―惜しまなかった支援― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。」

使徒の働き11章27-30節

 

誰かが誰かを助ける、気にかける人がいるというのはいいですね。私たちの助けはどこから来るのか。普段の付き合いからくる場合もあるのでしょうが、もちろんそれも嬉しいのですが、何の見返りを求めずただその人が助かってほしい、一緒に考えて悩んで助けてくれる、そんな関係があったら最高ですよね。神様は損得ではなく、惜しむことのない愛をあなたに注がれるのです。あなたを助ける、救うためなら、御子イエス様のいのちをまずあなたのために与えてくださった、それほどに私たちを愛してくださっているのです。この愛に私たちは今日生かされているのです。このイエス様から離れるのではなく、この惜しむことのない愛で結ばれたいのちの内を今日も歩ませていただこうではありませんか。

 

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様が昇天されて後、かつてイエス様が約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生、聖霊様の働きがまさに始まったころのこと。一方で、イエス様の命がけの、十字架による救いが示されてもなお、神様に帰らない人たちによってイエス様を信じる人たちへの迫害が始まるのでした。初代教会のホープも殺害されました。それでも神様はその愛を止めて、見捨てて、世を終わりにしようともされず、それでもまだ神様を知らずにさまよう人たちのもとにその愛を聖霊様の働きによって届けられていきます。あの初代教会のホープ殺害、キリスト教徒への迫害の急先鋒に立っていたサウロを含め、イスラエル以外の人たちにもその愛は届けられ、神様の救いに与っていくのでした。

 

そうしてユダヤ人だけではなく、またかつてアッシリヤやバビロンによって離散されていった人たちのところにも、諸外国にまでその愛は届けられ、外国にも教会がたてられスタートします。今こうして全世界に教会がたてられているのは、まさに神様の愛がそこに届けられた証であり、そこに神様の愛を現したいというそのご意思そのものなのです。

 

そのような中で、今のトルコの辺りにあたるアンテオケに初めて異邦人・ユダヤ人から見た外国人ですが、そこに教会が建てられました。その彼らを支えるため、バルナバ(キプロスの生まれで初代教会を支えていた一人)や、あの元迫害者のサウロも彼らを助けるために来ました。神様はある一部の地域にだけ働かれるのではなく、イエス様が、全世界に出ていき、全ての造られたもの(ようするに人)に、福音を届けなさい、と仰られたように、まさかこんな人に、こんな地域に、と思うようなところにも神様の愛を現し、回復させたい、神様のいのちで、神様の全てで満たしたいのです。神様はここで人を遣わしていますが、まさに神様ご自身が彼らを遣わしながら、彼らを通して神様の愛を届け、そこに神様の驚くべきわざを現そうとされているのです。

 

神様の愛が届かない場所はありません。だってそうでしょう?せっかく神様が救い主イエス様を、多くの人が待ち望んでいたイエス様をお与えになったのに、自分たちの思う通りにしないイエスなど救い主ではない、と迫害し、ついには十字架に架けたような人たちのためにさえ、イエス様は彼らの罪を身代わりに背負って、十字架上で身代わりに罰せられた、その時、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と彼らの赦しを懇願されたほど。神様はこんな私たちを、希望を失い、悲しみの中をさまよう、本物の神はどこにいるのか、と求める私たちを見捨てず、その救いをイエス様をもって完遂されたのです。

 

その愛があなたに、あなたのいる場所に、届けられているのです。その愛を今現そうとされているのです。私たちはあきらめてはいけませんよ?神様がアンテオケという、まだ神様のことを知らない民たちのところにこのイエス様の究極の愛、十字架による救いを届けられたように、あなたの内に神様の家を建て、その愛を現されるのです。神様の支援は留まるところを知りません。あなたのところにも届けられる、それはこの世のレベルではない、これだけの惜しむことのない愛を注がれた神様があなたに届けられるのですから、なんと幸いなことでしょう。

 

そんなアンテオケ教会に神様は預言者を遣わされました。預言者、これは旧約聖書の分かち合いの中でずっと預言についてみていますが、ああした人たちです。ただ未来を予想して伝えるのではない、神様のことばを預かり語るのが預言者です。もちろんその中には未来的なことも語られます。黙示録などがいい例でしょう。でもただ未来を語るだけではなく、私たちがどう生きるのか、それを神様は語りながら導かれるのです。

 

その遣わされた預言者の中でアガポという人が、この後大飢饉が起こることを告げます。実際にクラウディオ帝の治世(AD41-54)の間に何度も大飢饉があった事が歴史的にもわかっています。でもその預言を受けた時、何をするか、これが大事です。神様が語られた、だから神様に信頼する、これがとても大事なのです。神様はただ起こるからね、というだけではなく、神様ご自身がここにおられる、救われたらもう終わりではなく、むしろここに教会が建てられ、神様が住まわれているのだから、この神様に私たちは留まる、イエス様のいのちを惜しまず与えられたこの神様がこのいのちを広げてくださるのだから、信頼していいんです。

 

弟子たちを通して神様は救援物資を彼らに送られました。神様はすべてにおいて支えてくださっているのです。イエス様の十字架による救いは何か精神的な回復を指すのではなく、あなたを丸ごと救ってくださった、この復活のイエス様があなたの内に住まわれ、霊肉共に満たされ、守られるのです。教会、神様の家が、いや、神様ご自身があなたの内に今日住まわれている、なんと幸い、とあなたは思いますか?私たちはこのイエス様のいのちに現される神様のあらゆる恵みに感謝し歩もうではありませんか。神様は惜しむことなく今日もあなたにその愛を、神様の全てを注がれ、現わされている。飢饉という絶望の中にあっても神様の支援は届けられる。そのような暗闇の中で、神様から離れ、あなたの内に飢饉を迎えることがないよう、神様をいつでもどこでも求め続けようではありませんか。