―失われた時が回復される日― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主よ。私たちに起こったことを思い出してください。私たちのそしりに目を留めてください。顧みてください。私たちの相続地は他国人の手に渡り、私たちの家もよそ者の手に渡りました。私たちは父親のないみなしごとなり、私たちの母はやもめになりました。私たちは自分たちの水を、金を払って飲み、自分たちのたきぎも、代価を払って手に入れなければなりません。私たちはくびきを負って、追い立てられ、疲れ果てても、休むことができません。私たちは足りるだけの食物を得ようと、エジプトやアッシリヤに手を伸ばしました。私たちの先祖は罪を犯しました。彼らはもういません。彼らの咎を私たちが背負いました。奴隷たちが私たちを支配し、だれも彼らの手から私たちを救い出してくれません。私たちは、荒野に剣があるために、いのちがけで自分の食物を得なければなりません。私たちの皮膚は、飢えの苦痛のために、かまどのように熱くなりました。女たちはシオンで、おとめたちはユダの町々で、はずかしめられました。首長たちは彼らの手でつるされ、長老たちも尊ばれませんでした。若い男たちはひき臼をひかされ、幼い者たちはたきぎを背負ってよろめき、年寄りたちは、城門に集まるのをやめ、若い男たちは、楽器を鳴らすのをやめました。私たちの心から、喜びは消え、踊りは喪に変わり、私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。シオンの山は荒れ果て、狐がそこを歩き回っているからです。しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。」

哀歌5章1-22節

 

人付き合いって本当に難しいですよね。それぞれの主張があり、それは仕方ないにしても、気にくわなければあっさり切ったり。ここ最近は自分の考えに反することには徹底的に攻撃する傾向が見えるのが本当に怖いところですが。でも本当に友と呼べるのは困った時に、座り込むような時にも一緒に考え、一緒に立ち上がらせてくれる、寄り添える人なのかな、と思う。そうした友がこんな私にもいますが、口だけではなくそうした時に本当にすぐに駆けつけ、またそこまで、というほどに助け立ち上がらせてくれました。神様は人は一人でいるのは良くない、と私たちにふさわしい助け手を与えて下さる事を約束されましたが、確かに神様は誰かを通して助けて下さったり、何より神様ご自身が寄り添い、私たちを回復へと導かれる。本来あるべき日、神様との命の日々に。御子イエス様のいのちをあなたを救うためなら惜しまないほどに、愛されるこの神様に私たちは今日も信頼し歩もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国がバビロン捕囚によって完全に滅ぼされ、民が連れ去られていった時、神様に最後まで帰らなかったそんなイスラエルの民をエレミヤが見、そうして嘆きの歌・哀歌を歌ったものです。彼はかの神様の栄光が輝いていたエルサレム神殿が見る影もなくなってしまった、民もバビロンに捕囚されて行った、その姿に悲しみを覚え歌うのです。でもそれは絶望で終わららない、この絶望を希望に変えてくださる、もう一度神様の希望が輝き、回復させて下さる事を信じ、神様に心を今向けて歌うのです。

 

なおエレミヤは「主よ。私たちに起こったことを思い出してください。私たちのそしりに目を留めてください。顧みてください。私たちの相続地は他国人の手に渡り、私たちの家もよそ者の手に渡りました。私たちは父親のないみなしごとなり、私たちの母はやもめになりました。私たちは自分たちの水を、金を払って飲み、自分たちのたきぎも、代価を払って手に入れなければなりません」と続けて祈りの歌を歌います。

 

エレミヤは何でこんなことがあったのか、神様は何もしてくれない、愛してくれない、と神様から離れるのではなく、だからこそ神様を思い起こします。むしろこの神様がいなければ、神様の助けがなければだめなんだ、ここにしか救いはないんだ、と。

 

エレミヤは、誰にも目を留められない、顧みられない、自分たちの土地も何もかも敵の手に渡ってしまった、誰も助けてくれない…そのような状況を今目の前にしています。しかし、そもそも彼らの地も、彼らのいのちも神様が与えてくださったものなのです。まあ、この天地万物を造られたのは神様ですから、神様から住まわせていただいているのですが。そして神様がその地に働かられ、全ての食べ物や自然もでき、維持されるようになったわけです。私たち人間だって神様がその手で作られ、霊を吹き込まれ生きたものとしてくださったし、私たちにふさわしい助け手を神様ご自身が備え、連れてきてくださった。そういう意味で、神様がいるから、神様がそこに愛を現されるからこそ、生きるのです。

 

人は自分の人生、命は自分のものだ、と考えます。ただあなた一人ではやはり生きられないですよ。互いに愛し合う、支え合う中で私たちは生きているのです。そのあなたをだれが支え、誰が守るのか、これは非常に重要なのです。イスラエルの民は、これは自分に利益をもたらしてくれるに違いない、と思って神様をどかしてそれらに自分の手を委ねた、しかし彼らは自分たちに利益をもたらすどころか、彼らの尊厳と言いますか、大切にしているものを奪っていった、顧みて助けてくれるどころか彼らはいざとなったら助けることができなかったのです。

 

まあ自分たちで神様なんかいらない、としたわけですからある意味では自業自得と言われても仕方ない話かもしれません。私たちだって神様なんていなくても生きていける、なんていうなら神様から見放されて、誰も保護し守る方がいない状態になっても仕方ない。しかし神様はそのような私たちを黙ってはいられないのです。忘れるのではなくいつも覚え、あなたに目を留め、あなたの保護者となろうとしてくださる、その御手を伸ばして下さっているのです。だってあなたは神様によって造られた、神様にとって大切な存在なんです。この神様に私たちはどれだけ心を向けているだろう。

 

神様はすべての良きものを与えてくださっているのです。このバビロン捕囚というどん底の中にあっても神様は見捨てず語られ、多くの人を送り、また時に奇跡をもって救い出されることもあった、神様は奪われた彼らを、あなたを何とか取り戻したいのです。人は神様の介入を嫌がる傾向がありますが、しかしむしろ私たちは神様のものではありませんか。神様が私たちに悪を働かれることなどない、むしろ私たちを悪に走らせようと世の勢力や思い煩い、罪、サタンなどはあなたを陥れようとする、しかし神様はあなたに良いものを与えたいのです。

 

彼らは代価をもって水やら食料を買い、薪さえ代価をもって買わなければいけない、そうやってああしたら与える、これだけお金を出せば何か良いことをあなたに与えようとか、何か取引させて初めて何かを与える、そんなものにどうしてあなたに良いものをもたらすことができるでしょう。それが世の勢力と言うか世、また罪だったりサタンのすること。サタンも自分を伏し拝めばこの世の全部をあげようとイエス様に誘惑を仕掛けてきた、でもすべての良いものは神様からくる、神様は最初からすべてを与えてくださっていたではありませんか。タダで私たちに与えてくださっているんです。私たちは神様に頼るだけでいいんです。神様ご自身がその時あなたを包み生かして下さる、ご自身の霊、全てをもってあなたを癒し、生かして下さる、あなたを神様ご自身が建てあげてくださるのです。

 

この神様があなたに生きるための全てを、渇くことのない水を溢れさせ、飲ませてくださり生かして下さる。心身ともに、生きるのに必要な水、霊の水両方をあなたに与えてくださり生かされるのです。あなたの内に薪をくべてあなたを暖め、立ち上がらせてくださる、神様の霊があなたの内に燃え、私たちはこの神様の情熱的愛によって生かされるのです。

 

たとえ、↑でエレミヤが歌っているように、だれも彼らの手から私たちを救い出してくれないような状態であっても、荒野に剣があるために、いのちがけで自分の食物を得なければならないような状況にあっても、あなたに寄り添い、私たちを救い出される神様が、あなたのために戦ってくださる、あなたにいのちをもたらされる神様がおられるのです。荒野をさまよう私たちを探し出し、死にそうなほどに疲れた私たちを、魂の底から満たし生かして下さるのです。荒野で誰も何もない、そのような暗闇の中にイエス様を神様が遣わされた、そのイエス様があなたの傍にいてくださるのです。「私たちの心から、喜びは消え、踊りは喪に変わり、私たちの頭から冠も落ち」ようとも、私たちのこの喪服を神様のくださる衣に、偽りの冠を取り除き、あなたを本物の神様の子へと招きたいのです、神様は。私たちの内を支配する世の問題、思い煩い、また罪一切を取り除き、もう一度神様の愛のもとに招かれる、回復させてくださるのです。

 

エレミヤはこの哀歌の最後に「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます」と告白し、こんな状態でも神様はとこしえの神様、全てを治めるまことの神様、この神様がどうか我がうちに住まわってくださいと、神様をお招きします。そして「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください」願いました。それができるのは他の誰でもない、神様以外にはいないんだ、と。昔、それは東という意味があるそうですが、東から太陽が昇るように、救いは神様からまさに来る、義の太陽を神様が昇らせ、出迎えてくださる、新しくしてくださることを願ったのです。

 

神様は確かに彼の哀歌に答えた。私たちのこのどん底から救い出すために、御子イエス様を私たちのために遣わして下さった、迎えに来てくださったのです。私たちのこの罪ゆえに滅びなければいけなかった、その私たちを救うために、あなたのこのくびき、罪の代価、↑の最初にまさに出てきた代価です、これを御子イエス様が私たちの身代わりにいのちをもって支払わせるため、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら、その人の罪は赦され、まさにすべては回復される、あのエデンの園の時のような完全な関係に、神様の子として回復させてくださる、迎え入れてくださるのです。ここに全てを神様は備えられたのです。

 

私たちは今日、希望があります。世の中色々ある、でも私たちはすべてに勝利されとこしえの御座につかれる、代々に続くその御座に追わすイエス様に希望をもとう。あなたをそのいのちという代価を持ってまで取り戻された、そこまで愛されたイエス様が今日あなたと共におられるのだから。あなたの内に渇くことのない泉をわき出でさせ、いのちの焚火で燃やされるイエス様があなたの内今日もたらされる恵みに、ご計画に大いに期待しようではありませんか。あなたの廃墟を、あなたの周りをもう一度この薪・灯火で照らし、エデンの園のように回復させてくださる神様に今日私たちはすべてを委ねようではありませんか。あなたの哀歌を賛美に変えてくださるイエス様が与えてくださったこのいのちを。