私たちはどこかで神様を求める。
誰か、助けて、と心で叫ぶその対象を。
自分がうまくいくようにとどこかにお参りに行ったり、お金を出したり。
祈ったら叶えてくれると思ってそうしても実際にかなわないと、すぐに投げ出すこともあります。
↓はそんな中で、本当の神様って誰なんだろう、何なのかな?と思い返させていただいた記事です。よければ読んでくださいm(__)m
今から20年以上も前の話です。当時通っていた教会で学生会を導いていた頃、聖書の学びの時間に彼らに質問しました。
「みんなにとってイエス様ってどういう方かな?」
すると一人一人が順番に答えてくれました。
「何でも話せる相談相手です」
「友だちの中でも最高の親友かな」
「いつでも私と一緒にいて、守ってくださる方です」
なるほど、どれも間違いではありませんよね。
でも残念ながら、私が望んでいた答えはこの中にはありませんでした。あのお方は、何でも話せる相談相手であるという以前に、友だちの中でも最高の友だち(親友)です、カウンセラーです、と告白する前に、
まず「私の神、救い主です」という認識と信仰告白のほうが先です。
学生たちが考えていたことは間違いではありません。彼らの答えも事実です。聖書の中にもそのような言葉をいくつか発見することができます。
ですが、一歩間違えると、あまりにもイエス様に対して馴れ馴れしい心と軽々しい態度を持つ危険性が私たちにはあります。
必ず曲解して反論して来る人が出てくると思いますので、あらかじめ付け加えておきますが、
私がここで言いたいことは、イエス様は確かに私たちのかけがえのない友であり、相談相手ですが、イエス様は私にとってどういうお方であるのかという意識の優先順位のことをいま話しています。いたずらに恐れることは正しいことではありませんが、聖書的、信仰的に神を恐れる(畏れる)ことは非常に重要なことであると私は考えています。
たとえイエス様の肩に手をまわしても主は怒られるようなお方ではありませんが、
そのような親しげな態度を取る前に、まず私たちがなすべきことは、
このお方の前にひれ伏し、ひざまずき、神として礼拝することだと私は思っています。
「神は、神であるから、神を神とし、神を礼拝しなさい。」
これは私が学生たちに教えた言葉です。なんだか早口言葉のような感じがするかもしれませんが、一言一言、噛みしめながら読んでみてください。
神は(誰が何と言おうとも)神であるから、
神を(私/あなた)の神とし、
神を(唯一まことの神、救い主、王の王として)礼拝しなさい。
そういう意味です。
ペテロはイエス様の奇跡を目の前で見た時に、彼の正直な気持ちを主に告白しました。
ルカの福音書5章8節
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを救い主と信じたあの日の新鮮な気持ちを忘れてしまってはいないでしょうか? 天の栄光の御座にいます主を、あまりにも人間と等しい存在にまで引き下げてしまってはいないでしょうか?
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。(マタイの福音書16章15節~16節/口語訳)
もしも今、イエス様から同じ質問をされたら、あなたは何と答えますか?
友だち? 親友? 良き相談相手? それとも……
イエス様に対する信仰告白こそ、礼拝の中で最も香ばしい香りであることを覚えたいものです。
(しろくま先生)
神様を信じている、イエス様のいのちをいただいた、あなたがこの救いを受け取るならそこには神様の大いなる恵みが注がれる…それはこの世の価値では測れない。イエス様がくださったいのちがいかに大きいか、注がれている愛が素晴らしいかを今日改めてかみしめたいものです。
イエス様はあなたのためなら命を惜しまない方、それほどにまず愛を注がれた方、この方に大いに期待しようではありませんか。
