくのですが、ある日、兄が猟から帰ってくると、あまりにお腹がすいて死にそうだ、と言って、弟のヤコブがつくっていたレンズ豆スープを見て、それをくれないか、とヤコブに言ったのですが、ヤコブは長子の権利をくれるならあげよう、と言います。長子の権利というのは神様の祝福、また一族をこれから受け継いでいくそんな役割がありました。もちろん財産的なものもありますが、長子は他の2倍受け継ぐことができます。ヤコブは母から神様の預言を聞いていたのか分かりませんが、少なからずともその先の彼の行動からも言えるのですが、何が何でも神様に祝福されたい、その思いがとても強かったのです。
しかしエサウはそのレンズ豆スープ一杯で長子の権利を売り渡してしまったのです。普通ですよ?本当にお腹がすいて死にそうだったらそんな状態にならず、もう倒れて息も絶え絶えだったことでしょう。しかしそうではなかった。ともかくお腹がすいたからそれをくれ、という状態だったうえ、その神様の祝福を「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言い放つ始末。何の役に立つだろう、と。しかし、神様を自分の役にたてさせるのではない、役に立つかどうかで神様はいらない、とか必要だ、とかいう話ではないのです。神様がいなければ私たちはあらゆる意味で死んでいってしまう。神様が私たちを養い支え、守られているのだから。まあ、まだ一族と言っても、アブラハム・イサクしか一族はまだ出ていませんから、この先なんてわからないと思ったのかもしれませんが、彼は神様の計画を、約束を蔑ろにし、それを役に立たない、といったわけです。みなさんは神様の計画を侮っていませんか?
そしてさらに時が進み、ある時父のイサクがもうじき死ぬだろうと考えて、兄のエサウに長子の権利によって祝福をしたいと考え、イサクの好きな料理を作ってくるように言います。そこでエサウは獲物を捕りに行きますが、その話を聞いた母は神様の預言・約束を思い出した、といいますか心に留めていた神様の計画にしがみつき、自分が呪いを受けてもいいから、と言ってヤコブにイサクの好きな料理を作って渡し、それをヤコブのもとに持っていくように言いました。ヤコブはそれは危険、と言いますが、母が受けるべきのろいは受けるから、と言って押し出したのです。必ず神様のご計画がなる、と信じて。ただエサウは毛深いので触られたらばれてしまうので、自分をごまかしてイサクのもとに料理を運び、祝福を受けます。しかしそれを知ったエサウは激怒、ヤコブの命を付け狙い追い回す生涯が始まります。彼の怒り、それこそ↑で預言されている「復讐」心の根がここにあったのです。またヤコブも20年以上そのエサウから逃げ回る生涯が始まるのですが、その中で神様はそれぞれを取り扱い、神様の計画の内に成長させていきました。
そしてその20数年後、彼らは再会します。ヤコブも多くの苦労がありながら、家族も財産も増えました。祝福を失った、と思っていたエサウも多くの家族、財産を得、神様からの祝福が確かに与えられていたのでした。ヤコブが赦しを乞うために、自分の財産などを差し出そうとしたとき、いや自分には十分なものがある、というほどに。彼らには領土としてはこの先広大な土地が与えられます。そう、本当の祝福は、神様の御前にへりくだる時に神様から注がれる、神様が増え広げてくださるのです。物理的な目に見えるものではない、神様が働かれるから、神様の賜物と言いますか富ませてくださるのです。
でも、何で↑のような対立する状態になってしまったのか。実はこの後が問題だったのですが、エサウの本質はやはりあまり変わっていなかったようで、ヤシャルの書(聖書にもこの書物に書かれているではないか、という言及があります)という、その地域の歴史記録によりますと、エサウは自分が先頭になって、長子としてリードしていくから、ヤコブにその後についてくるように言ったのにヤコブがついてこなかった、そのことに腹を立て、許せなかった、というのです。やっぱり自分がリードしたい、あくまで私が長子であり、絶対なんだ、と。ただ、弟ヤコブのイスラエル一族がどんどん祝福されていく姿に嫉妬して、エサウから生まれ出た一族はこのエサウの思いを引き継ぎ攻撃をし続け、時にはアブラハムのもう一人の息子で、離されたイシュマエル一族の恨みと一緒になって攻撃を続けたのです。執拗に。
彼らは目に見えた祝福を求め、自分たちが祝福されていることに気づいていない。神様こそが本当の祝福、全て、この方がエサウにヤコブと同じように祝福されていたのに、その神様を見ず、むしろ自分たちに良いもの、それこそ先ほど見たエサウの、自分の役に立たないものなど信じて何になるだろう、と逆に神様を攻撃していたのです。祝福の基である神様に攻撃してどうしましょう。ある意味ではイスラエルを、というよりそのイスラエルを祝福する神様に対して、復讐をしていた。なんで私たちに良くしてくれない、と。しかし今神様はエサウ・エドムに顔を向け、語られているではありませんか。神様は彼らの土地を他の民に奪われないよう守っていた、その事にさえ気づかないでいた、彼らの人生、彼らを神様が守っていたことに、それがさも当たり前で、神様がするのは当然と言わんばかりに。
パウロはこのエサウの問題について「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい」と厳しく言及しました。たったいっぱいの自分の満足のためにのスープではなく、一時的な満足ではなく、私たちの魂の底から満たし、溢れ流れさせてくださる、いのちの泉となってくださるのです。神様や周りに対して復讐心で心を満たして何が生まれるでしょう。むしろ神様の憐れみを求めるべきではないだろうか。不品行ではなく、神様の御前にへりくだる、その中に神様の命が、全てが溢れるのです。
神様は「エドムはユダの家に復讐を企て、罪を犯し続け、復讐をした。それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエドムに手を伸ばし、そこから人も獣も断ち滅ぼし、そこを廃墟にする。テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される…」と語られてますが、私たちは神様に敵対して滅びようとしている、そんな私たちを神様はそれでも憐れまれたのです。立ったいっぱいのスープではなく、神の御子イエス様に私たちの痛み、思い煩い、何より罪、全てを飲ませる、十字架に私たちの身代わりにかけ、罰し、死なせたのです。それらの剣を受け、死なれ、ある意味で廃墟となってくださった。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされる、その溢れんばかりの愛、祝福を私たちは受けるのです。神様の呪いや復讐ではなく、愛、永遠のいのちが注がれるのです。
パウロは「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」と語ります。私たちはもう世の奴隷ではない、悲しみや痛みの奴隷でもない、神様の子とイエス様の十字架によって差せていただいた、この故に神様からの相続をいただけるのです。これほどの愛を注がれた神様があなたに用意されているものはいかばかりか。今日私たちは心に、ヤコブのごとく強い思いをもって求めよう、すがろう。そこに広がる神様の結ばれる実、いのちが溢れることを祈り、委ね。あなたはこのイエス様の究極のいっぱいをいただいていますか?