―本物の正義が成される日― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、【主は私たちの正義】と名づけられる。』まことに主はこう仰せられる。『ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。またレビ人の祭司たちにも、わたしの前で全焼のいけにえをささげ、穀物のささげ物を焼き、いつもいけにえをささげる人が絶えることはない。』エレミヤに次のような主のことばがあった。『主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。』エレミヤに次のような主のことばがあった。『あなたは、この民が、【主は選んだ二つの部族を退けた】と言って話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民をもはや一つの民ではないとみなして侮っている。』主はこう仰せられる。『もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれむ。』」

エレミヤ書33章14-26節

 

世の中には色んな価値観があります。考え方が人によって違うのはまあ仕方がないと言えば仕方がないのですが、それが絶対に正しい、と言わんばかりに押し付けてこられることもありますよね。下手をすれば、言っていることが全然逆のこともあったり。それほど私たちがこれが正しい、と思うことは不安定だったりします。それは結局のところそれは、誰かから得た知識だったり経験からくるものであったりで、それは絶対ではないからです。状況によって、また生きてきた環境によっても変わりものからくるもので、それはすべての人に当てはまるものではないのです。ただ、神様は絶対的な愛をもって、永遠の愛をもって私たちを愛される。御子イエス様のいのちという最大の愛を与えてくださった、その愛が今日も注がれているのです。これに変わるものなどない、究極の愛をもって。あなたは今日どれだけ神様を求めていますか?

 

さて、↑はおおよそBC586年頃、イスラエル・南ユダの民が完全にバビロンに捕囚された後、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民たちに向けて、預言者エレミヤは、エルサレムから手紙を送ります。神様は彼らに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、字面ではない、本物の神様の愛、お心が私たちに注がれ生かされる、と語られます。神様はその希望をただ伝えるだけではなく、エレミヤの出身の土地を買わせることによって、必ず神様がこの地に連れ戻して下さる事を約束されるのでした。神様が、彼らを回復させる、取り戻すんだ、だから神様に帰れ、と訴えるのです。神様にできないことはない、その神様が彼らを必ず連れ帰り、悲しみから救い出し、幸せにされる、私たちの理解を超えた大いなることをなされることを約束されるのでした。

 

なお神様はエレミヤを通して「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる」と語られます。

 

「正義」がある、というのは安心感がありますよね。もちろんどんな人が統治するのか、という事が問われるでしょう。世界中を見回しても、誰が上に立つのかによって全然違うのが見えると思います。まあこの日本もそうですが、家庭、会社、学校、身近なもので見ても同じですよね。

 

バビロン捕囚前の北イスラエルにしても(北イスラエルを捕囚したのはアッシリヤ帝国ですが)、南ユダにしても、悪王というほどの王が統治していました。そもそもの話が本来の王は神様ご自身なのですが、その神様に頼らず、外国の神々、偶像を取り入れただけではなく、それによって国を苦しめることになりました。豊穣と称して子どもを生きたまま火に通したり(表現をこれでも柔らかくしていますが、実際はここには書けない行為を子どもにしていた)、淫行を伴う祭りを行ったり、神殿に男娼とかいたり、もうすべてが乱れていたのです。そしてその乱れが国を苦しめ国民を苦しめ、神様への希望から心を引き離し、ついにはそのぼろぼろになった国はアッシリヤ帝国・バビロン帝国に捕囚されていくのです。いったいこの先どうしなっていくのか、希望を彼らは失っています。

 

そのような中で神様は今語られるのです、「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる」と。神様はそれを、「いつくしみのことばを成就する」と約束されるのです。この荒んだ、どうやったら生き返るんだ、と思うような状況の中に、彼らのいのちの中に、「正義の若枝」を「芽生えさせる」と。かもしれない、ではなくさせる、神様がそうしてくださるのです。俺が俺が、ではなく自己実現のために、誰かが権力や正義、王の座を奪い取るのではない、本来の王の王たる神様がたてられるのです。

 

神様は、荒んでしまった私たち、失われた私たちを見捨てませんでした。もう一度回復させることを選ばれたのです。ではその正義の若枝とは誰か?イエス様です。イエス様が私たちの主として住まわれる、そのために神様は御子イエス様を神であられるのにもかかわらず人として生まれさせてくださり、私たちの間に住まわれたのです。放置されるのでもなく、まあ時々助けるよ、というわけでもなく、彼らを、また私たちを丸ごと救わんとするために来られたのです。

 

ただ「見よ。その日が来る」といいますが、これが語られているエレミヤにしても、民にしてもそれをまだ見ているわけではありません。実際にイエス様が人となって生まれてこられるのはこの時から600年ほど先の話になります。じゃあ神様はそれまでの間なにもされないのか?といったらそうではありません。私たちが苦難の時、いつか助ける日が来るから、それまで待っててね、我慢してね、と仰られる神様ではありません。バビロン捕囚中の話をこれまで何度も分かち合ってきましたが、彼らが捕囚されている最中も、神様は彼らを見捨てず、預言者を置かれ、希望を語り続けます。そして希望を現実とされたと言いますか、イザヤやエレミヤを通して語られていた希望は確かに捕囚中もあり、バビロンの宦官にイスラエル人を神様が据えられ民族存亡の危機から守ったり、人となって生まれる前のイエス様が直接助けに来られたりと、見捨てているわけではない。つまり、神様はやがて来る完全な救いの日を迎えさせてくださる、そこに神様は彼らを、私たちを導いて下さるのです。

 

彼らにとっての、私たちにとっての「その日」というのは見えないかもしれない、しかし神様の愛は、その種は蒔かれている、その日を迎えさせてくださる神様があなたの神様となられ、治めてくださるのです。守り導いて下さるのです。いや、あなたがイエス様を救い主として受け入れるその瞬間からもうその日は始まっている。その日が来たら終わりではなく、永遠なる神様がおさめられるその日々は始まるのです。神様は、あなたに本当の救い、永遠のいのちをもたらすため、あなたの内を支配する世の思い煩い、様々な支配者、何より罪、サタンの手からあなたを取り戻すため、壊されてしまったあなたを取り戻すために、御子イエス様を遣わして下さったのです。神様であられるのに、人となってまで来られたのです。このどん底の世界に、偽りが支配するこの世の中に。

 

しかし、イエス様の12弟子の一人だったヨハネは人々の反応について「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と、イエス様と3年半共に歩んだ彼は見て、記したのです。せっかくその日を迎えさせてくださるために、救いの日を迎えさせてくださるために、人々はこれを拒否した、と。

 

しかし、「この方を受け入れた人々、すまわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」、なるのです。イエス様は私たちのこの痛みも罪も、一切を打ち砕くため、私たちの身代わりにこれら一切を、罪も背負われ、十字架にかかられ、身代わりに罰せられ、死なれました。しかし3日目によみがえられたことによって、まさにこのヨハネが言うように、イエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子として迎え入れられるのです。あなたのその日、復活のイエス様があなたの内に住まわれすべ治められ、守られる、導かれる、命さえあなたのためにならかけられるイエス様があなたと共におられる、この命が始まるのです。このいつくしみがまさに今まさに注がれている、成し遂げられたのです。ありえない、御子イエス様のいのちという形をもって。神様の正義がすべ治めてくださる、あなたの内に、またあなたの周りに至るまで溢れ流れていくのです。

 

絶えることのない神様のご統治が私たちにいのちをもたらされる、この神様に私たちは、↑にあるようないけにえと言いますか、心を注ぎだしているでしょうか?どれだけ求めているでしょうか。未だに偽の神を我が正義として置いていませんか?あなたのために御子イエス様のいのちとともに全てを注ぎだされるイエス様を私たちは求めないでどうしていられるでしょう。

 

神様は「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」と仰られますが、私たちは、また世は神様の造られたこの法則、神様のなされることにどうして勝ることができるでしょう。神様は決して破ることのできない法則と言いますか、その愛をもって私たちを今日守られているのです。どんなに世があなたを砕こうとしてももう、このイエス様から私たちを引き離すことはできません。私たちはイエス様のいのちにあって取り戻された繁栄、この命に注がれるあわれみを最後まで求め続け歩もうではありませんか。