「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代に、主からエレミヤにあったみことばは、こうである。『レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。』そこで私は、ハバツィヌヤの子エレミヤの子であるヤアザヌヤと、その兄弟と、そのすべての息子と、レカブ人の全家を率い、彼らを主の宮のイグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは、首長たちの部屋の隣にあり、入口を守る者シャルムの子マアセヤの部屋の上にあった。私は、レカブ人の家の子たちの前に、ぶどう酒を満たしたつぼと杯とを出して、彼らに『酒を飲みなさい』と言った。すると彼らは言った。『私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、【あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め】と言ったからです。それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。しかし、バビロンの王ネブカデレザルがこの国に攻め上ったとき、私たちは【さあ、カルデヤの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう】と言って、エルサレムに住んだのです。』」
エレミヤ書35章1-11節
私たちには学ぶという能力があります。学ぼうとする力と言いますか。ある先生が、学習、習うという事は、自身を一度白紙にしてはばたく事なんだよ、と仰っていたのを今でも覚えています。私たちがあれはこうだ、これはこうだ、とこだわるの大事なのかもしれませんが、謙遜な心で学ぶとき、私たちは大きく成長することができるのではないか。では誰から学ぶのか、神様から学ぶ、という事を忘れてはいけません。神様はこの天地万物を造られた方、この世の全てに勝る方、あなたを愛するためなら御子イエス様のいのちをさえ惜しまず与えられる方、それだけあなたを愛される方があなたに語られることに信頼しよう、この方が成されることに信頼しよう。神様はそうして日々、私たちをイエス様の似姿という最高の恵みに近づかせていただけるのですから。
さて、↑の前の章までバビロン捕囚がいよいよ完全になされようとするゼデキヤ王の末期の時代、神様は「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と希望を語られ、彼らを見捨てず、救わんとされる神様が共にいて希望へと導くことを語られてきた神様ですが、この時、南ユダの王、ゼデキヤ王の治世でイスラエルは完全にバビロンに囲まれてしまいます。しかしそれでも見捨てられない神様は、彼らをやがて解放する日が来るのだから、状況によってコロコロ態度を変えるのではなく、いつも神様に真っ直ぐに帰ろう、神様があなたを本当のいのちに帰らせるから、と訴えてこられました。
ここで話は20年ほど遡りゼデキヤ王の前のエホヤキン王、その前のエホヤキム王の時代にまでさかのぼります。とはいえ、↑にある通りバビロンによる危機が迫っていたことには変わりはありません。そのエホヤキム王の時代に神様はエレミヤを通して「レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ」と語られます。
まずこの「ケニ人」という人たちですが、イスラエル部族と深い関係を持っています。彼らはかつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として400年捕らえられていた時、その脱出のリーダーとして立てられたモーセの従兄弟にあたります。モーセは出エジプトのリーダーとして立つ40年前、一時的にミデヤンという土地に逃げざるを得なくなったことがあったのですが、その際そのミデヤン人の一人、エトロ(別名レウエル)の娘、ツィッポラと結婚します。その時、彼らの部族ととても親しくなったのでしょう。出エジプトをしその荒野の旅路の際、エトロ(レウエル)やその息子ホバブがとても助けになっていました。モーセは彼が元の家に帰ろうとしていた際、「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです」と誘うのですが、彼が「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります」というと、「…私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです」とそれでも願い出るほどでした。
そして、この後このホバブはモーセたちイスラエルの民に加わり、約束の地に入っていった、それがこのレカブ人にあたるわけです。彼らはモーセの内に働かれる神様の、またモーセが言っていた「主=神様」がくださる幸せ、分かち合われる幸せを願い続けた、他の誰でもない、神様からの幸せを、分かち合われる喜びを。
イスラエルの民は、その後約束の地に入ってから先住民と言いますか、イスラエルの民がエジプトにいる間に住み着いたものたちですが、カナン人たちの文化に染まっていきます。現地のことは現地の人に聞いた方が良い、とその文化を取り入れていきました。それはイスラエルの歴史に影を残し、何かあるごとに神様ではなく、周りに倣う。日本には郷に入っては郷に従え、という言葉がありますが、しかしそれが正しくなければどうなるでしょう?自身を失い、神様のくださった姿を失っていくわけです。
しかし、彼らレカブ人は違いました。彼らはカナンの地に住みながら、決してカナンの文化に染まらない独自の生活様式を保ちました。特に、↑の「あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め」というヨナダブの教えに従って、カナンの土地の代表産物であるぶどう酒を飲まず、不動産を持たず、天幕に住んで、従順な生活を送っていました。ちなみに、ヨナダブというのは北イスラエルを絶望的な状態に陥れたオムリ王朝打倒のために、エフ―という神様からたてられた人と協力して立ち上がった人です。
ヨナダブという人がなぜそのような教えを残したのかはっきりしませんが、そうしたことで自分を失う、ないし外国の宗教がオムリ王朝など、国を堕落させていったことから、神様という天幕に留まる、神様の内に留まる、新約聖書のパウロという人が聖霊様に満たされ書き残した手紙の中の、「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」という言葉から、魂が放蕩されることがないよう、神様の内に留まり、この神様がくださる聖霊様に満たされること、神様のくださる一つ一つの恵みに生きよ、と言いたかったのかもしれません。レカブ人に酒を飲ませて見よ、という言葉から、彼らはゆるぎない神様への信頼があったように思えてなりません。
彼らは、エレミヤが言う通りに「レカブ人の家の子たちの前に、ぶどう酒を満たしたつぼと杯とを出して、彼らに『酒を飲みなさい』と言」っても、「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました」と答えはっきり拒否します。「あなたがたが寄留している地の面に長く生きるため」、神様が与えてくださっている地で生きる事を何より願った、神様が与えてくださっている恵みを求め続けていたのです。
「長く生きるため」というのは、彼の何となくの願いから来ていたわけではありません。彼らの祖先、ホバブはモーセを通して神様が「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである」と語られているのを聞いていた、彼らは、神様から離れては本当の意味で神様のくださる恵みの中の長い命を生きられないことを知っていた、だから神様にこだわり続けたのです。
酒について、確かに神様は律法の中で「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない」と神様は教えています。ホバブもこの律法が与えられたと聞いたので聞いていると思います。ナジル人というのは自ら志願して、あるいは神様の任命を受けることによって、特別な誓約を神様に捧げる人です。神様に全てを捧げつくす、と言えばわかりやすいかもしれませんが、そこから見るに、彼らは神様に自らを捧げつくそうとしている、その思いに妥協をしたくない、神様に捧げつくす、神様の恵みをどこまでも求めていたわけです。それゆえに、バビロンの危機が迫る中でも彼らは諸外国の神々を拝む国ではなく、神様の与えてくださっている地エルサレムに、神様に避難してきたのです。
その彼らの姿を見背ながら、神様は神様の声に耳を貸さず、預言者たちの声にも聴き従わないユダの人々の姿勢に目を向けさせ、今こそ神様に帰るよう訴えるのです。神様はすべてを捧げつくして下さった、あなたの内に完全な愛を現し、救うために、御子イエス様をあなたの内に人として生まれさせ、その間に住まわせたのです。そして他には比べることも変えることもできない救いをもたらすため、神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりとなられ、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
イエス様は今や私たちの避難場所となり、完全な愛がそのあなたの内に現されるのです。私たちはもう酒と言いますか、自分たちを満たすためにさ迷い歩く必要はない、捜し歩く必要はない、神様が既に完全な愛をここに現わされたのですから。私たちはこのイエス様が与えてくださったいのちの内を歩もう、この完全な愛を、恵みを求め続けよう。これに勝る愛はどこにもない、イエス様の御名の他に、十字架の他に救いはないのですから。このイエス様が導かれる、命をもって分かち合われた、開かれたこの道、命の内を、私たちも心を注ぎだし、歩もうではありませんか。