「さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、『アナニヤよ』と言われたので、『主よ。ここにおります』と答えた。すると主はこう言われた。『立って、【まっすぐ】という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。』しかし、アナニヤはこう答えた。『主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。』しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現われた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。」
使徒の働き9章10-19節
目から鱗、「何かがきっかけとなって、急に物事の事態がよく見え、理解できるようになるというような場合のたとえ」として用いられる言葉ですが、実はこれ、今日の箇所から生まれた言葉なんですよね。なんとなくひらめいた、気づいたときにこのことばがよく使われていますが、そんなレベルではない。私たちが目の前にあるはずの最善の物、自分がどうにもならない時に目の前に救いがあるのに気づかないでいる、私たちがその存在を知る時、目からうろこが落ち、落ちるだけではなく、それを見る、私たちはいのちを、平安を得るのです。イエス様は私たちが神様から離れている事さえ気づかずに、暗闇の中をさまよっている、そんな私たちの目の前に来られ、私たちを救おうと御手を伸ばされる。いのちを私たちの身代わりに差し出されてでもあなたを死から命へ、罪の奴隷から神様の子へと引き上げようと。私たちはこのイエス様の愛を見よう。この愛から離れず、このイエス様とともに新しい命の内を歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。聖霊様の働きによって多くの人たちがイエス様の救いを信じ受け入れ、その数は日ごとに増しています。同時にサウロという若者を中心にクリスチャンたちへの迫害が始まり、クリスチャンは離散されていきます。そんなサウロにある日突然天から光が照らされ、目が見えなくなります。復活のイエス様が現れ、どうしてわたしを迫害するのか、と問うのでした。イエス様は彼が迫害していたことから滅ぼすことだってすぐにできる、でも彼を救いに今来られたのです。
そのサウロはダマスコへ向かう途中の道にいましたが、そのダマスコではアナニヤという人がいました。彼にイエス様は「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです」と語られます。ちなみに、この「まっすぐ」という通りは今のダマスカスにもあるそうで、東西に平行に走っている二つの主要街路のうちの一つだそうです。
アナニヤも神様を信じる人でした。しかし彼に神様が語られたことはなかなか厳しいものがあります。彼自身、「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです」と言っているように冗談じゃない、という話です。ここでは言及されていませんが、初代教会のホープのステパノの殺害の件もあります、また自分たちを苦しめる人を何で助けなければいけないんだ、そのまま見えないままでいればいい、と人なら考えたくなる。
しかし、神様はこの本来向けられるはずの敵意を愛によって赦しに変えられたのです。サウロは後にその手紙の中で「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」と書き残します。本来彼自身が受けるのは敵意のはずでした。しかしイエス様がご自身のいのちを十字架に架けることによって、私たちの罪を和解のいけにえとされ、神様と私たちをつながれた、このイエス様の十字架の御前に罪悔い改める時、私たちは赦され、神様の子とされるのです。新しい人として今新しく造り上げてくださるのです。
今、この和解がサウロとアナニヤ、いやそれを超えて神様との間に結ばれたのです。アナニヤはこの愛に触れ、自分もイエス様の十字架によってこの敵意を破棄され、平和へと招かれた、その愛を受けた今、イエス様の平和がなお広がることを切に願い、このイエス様のことばに応答し、サウロのもとに行きます。イエス様が「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」といった言葉を信じて。彼を通してこの和解と平和が成し遂げられることを信じて。
ちなみに、「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」とイエス様は言われていますが、なんだ、罰を与えるんだ、と思いたくなるところですがそうではありません。イエス様の名前、イエス様を信じる中では同時に迫害もありますから苦しみます。イエス様も、「また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」と弟子たちにも語られていました。世の与える楽しみ、名誉を楽しむよりも、恐れるよりも、最後までイエス様を、イエス様の御名により頼む、その力により頼む、その中で救い、イエス様の勝利を私たちは見るのです。
サウロはこれまで目のうろこによってこの神様のすばらしさを知らずにいた、しかし今イエス様に触れられ、その目からうろこが、サウロのうろこが涙と共に、イエス様の憐れみの涙と共に落ち、今イエス様の栄光、勝利、救いを見るのです。神様の霊が、聖霊様があなたの内に満ち溢れ、新しいものとされるのです。私たちも最後までイエス様の名をどんな時でも求めるものであろう。イエス様の十字架の前に涙し悔い改め、この本物のいのちを歩ませていただこうではありませんか。イエス様のいのちにあって神様と和解させていただいた、ここに結ばれ現される神様の愛は、恵みは、御業は、力はいかほどか。アナニヤにとってはとても信じがたい出来事が起こった↑のできごと、しかし彼がそれでもイエス様を求めたように、私たちもイエス様の勝利を祈り、信じ、待ち望むもうではありませんか。
