「次のような主のことばが私にあった。『さあ、反逆の家に言え。これらがどういうことなのか、あなたがたは知らないのか。言え。見よ。バビロンの王がエルサレムに来て、その王とその首長たちを捕らえ、バビロンの自分のところへ彼らを連れて行った。そして彼は王族のひとりを選んで、その者と契約を結び、忠誠を誓わせた。バビロンの王はこの国のおもだった者たちも連れ去っていた。それは、この王国を低くして、立ち上がれないようにし、その契約を守らせて、仕えさせるためであった。ところが、彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。そんなことをして彼は成功するだろうか。助かるだろうか。契約を破って罰を免れるだろうか。わたしは生きている、―神である主の御告げ―彼は、自分を王位につけた王の住む所、彼が誓いをさげすみ、契約を破ったその相手の王の住む所、バビロンで必ず死ぬ。戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。わたしは彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をバビロンへ連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく。彼の軍隊ののがれた者もみな剣に倒れ、残された者も四方に散らされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知ろう。』」
エゼキエル書17章11-21節
時に人はどうにもならないくらいどん底と思えるような状況に置かれることがあります。これはもう、色んな人がいて、罪がはびこっている以上どうしても起こりえる話です。だから神様はいない、と言われるかもしれませんが、そうではなく、私たちはだから神様を求めて良いんです。あなたのいるところを誰に明け渡すのか、その問題や問題を起こしている人?いえ、むしろすべてを治めてくださる神様の御手に委ねよう。その場は神様のものとなる。神様が変えてくださる。自分の方法、自分の経験に頼るのではなく、神様に委ねよう、信頼しよう。神様がその道を、日々をまっすぐにされるから。あなたは今日、誰を待ち望んでいますか?
さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚期、バビロンに捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。特にここでは神様は具体的に何がこれから起ころうとしているのかを語られます。↑の前の箇所ではそのことをなぞかけ、たとえをもって語られていましたが、ただ淡々と起こることを語って、ほらあなた方が悪いから、こうなったんだ、と語るのではなく、だから神様に今こそ求めよう、と語るのです。↑の前の章で見た、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いた神様は、やはり彼らを見捨てられなかった。神様は今日もその天の窓を開き、彼らが帰ってくるのを待っている、そのために今彼らに向けて語られているのです。傷つき倒れた彼らをそれでも愛し、抱きしめ、癒そうと。本当の意味で回復させようと。
神様は↑の前で「人の子よ。イスラエルの家になぞをかけ、たとえを語り、神である主はこう仰せられると言え。大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り、その若枝の先を摘み取り、それを商業の地へ運び、商人の町に置いた。ついで、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した。さて、もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲がいた。見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした。このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた。神である主はこう仰せられると言え。それは栄えている。しかし、主はその根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの軍勢を必要としない。見よ。それが移し植えられたら、栄えるだろうか。東風がそれに吹きつけると、それはすっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう」と、現状をなぞをかけ、たとえをもって語られましたが、↑でその解き明かしがされます。
少し解き明かしをまとめますと、年代的にはBC597年に、古代イスラエル・南ユダ王国のエホヤキン王がバビロンに捕囚されていったわけですが、ゼデキヤ王はバビロンに誓いを立て、属国となったのですが、イスラエルもバビロンの属国になることで、バビロンから便益は得ていたようです。しかし、ゼデキヤは途中で反逆し、エジプトに使者を送って、バビロンに対抗すべく軍事同盟を結びました。そのため、バビロンは怒り、このエジプトへの援軍要請が、バビロンがエルサレムを包囲し、これを完全に滅ぼす原因となりました。一時、エジプトと戦うためにバビロンは包囲を解除しますが、すぐに戻ってきて包囲を続け、エルサレムを火で焼かれ、ゼデキヤは見るも無残な家族の最後を迎えるのでした。
それにしても、どうして神様は起こる事実をすぐ語られるのに、あえてなぞかけをしたのかな、と思うところですが、実はこの謎の解き明かしの中でも見えるですが、私たちはこのような問題やきつい事が起こるとその現実を直視して、そこにばかり目が行き、心が奪われてしまい、希望を失う。
でもそうじゃないんです。その現実の中に、神様がおられる言うことを私たちは知るのです。この現実に起こることについて、神様が語られている。神様は私のことを気にしていない、と人はどうしても考えたくなりますが、神様は見ておられる。その神様に目を向けてほしいのです、神様は。あなたが見るべき事はそこではない、神様が何をされようとしているのか、神様がどのように働かれているのか見てほしい、あなたを世に奪わせるのではなく、神様の働きを求め、神様の結ばれる実を待ち望んでほしい、それがこのなぞかけと、解き明かしにあるのではないか。人の目から見た景色と、↑の神様がなぞかけされている姿で見方が違う、人の目から見たらどんなに困難なものも、神様の御手の中にあってはすべては変えられるのです。
↑の神様の解き明かしの中で「それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう」とありますね。神様はこのような中で死んでいる、死んだのではない、神様は生きておられる。この事を私たちは忘れてはいけません。このネブカデネザルによる契約の背後には神様がおられた、といのです。神様が頭上に果たそう、というのです。ゼデキヤ王はこの背後に働かれている神様に信頼せず、この契約を破棄して神様の恵みを失っていってしまいましたが、本来はこの事を通して神様は恵みを注ぎたかった、神様の良いことを彼らの頭上、彼ら自身に覆いたかったのです。だって彼らは神様にとっては大切な子、あなたもですよ、あなたも大切な子、それゆえに神様から離れ苦しむ彼ら、私たちへその緒を切ってもらえず見捨てられていた彼らを神様は生きよ、生きよ、と言って抱きしめ、ご自身のもの、ご自身の家族にされたのではありませんか。
↑の前のなぞかけの中で「その地の種(ゼデキヤ)も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった」と仰られましたが、まさにその低くされている彼ら、厳しい、ここに何の良いものがあろうか、と思う中にあって神様は働かれていたのです。それでも成長させよう、豊かな実を結ぶぶどうの木、あなたとさせようとしてくださったのです。神様の全ての良い実をあなたの内に結ばせ、喜びに満ちる、神様の喜びで生きるものと働かれていたのです。
多くの迫害、理不尽に会いながら生きていたパウロは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と語ります。神様が、働かれている、神様が、働く。神様が、益としてくださる。あなたはこれを信じますか?世が、働くのではない、神様が働かれ成し遂げられることは私たちの想像をはるかに超えたものです。神様が成し遂げられることをどうして私たちが疑うことができるでしょう。世が成し遂げることをどうして求める必要があるでしょう。神様がすべてをかえてくださるなら、私たちがすべきことは神様の御前にひれ伏すことではありませんか。
12弟子の一人だったペテロもまた「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます」と語ります。神様が引き上げてくださる。神様が力強い御手を働かせてくださる、だから私たちはただこの神様の御前にひれ伏していい。神様が驚くべきところに私たちを引き上げてくださる、神様ご自身のところに私たちを引き上げてくださるのです。
私たちはこの神様が示された愛を今一度覚えよう。神様は私たちが滅びるのではなく、生きてほしい、とへその緒さえ切ってもらえず見捨てられたような私たちを救い、生きよ、とその御手を伸ばされました。ただ愛を語られるだけではない、その愛を実行に移すべく、御子イエス様を私たちのために与えてくださりました。どこか遠くではない、私たち人の間に住まわれ、自らへりくだられ、私たちの間に愛を現され、癒され、また語られ、導かれました。どんなに裏切られようとも愛することをやめませんでした。そしてついには私たちのこの重荷、思い煩い、痛み、何より罪一切を御子イエス様に神様は身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。私たちが本来負わなければいけない刑罰を。そこまでしてあなたを愛することを選ばれたのです。罪人として死にゆく、滅びゆく、罪に支配されるものとしてではなく、神様の子として引き上げるべく。そう、私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、3日目によみがえられたイエス様の復活の恵みに、私たちもあずからせていただき、神様の子に引き上げられるのです。
ここまで愛し抜かれたイエス様が、今日、今ここにおられる。このイエス様にあってあなたは新しくされた、全ては新しくされる。もうあなたを、この地を世に渡してはいけない。あなたはこのイエス様のいのちにあって買い戻されたのだから、このイエス様にただ信頼しようではありませんか。いのちを惜しまなかったイエス様があい働かせて成し遂げてくださる益、最善を私たちは待ち望もう、信頼しようではありませんか。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」から。
