―ただ一つの愛、心と道と― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エレミヤに次のような主のことばがあった。『見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。』『それゆえ、主はこう仰せられる。見よ。わたしはこの町を、カルデヤ人の手と、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取ろう。また、この町を攻めているカルデヤ人は、来て、この町に火をつけて焼く。また、人々が屋上でバアルに香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こしたその家々にも火をつけて焼く。なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行ない、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ。―主の御告げ―この町は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれをわたしの顔の前から取り除く。それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者が、またユダの人もエルサレムの住民も、わたしの怒りを引き起こすために行なった、すべての悪のゆえである。彼らはわたしに、顔ではなくて背を向け、わたしがしきりに彼らに教えるが、聞いて懲らしめを受ける者もなく、わたしの名がつけられている宮に忌むべき物を置いて、これを汚し、わたしが命じもせず、心に思い浮かべもしなかったことだが、彼らはモレクのために自分の息子、娘をささげて、この忌みきらうべきことを行なうために、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、ユダを迷わせた。』それゆえ、今、イスラエルの神、主は、あなたがたが、『剣とききんと疫病により、バビロンの王の手に渡される』と言っているこの町について、こう仰せられる。『見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。』まことに、主はこう仰せられる。『わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。あなたがたが、【この地は荒れ果てて、人間も家畜もいなくなり、カルデヤ人の手に渡される】と言っているこの国で、再び畑が買われるようになる。ベニヤミンの地でも、エルサレム近郊でも、ユダの町々でも、山地の町々でも、低地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの繁栄を元どおりにするからだ。―主の御告げ―』」

エレミヤ書32章26-44節

 

人の心は移ろいやすいですね。人間関係は状況が変わったり、知らない面を見ると態度変わったり。もう少しわかりやすいもので考えると、ブランド物や流行りなどどうでしょう。あんなに良いものともてはやされたものが次の年にはもう古い、と言われたりすることもあります。なんでだろうと思うのですが、人の理想と合わないからうまくいかないのか、飽きやすいのか。まあ確かに完璧な人も、完全なものもないです。でもだからこそ、私たちは神様を求めるべきなのです。神様は完全。神様に変わるものはなく、神様のなさることに勝るものはありません。私たちは完全なる神様を求めよう。神様のあなたへの愛は御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほどの者なのだから、そこまでされた神様があなたに成されることはいかほどか。今こそ完全なる神様に立ち返ろうではありませんか。

 

さて、↑はおおよそBC586年頃、イスラエル・南ユダの民が完全にバビロンに捕囚された後、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民たちに向けて、預言者エレミヤは、エルサレムから手紙を送ります。神様は彼らに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、字面ではない、本物の神様の愛、お心が私たちに注がれ生かされる、と語られます。神様はその希望をただ伝えるだけではなく、エレミヤの出身の土地を買わせることによって、必ず神様がこの地に連れ戻して下さる事を約束されるのでした。神様が、彼らを回復させる、取り戻すんだ、だから神様に帰れ、と訴えるのです。

 

なお神様は「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか」と語られます。これは、↑の前の箇所でエレミヤが「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行ないの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます」と祈った、その答えになります。

 

神様にとっては不可能なことはありません。人の常識ではそんなものは無理、あきらめる、と考えてしまうこともできる。人の常識に神様をあてはめて、神様の全能性を人は否定するのですが、それはあまりにもったいない。神様を世の中のものと同列に引き下げてなんになるでしょう。神様はこの天地万物を造られた方、これをだれができるでしょう。誰が人を造ることができるでしょう。この世界も、あなたも、偶然できた存在ではない、神様が造られた存在なのです。一人一人を、神様の、不可能なことはない、神様の完全な愛を、計画をあなたに現し、導きたい、生きてほしいと願っているからこそ、神様にとってできないことは一つもない、その完全な神様の一つの計画、神様に帰るように今訴えるわけです。私たちは神様を疑い、別なものをあなたの内に据えていませんか?

 

神様は「見よ。わたしはこの町を、カルデヤ人の手と、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取ろう。…また、人々が屋上でバアルに香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こしたその家々にも火をつけて焼く。なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行ない、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ…」と語られます。

 

バビロンのネブカデネザル王による完全な捕囚が起こること、神様の怒りが今燃え上がっていることが語られているわけですが、その原因として、彼らが家に置いていたバアルなどの偽の神々、このことを問題としていたのです。調べてみますと、ここで言われている町、エルサレムの町の屋根は、ちょうどバルコニーのように平らになっています。そこで一日の仕事を終えてゆっくりしたり、昼間は洗濯物を干したり、居住空間の一部となっています。そこにエルサレムの人々は、バアルの像を置き、それを拝んでいたわけです。

 

バアルにしても、他にも彼らがおいていた偽の神は、豊穣のためならと、生きた子供を火に通したり、女性を性的行為を伴う宗教行為に差し出させたり。しかし内情これらは何も答えることができないのです。それでもエルサレムの町、イスラエルはこの偶像に完全に支配されていました。

 

彼らは神様を一応は信じてはいた、まあ存在は、と言った方が良いのか。ただ、他の神々と並べていた、だから神様を信用しない、神様が唯一真の神様だと信じず、世の現実を見て、もっと他に自分に利益をもたらす神を、とモレクだのバアルだの、といった偶像を彼らは置いて拝んでいたわけです。彼らの生活空間と言いますか、彼ら自身をむしばんでいき、ついには破壊をもたらしてしまったのです。彼らは彼らを助けることはできなかった。神様が本来与えていたはずの土地、いのちそのものを他のものにとってかえようとして何になりましょう。神様がくださっている命に、日々に何が勝ることができるでしょうか。私たちは神様という現実、神様が愛されていることを、なされていることをちゃんと見ていますか?自分には合わない、考え方が違う、と背を向けていませんか?

 

神様はあなたが若いころから、いや生れる前からその愛を注ぎ導いてきたのです。私たちは神様なしで生きることなどできない、むしろこれらの偶像、偽神、サタン、罪、これらにしはいされて、本来神様があなたに与えようとしていた最高のあなたの姿が、あなたが奪われてしまう。それを神様が黙ってみていられるでしょうか。神様が罪に走り好き勝手に生きるあなた、あるべきあなたが失われていく事をいいよいいよ、と黙っていられるでしょうか。

 

神様のあなたへの思いは、それでも「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。…わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす…」と語られた通りです。

 

神様は、この怒り、裁きを御子イエス様に背負わせることであなたを取り戻すことを決断されました。神様はあなたが滅ぼしつくされるのではなく、生きる事を願われている。神様はあなたから顔を背け、背を向けるのではなく、あなたにそれでも向き合い、救い出すために、御子イエス様にあなたの罪の代償を背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、このイエス様のいのちにあって今私たちは取り戻されたのです。あなたを救うために神様にできないことなどなかった。御子イエス様のいのちを身代わりにすることさえ。普通に考えたらあり得ないこと、でもそのありえないことをあなたのために成し遂げてくださったのです。そのいのちにあって今日私たちは生かされているのです。

 

この愛に勝るものはありません。とってかわれるようなものはありません。これだけの愛を受けた今、私たちはどうして神様を疑う事ができるでしょう。たった一つの愛、しかしそこに神様の全てが込められた、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えられた、その愛が、希望が今日あなたに注がれている。神様の真実の愛があなたに注がれ、あなたを幸せにしようと今日もその御手が伸ばされています。私たちはこの何にも代えがたい神様の愛に立ち返り、これに生きようではありませんか。神様に不可能なことはない、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちを惜しまず与えられた、そこまでされた神様からもう顔を背けることなく歩もうではありませんか。そこには神様が与えてくださっている唯一真の幸せが、救い主イエス様が待っているのだから。