「十日の後、主のことばがエレミヤにあった。彼はカレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての将校と、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、彼らに言った。『あなたがたが私を遣わして、あなたがたの願いを御前に述べさせたイスラエルの神、主は、こう仰せられる。【もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。―主の御告げ―わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる。】しかしあなたがたが、【私たちはこの国にとどまらない】と言って、あなたがたの神、主の御声を聞かず、【いや、エジプトの国に行こう。あそこでは戦いに会わず、角笛の音も聞かず、パンにも飢えることがないから、あそこに、私たちは住もう】と言っているのなら、今、ユダの残りの者よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。【もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき、あなたがたの心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう。エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。】まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。【わたしの怒りと憤りが、エルサレムの住民の上に注がれたように、あなたがたがエジプトに行くとき、わたしの憤りはあなたがたの上に注がれ、あなたがたは、のろいと、恐怖と、ののしりと、そしりになり、二度とこの所を見ることができない。】ユダの残りの者よ。主はあなたがたに【エジプトへ行ってはならない】と仰せられた。きょう、私があなたがたにあかししたことを、確かに知らなければならない。あなたがたは迷い出てしまっている。あなたがたは私をあなたがたの神、主のもとに遣わして、【私たちのために、私たちの神、主に祈り、すべて私たちの神、主の仰せられるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行ないます】と言ったのだ。だから、私は、きょう、あなたがたに告げたのに、あなたがたは、あなたがたの神、主の御声を聞かず、すべてそのために主が私をあなたがたに遣わされたことを聞かなかった。だから今、確かに知れ。あなたがたは、行って寄留したいと思っているその所で、剣とききんと疫病で死ぬことを。』」
エレミヤ書42章7-22節
どうしようもなくなると、人は一種の賭けに出ます。当たれば儲けもの、外れてもダメもとだった、と飽きられめられればいいのでしょうけど、結局のところ心がつかれる。でも、賭けに出なければいけない人生ってどうなのでしょう。不確かなものに頼る、それを支えにする。でも私たちのいのちってそんなものなのでしょうか。しかしあなたのいのちは神様が与えてくださったものであり、神様の愛が注がれているのです。欠けに出なければいけないほど不安定なのではない、むしろあなたをそのような神様からの恵みから離れた不安定な命から取り戻すために、御子イエス様のいのちを惜しまず与えてまであなたを救い出された方、この方が今日あなたを支えてくださっているのです。私たちは神様を求めましょう。神様の確かな愛が注がれている、その愛によって導かれているこの道を歩ませていただこうではありませんか。
さて、BC586年にバビロン帝国によって南ユダは完全に捕囚されてしまいました。それでもエレミヤはここに神様が回復させてくださること、もう一度再建させて下さる事を願い留まるのでした。そんな中で神様がネブカデネザルを通して立てられたゲダルヤというリーダーを、王族出身で戦地から帰ってきたイシュマエルという人が謀反を起こし殺害します。神様がそこでしあわせにしよう、とゲダルヤを通して語られていた、しかし彼は自分を王族のように扱わない、自分よりも下のものが上に立つ、それが我慢できなかっただけではない、そんな神様を認めたくない、というのもあるでしょうが、彼はその後アモンの地に離れていきます。神様よりも自分を認めてくれるところに結局行くのです。
一方でそのイシュマエルという人が捕らえ連れて行こうとしていた仲間を取り戻すためにヨハナンという人が動き、無事に奪還に成功しました。ところが、ネブカデネザルが、自分がたてたリーダーのゲダルヤを、同じユダヤ人のイシュマエルが殺害したとなっては、ネブカデネザルの怒りを買いかねない、と恐れ、エレミヤにこの先どうしたらいいか祈ってほしいと求めます。そして「私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます。私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです」と誓うのです。
ヨハナンは不安に満ちている、神様は本当に自分たちを幸せにしてくれるのか、確信が持てないでいました。これは私たちにも言えた話ですが、神様にどこかに確信がない。世の中を見て不安になって、神様は本当に自分を幸せにしてくれるのか、と。ヨハナンはエレミヤに頼みながらもある程度結論は出ていた、けど不安になっていたのです。
神様はそんな彼らを無下になされません。神様はヨハナンだけではなく、身分の低い者や高い者に向けて語られるのです。すべての人に幸せになってほしい、生きてほしい、と。神様は今「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。―主の御告げ―わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる」と語られた、神様ご自身が彼らの内に留まり、幸せを注ぎたいのです。
「神様が」あなたがたとともにいる、これがどれだけ希望に満ちたことか。それはもちろん今の時代も含め、世の中色んなことがありますよ。しかし神様がいるから、神様の内に留まるから、私たちは神様に守られる、どんなこともあなたを神様から引きはがすことなどできないのです。神様がおられるところには災いではなく幸いがあるのです。私たちが本来罪ゆえに本来さばき、災いを受けてもおかしくない、それでも私たちを憐れまれた神様がご自身のもとに、死ではなくいのちに招かれているのです。
ただ、彼らはこのエレミヤが語られるまでの間の10日の間にもう、エジプトに逃れる決断をしていたようです。彼らは「いや、エジプトの国に行こう。あそこでは戦いに会わず、角笛の音も聞かず、パンにも飢えることがないから、あそこに、私たちは住もう」と言っていたのを聞きます。このままここにいればバビロンの復讐にあうかもしれないし、パンに飢えることもない、そう考えていた、それを話しているのをエレミヤは、いや神様ご自身は知っていたのです。それを知ったうえで、神様は↑の最初の約束を語るのです。神様が共にいて、その戦いから、世の問題から救い出される、むしろ神様から離れるのではなく、神様の与えてくださる一つ一つの恵み、パンによって生きてほしい、と。神様は何を食べるか心配しなくてもいい、と約束された、その神様があなたを養ってくださるのです。
神様がもし彼らが滅びることを最初から願っているなら、こんなことを語らず、見放すでしょう。しかしその前に神様は生きる道を語られているのです。彼らの言うバビロンや不安、恐れ、そうしたものがあなたと共にいて滅ぼさせるのではなく、神様に留まろう、と。神様がむしろそれらから解放し、癒して下さるんだ、と。
サタンがイエス様を誘惑し、いかにも良いものを見せることで神様から引き離そうとしたように、私たちの不安をあおり、さまざまなものを世は見せてくるでしょう。神様は本当に良いものを与えてくれるのか?助けてくれるのか?そう私たちは疑いたくなる。でも、神様が私たちの内に住まわる時、それらの恐れから私たちは解放される、というよりも神様の良いもので満たされる時、私たちは神様に勝るものはないことを知るのです。この喜びに満ち溢れるのです。
神様がエレミヤを通して彼らに「もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき、あなたがたの心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう…」と告げられたように、私たちは恐れに支配されてはいけない。あなたの恐れているものにあなたを追い込ませてはいけない。あなたの心配をむしろ神様が心配してくださり、答えてくださる。それらによって神様から与えられたいのちを壊させてはいけない。
神様はエレミヤを通して彼らが、あなたがたは迷い出てしまっていることを告げますが、私たちは迷いでいる場合ではありません。もし自分にとって都合がいいなら従おう、そうでなければ従わない、などといって、賭けに出ている場合ではありません。神様がなさりたいのは、神様はそんな不安定な幸せや命を与えたいのではない、注ぎたいのではない、罪やサタンに支配させたくない、むしろあなたに生きてほしいのです。だから今真剣に神様は語っている。神様は真剣にあなたを愛されているのです。
だからあなたが滅びることがないよう、神様は御子イエス様をあなたの内に留まらせようと、人として生まれさせてくださりました。それだけじゃない、それでも神様から離れる私たちを見捨てず、私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架けられ、身代わりに罰し、死なせたのです。そこまでしてでも神様は真剣にあなたを取り戻そうとされたのです。ただ神様はイエス様を死んだままにされるのではなく、3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る人を赦される、罪人のままではなく、罪赦され、神様の子として迎えてくださるのです。イエス様を十字架に架けた人を、私たちを滅ぼされるのではなく、罪赦そうとされた。ここまで真剣に神様はあなたのゆく道を、いのちを心配されているのです。
私たちは今こそ世、罪から離れることを堅く決心し、神様に立ち返ろう、神様に堅く立とう。神様を疑いあっちこっちさ迷っている場合ではありません。賭けのような不安定な生き方ではなく、この神様の真剣な愛に信頼し歩もう。私たちに恐れや不安があるのは分かりますが、あなたがいる場所は御子イエス様のいのちによって取り戻されたいのち、神様が共にいる場所、一日です、その時です。これを私たちは侮ってはいけない。しかしこれらを神様に締めだしていただき、神様の喜びで満たしていただこうではありませんか。ここに神様のいのちが、喜びが溢れることを祈り続けたいものです。神様の真剣な愛が今日もあなたと共にある、現わされている、あなたは神様が備えられた今日信頼し、委ねていますか?