「カルデヤの軍勢がパロの軍勢の来るのを聞いてエルサレムから退却したとき、エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行った。彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子のイルイヤという名の当直の者がいて、『あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか』と言って、預言者エレミヤを捕らえた。エレミヤは、『違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない』と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れた。そこを獄屋にしていたからである。エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。ゼデキヤ王は人をやって彼を召し寄せた。王は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った。『主から、みことばがあったか。』エレミヤは、『ありました』と言った。そして『あなたはバビロンの王の手に渡されます』と言った。エレミヤはゼデキヤ王に言った。『あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。あなたがたに【バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない】と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。今、王さま、どうぞ聞いてください。どうぞ、私の願いを御前にかなえて、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。そうすれば、私はあそこで死ぬことはないでしょう。』そこでゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、町からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から、毎日パン一個を彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。」
エレミヤ書37章11-21節
私たちが辛い時、誰かがいる、逃げる場所と言いますか、居場所となるところがある、受け入れてくれる人がいるというのは本当にうれしい事です。心が休まると言いますかなんといいますか。別に逃げるとかそういうことではなくて、本当に歩むべき道に帰ることができる。私たちはそんな時に、どこにも逃げ場がない、と諦める必要はありません。私も自殺一歩手前で、神様が驚く形でその扉を開いて助けてくださったように、神様はあなたのことをだれよりも知っている。神様があなたにあなたを生かすパンを、いのちをそこに与えてくださっているのです。何もないと思う中で神様が、愛を注がれ、生きてほしいとその御手を伸ばされている、招いてくださっているのです。御子イエス様のいのちを惜しまず与えられるほどの神様が今日あなたにその愛を注ごうと招かれているのです。あなたはこの招きにどう応答しますか?
さて、↑は古代イスラエル王国、南ユダの最後の王、ゼデキヤの治世に起こった出来事です。神様はその少し前、バビロン捕囚より約20年程前のエホヤキム王の時代にエレミヤに向けて、「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」と語られエレミヤはこれを書きしるし1年、バルクという人にこれを外に伝えるように託します。しかしエホヤキム王はこの巻物を少し聞いては切り刻み、火にくべてしまいました。そうして彼はネブカデネザルによる悲しい死を迎えることになるのでした。しかし、神様の愛はまだやまらず、エレミヤにもう一度書くように伝え、さらに神様のことばが加えられた、神様の彼らへの思いはまだやんでいなかったのでした。
そうして時代は最後のゼデキヤ王の治世に進みます。ゼデキヤ王の治世で、一時的にエジプト軍が進軍してきたことでバビロンの包囲が解かれ、彼はエレミヤに祈ってほしい、と願い出るのでした。その中で神様は、エジプトは元の場所に戻り、バビロンが戻ってくることを告げられます。それは偶然起こった出来事ではなく、神様がゼデキヤが神様に心を向けかえってくることを願ってのことでした。その上で以前見たように、神様は彼にいのちの道と死の道を示された、神様は彼が滅びるのではなく、生きてほしい、と願い、彼の祈りを聴かれ、彼が生きる道を示されたのです。
神様は彼に帰る場所を用意してくださっていた、生きる道を用意してくださっていたのです。いや、正確にはもともと神様ご自身の内に住まわせようと、最高の場所に住まわせる、神様ご自身が全地を潤し、人を潤し生かすエデンの園に住まわせてくださっていたのですが、そこを人が罪によって離れたのですが、神様はそれでも見捨てず、彼らに恵みを注がれていた、神様ご自身というふところにいつでも飛び込んでおいで、と言わんばかりに待っていたのです。エデンの園がそうであったように、神様ご自身がおられることろに神様の恵みが、愛が、命が溢れるのです。
話を↑に戻し、バビロンの軍勢がファラオの軍勢の来るのを聞いてエルサレムから退却したとき、エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行きます。ところが彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子のイルイヤという当直の人が、バビロンに落ちのびるのかと言って、預言者エレミヤは捕らえられ、丸天井の地下牢に入れられてしまうのでした。エレミヤは神様からの預言を受け、生きるためにバビロンに投降しなさい、と言っていたので彼がそこに落ち延びようとしていたのではないか、と疑ったのです。
エレミヤの時系列から考えるに、おそらく以前の章であった、親族を通して神様が語られていた、アナトテの割り当て地を買い戻す、その手続きのようなことのために向かっていたのではないか、と思われるのですが、彼はバビロンにとらわれることを知っているからと言ってバビロンに落ちのびようなんて考えませんでした。実際にバビロンに完全捕囚される際、一緒に自分だけ逃れるのではなく、一緒にバビロンに連れて行かれそうになりますし、彼がバビロンから自由にしろと言われた際には、エジプトに逃れようとする人たちとともにいることを選び、その地で死を迎えることになります。安全なところに自分だけ逃れようとするのではなかった。
エレミヤは捕らえられた際に「違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない」といいましたが、彼が落ちのびようとしていた場所はどこか?それは神様ご自身です。仮にバビロンに落ちのびようとしても、そこに神様がいなければ何の意味もありません。神様がそこにいるからこそ、神様が彼の人生に関わる、住まわってくださっているからこそ、そこに命が溢れるのです。神様ご自身が彼の、私たちの人生をその愛で、恵みで潤して下さるのです。本当の安全は、本当の平安は、神様が与えてくださる。私たちの隠れ場となってくださる。神様ご自身があなたの魂、あなた自身を守られるのです。
そんなエレミヤの様子を聞いたゼデキヤ王は人をやってエレミヤを召し寄せます。↑の前の箇所で神様はエレミヤに祈ってください、と言っていたし、もしかしたら神様がまた何か語られたのかもしれない、自分たちの助ける道を示されたのかもしれない、と考え。彼もまた落ちのびる道を探っていたのです。
そのゼデキヤが「主から、みことばがあったか」とエレミヤに尋ねると、彼は「ありました」と答え、「あなたはバビロンの王の手に渡されます。…あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。今、王さま、どうぞ聞いてください。どうぞ、私の願いを御前にかなえて、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。そうすれば、私はあそこで死ぬことはないでしょう」と続けます。バビロンの手に渡される、なんて言えば自分がどうなるか分からない、とはエレミヤは考えません。むしろ逆のことを言った偽預言者たちは死んだ、ないし彼らは包囲するバビロンを恐れ、離れていったではないか、と。しかし今預言される、見捨てていない神様に目を向け、耳を傾けるようにエレミヤは訴えるのです。
バビロンの王の手に渡される、それは普通の感覚では終わった、という感じでしょう。しかしそれを語られたのは神様であり、神様はその先に将来と希望のある計画を用意されている。彼らの引かれていく先に神様も共におられ、預言者や神様ご自身がたてられたイスラエル人を宦官としてバビロンの中枢において国の内部から支え、時には人となって生まれてくる前のイエス様も直接助けに来られることもあった。彼らが神様に立ち返り、神様が彼らの内に住まわれる、神様と共に歩む道へ立ち返ってほしいと導かれているのです。その手を握るのは、世ではない、サタンではない、たとえ死の谷間を歩むような時もあなたの手を取り共に進んでくださる神様、その恵みを展開される神様があなたの手を取ってくださっているのです。
エレミヤはただ自分が助かりたいから今のところから助けてほしい、と言ったのではなく、エレミヤを通して神様が語られる、その神様まであなたは捨ててはいけない、と訴えていたのではないか。神様がエレミヤを守ってくださる、その確信のもと、神様から離れてはいけない、と。そしてエレミヤは監視の庭という中ではありますが比較的自由な生活を送ることになります。神様はゼデキヤを通してパンを彼に与えてくださっていた。神様に従うエレミヤに神様の恵みは途切れることはなかった、食事用のパンと共に神様の恵み、霊的なパンも確かに彼とともにあり、神様の恵みが日々彼を苦難の中にあっても養い守ってくださっていたのでした。
神様は、今日あなたにいのちの道と死の道を用意されている。私たちが救いはどこにあるのか、と彷徨う、世の様々な勢力、思い煩い、何より罪、サタンに囲まれ迫られる中で、私たちに生きる道を、その天の窓を開かれ、御子イエス様を遣わして下さり、私たちの間に住まわせてくださった、同じ人となって生まれて来て下さって、同じ重荷を背負いながらイエス様が神様への道を示されていった、神様の愛を惜しむことなく与えてくだった。最後はご自身のいのちを私たちの罪の身代わりとしてくださり、背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。神様のパンによって、神様の恵みによって、イエス様という命のパンによって私たちは生きるものとされる、神様がこのイエス様のいのちにあって私たちに飢え渇くことがないよう日々、その恵みを注いてくださっているのです。
今日この神様が匿ってくださっている場所に帰りましょう。神様はあなたを待っておられる。私たちは何ものをも恐れる必要はありません。神様が御子イエス様のいのちにあって開かれた、与えられたこの命なのですから。私たちは最後まで神様を求め続けよう。どんなことがあっても諦めず神様のもとに行きましょう。神様が私たちの魂を生き返らせてくださる、この神様があなたと共に今日も進まれるから。たとえ世的には厳しくとも、神様がくださる御言葉が、恵みが、愛が今日あなたを生かし、導いて下さるから。この神様に大いに期待しようではありませんか。