―愛・いのちで結ばれる関係― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…それでも、わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。わたしは彼らの子どもたちに荒野で言った。【あなたがたの父たちのおきてに従って歩むな。彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なえ。また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ】と。それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。しかし、わたしは手を引いて、わたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。だが、わたしは、彼らを諸国の民の中に散らし、国々へ追い散らすと荒野で彼らに誓った。彼らがわたしの定めを行なわず、わたしのおきてをないがしろにし、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ。わたしもまた、良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた。彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしは彼らのささげ物によって彼らを汚した。それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。」

エゼキエル書20章17-26節

 

教会などで結婚式を挙げると、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、…こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」という聖書のことばを聞くと思います。それでなくともどこかで聞いたことがあるかもしれませんが。愛はそれほどに大切。愛がある意味ですべて、でも完全な愛は世の中見出す事なんてできないですよね。だからこそ、私たちには「神様の『愛』」が必要なんです。御子イエス様のいのちさえ惜しまずあなたのために与えることができる、それほどの愛が私たちに注がれているから。この愛を私たちは求めよう。

 

さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚の際に、捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。↑の段階はBC591年、第2次バビロン捕囚により完全に国が崩壊するまで5年と迫っている状態、崩壊が迫っています。そのような中で、神様はそれでもご自身が彼らと共におられることを、ご自身を現し、その御手を伸ばされ愛を注がれていることを、幻やなぞかけ、直接的な訴えなど、様々な形で語られてきました。生きてほしい、と。それこそ↑の少し前の章で語られていた、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを神様は抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いてくださったその姿を見せ、思いを示されましてきました。そうして私たちに神様の霊によってもう一度生きたものになってほしい、と。

 

そして今、↑で神様はイスラエルの民に、また私たちに向け、自分たちが何者であるのか、それを彼らの先祖イスラエルの内に神様がどのように働かれてきたのかを振り返りながら神様は示されます。↑の前までは、神様は本当に小さなものだったイスラエルの父祖にあたるアブラハムに目を留め、見捨てるのではなく、気にも留めないのでもなく、愛することを選ばれ、彼のいのちに神様が介入、いや神様ご自身の恵みの内に移されることによって祝福されていきました。その後彼の子孫たちは約400年の間エジプトの奴隷として捕えられていたのですが、神様のあわれみによって救い出され、かつて彼らの先祖たちが住んでいた地に向け導かれます。途中食料や水、戦いなど様々な問題がありましたが、神様がいつもすべての必要を満たしながら進まれました。

 

しかしその道中、彼らは神様を追い出そうとしたり、神様の与えてくださる約束の地についても、神様がその地に実らせてくださっている祝福、そこに住まわってくださる神様を見ずに、その土地を支配する巨人たちを恐れ、こんなものはいらない、と一部の人を除いて拒否し、ヨシュアとカレブという人以外の20歳以上の人は約束の地に入れなくなりました。彼らは神様の与えてくださる恵みを意味のないものと、自分たちでしてしまい、それを失ったのでした。

 

しかし神様はそれでも↑、「わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった」のでした。昨日見たような大事件があっても、それでも彼らに神様は憐みを示され続けた、見捨てていなかったのです。

 

考えてみれば、神様にこの時従っていたヨシュアとカレブ(偵察隊に出た12人の内の2人、彼らだけが今こそ神様の与えてくださっている約束の地に入るべきだ、神様が守られ、神様が祝福されているのだからと進言した)からしたら、なんでそんな不信仰なことを言った者たちのために自分たちが約束の地に入れないことになるんだ!と言いたくなることでしょう。偵察隊に出したリーダーのモーセにしたってそう。しかし、彼らは自分たちは神様に従っているから、と言って民を見捨てず信仰者たちだけで約束の地に向かうことをせず、彼らは神様と共にいることを選んだのです。カレブは特にイスラエル民族とは別の部族出身ですし、自分の出身国がすぐ近くにあるから帰ってもおかしくはない。でも、彼らは神様がいなければ意味がない、その土地は、彼らの人生は、命は意味がない、と神様をそれでも慕い求めたのです。

 

彼らは約束の地についたら従おう、あれを神様がしてくれたら従おう、この事については従うけど、この事については従わない、あれをしてくれないなら神様を捨てよう、そんなものではありませんでした。彼らにとって大事だったのはいつであろうと、どこであろうと、神様を求める事だったのです。今、神様を、神様の御心がなることを求めたのです。

 

神様は↑で「あなたがたの父たちのおきてに従って歩むな。彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なえ。また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ」と仰られます。このことばは神様の恵みを恵みと思わず、汚し、約束の地に入れなかった世代の子の世代、そして今イスラエルの民に、また私たちに向けて語られている言葉です。

 

神様は私たちが、神様から与えられているこのいのちが、世の中を支配する勢力、考え方や偶像や神様以外のものによって汚されることを悲しまれるのです。以前偶像について分かち合いましたが、それは神様以外のものに心がコミットしているもの、繋がっているものです。神様を置き換えると言いますか、自分の都合のいいものに置き換えると言ったらいいのでしょうかね。昨日の金の子牛像の問題と同じです。

 

ただ、果たして神様は本当にあなたに最善をなしてくれないのだろうか?人は自分にこれは合わないからと言って自分の都合のいいことばや思想に神様を置き換えようとしますが、神様はそんなにダメなんですか?私たちが今生きている世界は当たり前に思えて、実は神様が造られた世界であり、神様が与えて下さったいのちです。それをどうして私たちが否定する事ができるでしょう。自分が神様になれるのでしょうか。そんな人、また置き換えようとしている何かはその神様に勝ることができるとでもいうのでしょうか。そうして神様が本来あなたにもたらしたい恵みを失って、もしくは自分の手で変えたところで何になりましょう。

 

むしろ神様は今、「わたし=神様の安息日」をあなたにもたらしたい。聖く聖なるもの、その関係にあなたを招きたいのです。人が自分の思う聖と思われる事をつくるのではなく、神様が聖なる日をあなたの内にもたらされる。神様の愛が、神様の御心が、神様の全てがあなたを覆う日をあなたの内にもたらしたいのです。あなたのいのちを聖なるもの、神様の恵みに満ち溢れたもの、この天地万物をつくられ、あなたをつくられた、何章も前にも見ましたが、へその緒さえ切ってもらえず捨てられていたような赤ちゃんさえ、神様は抱きしめ、家族に招き、その神様の愛情全てを注いで御目麗しいものへと育てたように、あなたを神様はそのようにしてくださるのです。神様とあなたは確かにこの目に見えないへその緒で今日も繋がっている。この方からすべての良きものがあなたに注がれているのです。

 

私たちはこの神様が招いてくださっている聖なるもの、いのち、日々を、安息の日を蔑ろにしていないだろうか。それは↑の前で見た約束の地に入ってから、救われてから、ある特定の日だけの話ではありません。神様はこの世から救い出し、私たちを神様の本物のいのち、安息の内に招こうとされているのです。あなたが滅ぼしつくされることがないよう、神様はそれでもあなたを諦めない。

 

パウロという人は、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。…」と手紙で書き送ります。しかし、こんな愛など人は持ち合わせていない、むしろ逆です。そのような偽りの愛の中に縛られている私たちに、神様はこの完全な愛を御子イエス様にあってもたらされたのです。この愛の内に招かれたのです。

 

本来私たちは↑の最後で神様に言われているように、滅ぼされてもおかしくない中にあって、神様は寛容で、親切な心を示され、神の御子イエス様を人として生まれ、仕えてくださるというあり得ないほどに高慢ではなくへりくだられたのです。神様は人のした悪、罪を喜ばないゆえに、滅ぼすのではなく、私たちのこの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせるというあり得ないことをされてまであなたを滅びの内から救おうとされたのです。神様を求めずいつまでも好き放題に歩む私たちを見捨てるのではなく、むしろ我慢され、御子イエス様を罰し死なせたのです。あなたが信じ、いのちを得ることを期待して。そこまでしてまであなたへの愛を貫かれたのです。イエス様の十字架上での苦しみを見て耐え忍んでまで、あなたを愛することを貫かれたのです。

 

私たちはこのイエス様の愛を、いのちをもって今日、神様の本物の安息、このいつまでも残る愛の中に招かれている。これ以上の愛を私たちはどこに見出す事ができるでしょう。パウロは先ほど紹介した手紙の中で、続けて「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と書きました。最も優れたこの愛を私たちは信仰・求めよう。いつまでも残るこの愛の内に本物の希望があるのだから。この神様を追い求めよう。この神様が成されることに大いに期待しようではありませんか。神様がイエス様にあって結ばれた、いつまでも残る関係、安息の内に、神様のくださる賜物、実が結ばれる、神様の語られることが実を結び、実現される、神様が、そのあなたの内に熱心にその愛を、全てを注ぎだされるから、私たちもこの神様を熱心に求め続けようではありませんか。