―心・血の通った、本物の関係へ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「第七年の第五の月の十日、イスラエルの長老たちの幾人かが、主に尋ねるために来て、私の前にすわった。そのとき、私に次のような主のことばがあった。『人の子よ。イスラエルの長老たちに語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。―神である主の御告げ―あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ。あなたはさばこうとするのか。彼らの先祖たちの、忌みきらうべきわざを彼らに知らせよ。彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルを選んだとき、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせ、わたしがあなたがたの神、主であると言って彼らに誓った。その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った。わたしは彼らに言った。【おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である】と。それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。」

エゼキエル書20章1-9節

 

心が通わない関係って悲しいですよね。表面的な関係、表面的な言葉で成り立つ関係。まあ世の中そんなにうまくいかないよ、と言われたらそれまでと言えばそれまでなのですが、それ、悲しくないですか?でも、そこに神様を求めるなら変わる。神様の愛を求める時、神様がそこにおられる時、すべては変えられる。神様は神様のお心を注ぎだし、最善へと導かれる。私たちは神様を過小評価したり侮ったりしてはいけない。あなたをつくられた神様が、あなたに、私たちに全ての良いものを備えてくださった神様、つくられた神様が成されることに大いに期待しようではありませんか。神様の愛は私たちの想像をはるかに超えたことをなして下さるから。あなたを世の思い煩いから、罪の呪いから取り出し、神様のいのちの内に招くためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方が今日、あなたと共におられ、働かれようとされているのだから。

 

さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚の際に、バビロンに捕囚されたイスラエルの民に向けて、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きです。神様は、これまで、様々な幻や預言を通して民に、その御思い、ご愛を訴えてきました。↑の少し前の章では、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを神様は抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いてくださったその姿、思いを示されました。神様はそうして彼ら、私たちに、生きてほしい、生きよ!とご自身の戸、天の窓を閉ざすことなくその恵みを注ぎ続けていたのです。また、「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。…悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよと」神様の全ての思いを込め、その愛を訴えられたのでした。

 

話を↑に進めて、時間がこれまでの章から進みます。エゼキエルに神様が最初に預言された時は第一次バビロン捕囚によってバビロンに連れてこられたばかりの頃、紀元前593年。最近見ていた章は、その時から390日たった頃の預言ですが、この章に入って今は紀元前591年。第2次バビロン捕囚まで残すところ5年と差し迫ってきた頃の話です。

 

ここでも神様は語ることをやめません。それは彼らを見捨てていないからです。ここでエゼキエルの所に長老たちが祈ってほしい、と進み出ます。しかしここで驚くべきことを神様は語られるのです、「人の子よ。イスラエルの長老たちに語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。―神である主の御告げ―」と。

 

え?神様は彼らの願いを聞き入れないの?と思いたくなります。私たちだってそうですよね。こんなに願っているのに、祈っているのに、なんで神様は祈りを聴かないんだ、叶えてくれないんだ、と思いたくなることもあるでしょう。でもちょっと待ってください。神様はあなたの祈りを叶えさせるための道具?便利な存在?機械?違いますね。神様は、人類始まって以来祈ることを教えられた以上、祈りを聴かれる方です。ただ祈りはただ願いを言うだけのものではなく、私たちと神様を繋げるものです。ただ願いを言う、叶える・叶えないの関係ではなく、血の通った、心の通った関係なのです。

 

神様は、この章の中盤辺りで彼らについて「あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない」と語っているのですが、彼らはそうした血の通わない、それこそ偶像とか、日本的には神社とかですか?自分の願いを叶えてもらいに行く、そんな感覚で神様に祈ってほしい、と来たのです。しかし、神様が彼らに成し遂げたいのは神様の御心、人の思いをはるかに超えた計画です。神様は血の通った関係の中で、神様の最善を彼らに、私たちに成したいのです。祈る相手、祈るべきことを間違えていませんか?と神様はここで諭されているのではないでしょうか。それがこの後から続く、イスラエルの民と神様の関係の中にも表れてきています。

 

イエス様は祈りについて、「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と教えられています。ん?何でも祈れば叶えてくれるの?それなら先程の話と違うのでは?といわれるかもしれませんが、そうではありません。

 

「神(様)を信じなさい」とイエス様は仰られています。偽の神とか、この世の価値観とか、人が作り上げた偽神ではなく、この天地万物をつくられたまことの主なる神様を信じなさい、と。この方がなされることを信じ、求めなさい、と仰るのです。その時、私たちがこんなの無理だとか諦めるようなところ、こと、その中に神様が私たちの思いをはるかに超えたことをなして下さるのです。私たちが心に思い浮かべた、疑いながら考えることではない、神様が、血の通った神様が、あなたに血・愛を通わせ、最善を成し遂げてくださるのです。

 

ここまで見てきたように私たちが死ぬのではなく、神様にあって生きてほしい、と訴えられた神様は、あなたがそれこそへその緒さえ切ってもらえず、見捨てられた赤ちゃんのようになっている姿を見て、神様は見捨てることなどできず、むしろ神様の血の通った関係に招いて、世の悲しみから癒し、神様の御心で覆う、新しいいのちへと招きたいのです。願って叶えて叶えられなくて、とかそういう関係ではなく、神様の血・愛で結ばれた関係故に現される神様の最善で。

 

イエス様は十字架にかかられる前夜、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」とも約束されました。イエス様の御名によって祈り求める、その時私たちは先に述べた地上のものレベルではない、天的、神様の御心が現わされ、私たちの内側が喜びに満ち満ちたものとしてくださるのです。神様は、私たちをこのイエス様の御名によって、血によって結ばれる関係に招かれた、その新しい旅路に今導かれるのです。

 

↑の後半から、かつてイスラエルが400年近くの間エジプトの奴隷とされていたところから神様が救い出し、新しいいのちの旅路へと導かれていく様子が語られていきます。詳しくはまた明日以降分かち合いますが、↑で神様は「わたしがイスラエルを選んだとき、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせ、わたしがあなたがたの神、主であると言って彼らに誓った。その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った」と語られます。民がどうにもならない絶望下にあって神様は目を留めておられた、彼らが何かを求める前から神様は彼らに目を注ぎ、人の目には分からない中で神様は祝福し、ときの王ファラオさえ恐れさせるほどに神様はその御手を伸ばされていた。私たちは絶望下で諦めるのでもなく、またそこの習慣に妥協して従うのでもなく、神様の御心を求めたいものです。神様が誓われた約束は必ず果たされ、私たちを暗闇から連れ出して下さるのだから。今イスラエルの民に、同じように神様がくださる本物のいのちの道を改めて振り返りながら、彼らを導こうとされているのです。

 

神様は、この誓いを御子イエス様にあって私たちにも果たされました。先程のイエス様の御名、それは↑の長老たちのように神様という方がありながら、愛され守られていながら、神様を神様とせず離れている、そんな私たちを、へその緒を切ってもらえない赤ちゃん、どうにもならない私たちを見捨てず、むしろ私たちをそのどん底から救い出すため、御子イエス様を私たちの間に住まわせて下さり、その愛を惜しむことなく現されました。私たちと同じ重荷を、道を歩まれ、血の通った関係を結ぼうとされました。しかし、それでも神様に帰らない私たちを見捨てて帰るのではなく、むしろ私たちのこの重荷も痛みも、罪も全部身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。神様がこの罪のも荷をイエス様に背負わせ、私たちの身代わりに罰せられたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

このイエス様の十字架、流された血潮、その御名のゆえに私たちは神様に今日結ばれる。そしてこのイエス様ゆえに、私たちは新しいいのちの内を、これほどまでに愛された神様が導かれる、その恵みを注がれるこのいのちの内を歩ませてくださるのです。このイエス様が世の終わりまで導かれるのです。神様の心・血の通った本物の関係、私たちはどれだけ信頼しているだろうか、求めているだろうか。今日この主の御前に座し、主の名を呼び求めよう。昔話でも、寓話でもない、本物の神様とあなたの血の通った命の日々がここから始まる。